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『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』のキジブラザー/雉野つよしに象徴される「地の時代の価値観」へ執着することの虚しさ

すっかり感想を書かなくなって久しい『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』の35話を久々に見てみたが、相も変わらずストーリーは井上・白倉コンビらしくメチャクチャだなあと思った。
ただしキャラクターはそれ相応に立たせようという気概は感じられ、やはり以前からそうだったが「ドンブラザーズ」の中で一番キャラクターが立っているのは雉野つよしである。
他のメンバーが癖は強いながらもある程度ヒーロー性という名の補正で行動を抑制しているのに対して、雉野つよしはそういうヒーロー補正が全く働かない「人間性の象徴」として描かれている。
そしてもっといえば、これは私の見立てだが雉野つよしという男はある意味で「地の時代」の象徴であり、それが令和という「風の時代」になるといかに虚しい存在かが示されているようだ。

35話で知らされた衝撃の事実(?)だが、要するに雉野が愛していた「雉野みほ」という妻は所詮獣人が作り出した「虚像」でしかなく、それと知らずに雉野は虚像を愛してしまっていたのである。
一方でその雉野みほは本来夏実という別の女性であり、その夏実とは指名手配犯である犬塚の彼女であり、その意味で夏実は「実態」の象徴であったということも判明した。
しかしその事実を受け入れられない雉野はその行き場のない感情を犬塚に押し付け、彼が指名手配犯であることを利用して警察に売り渡すという裏切り行為に走ったわけだ。
だから単なる三角関係というわけではなく、ありがちな昼ドラの展開は避けられたわけだが、一番滑稽だったのは35話冒頭で雉野がメンバーたちに説教を垂れているシーンである。

「そんなの、そんなの僕の自由だろ!いつもお前が正しいわけじゃないんだ!」(タロウに対して)
「目上の者を呼び捨てにするな!」(はるかに対して)
「お前は金もないのになんでランチを食べてるんだ!?また俳句で払うつもりか!それが人として正しい生き方なのか!」(猿原に対して)

なんかもう見ていて「うわあ……」という気持ちにさせられるが、うだつの上がらないサラリーマン体質といい、雉野を見ていると何だか時代に取り残された可哀想な人を見ているようだ。
ではなぜその雉野の姿が生々しく見えるかというと、実は表面化していないだけで現代日本の男性サラリーマンのほとんどがこういう人ばかりではないかということを身につまされるからである。
いくら「風の時代」といってもまだ日本人には馴染みのないものであり、ある意味ではこれを作っている井上・白倉コンビの潜在意識をそこに写し取ったようにも見えるのだ。
おそらく井上先生も白倉Pも今更自分たちが歴史の長いスーパー戦隊シリーズで何かを残せるなどとは思っていないだろうし、またコアなファン以外本作を好意的に見ている人はいないであろう。

だが、そんな2人が作っている本作の中で一番キャラが生きているのが皮肉にも一番普通っぽく見えて中身は一番危ない雉野なのだが、私は彼こそ現代日本の闇の象徴ではないかと思うのだ。
時間に追われてセカセカと自分を押し殺して上のいうことを奴隷のように聞いて、家では妻に満たされてしまいその魂はすっかり汚れ切って輝きを完全に見失ってしまっている。
「正しさ」などという、それ自体なんの保証も客観性もないものを盲信し、それに反したことをしている他の者を認めることができず、狭い枠の中でしか物事を判断できない。
まあはるかの「目上の者を呼び捨てにするな」はその通りだとしても、タロウや猿原に対しては言いがかりもいいところであり、その後「すみません」と立ち去ってしまう。

雉野という男はどうしようもないくらい卑屈で矮小な男なのだが、私が今回テーマにしたいのはなぜこんなにも雉野という男の存在が見ている側の共感を呼ぶのか?という話である。
彼は「家庭を持てば幸せ」「男は社会に出てバリバリ働いてナンボ」「男は女と結婚することで初めて幸福を得られる」という地の時代の価値観をそのまま体現したような男だ。
地の時代、即ち明治維新〜昭和まではどんな時代だったかというと「力こそパワー」の時代であり、物に囲まれて地位・権力・名誉を手にすればそれが至高であると考えられていた。
社会の為に滅私奉公で働き自分を犠牲にしてでも会社や家庭のために尽くすことが尊いとされ、「24時間戦えますか?」なんてCMが出てしまうくらいに異常な働き方をしている。

そしてその生き過ぎた権威主義の末路がどうなったかというと昭和天皇の崩御、バブル崩壊に伴う大量のリストラと不景気、そして冷戦の終結に伴い世界各地で頻発するテロや紛争……。
昭和時代の歪みが一気に平成になって押し寄せてきて、人々はそのツケをずっと今でも支払い続けており、誰もが夢なんて持つことが許されない時代となってしまった。
SMAPの「正義の味方は当てにならない」がそうだが、この歌では正面を切って「巨悪」が去るとともに「ヒーロー」もまた不在であることを歌っている。
そしてこの歌が発表された1991年にやっていたスーパー戦隊シリーズが正にヒーロー不在の中で「ヒーローとは何か?」を問う『鳥人戦隊ジェットマン』であることも時代が求めた必然だった。

遮二無二働いて稼ぐことが必ずしも国の発展や幸福に繋がるわけではないということを知らされたからこそ人は次の時代のヒーローを探し求めて動いているのだが、それもかつての正しさを持たない。
例えば私が平成のニュースタンダード像だと思っている『星獣戦隊ギンガマン』にしたって、あれは全盛期の高寺Pと小林靖子のコンビに加えて様々な条件が整ったからこそ出来た時代の幸福の産物である。
私がブログで書いていた「ギンガマン」の感想をご覧頂ければ分かると思うが、「ギンガマン」は「ジェットマン」が起こした変革と「ジュウレンジャー」以降の試行錯誤を踏まえて作られた作品だ。
要するに「概念としての80年代戦隊を90年代戦隊のビジュアルと技法で再構築した作品」だが、同時にこの「風の時代」に先駆けて「DAO(分散型自律組織)とは何か?」を描いた作品ともいえる。

1人1人の戦士が独立した強さを持ちながら5人揃うと尚強い戦隊、それが「ギンガマン」の目指した姿であり、「星を守る=公」も「ギンガの森を取り戻す、ヒュウガを救済する=私」も双方を満たした作品だ。
しかし、「ギンガマン」という作品でそれが可能となったのは宇宙海賊バルバンとの戦いに備えて3,000年もの間臨戦態勢で準備していた戦闘民族だからという設定が大きく影響をしている。
つまり彼らが立っているスタートラインは「ゴレンジャー」「サンバルカン」「チェンジマン」「オーレンジャー」のような軍人戦隊ばりのプロフェッショナルであり、更に「フラッシュマン」にも近い。
逆に言えばそれくらいまでやって初めて理想のヒーローが誕生したわけだが、そのヒーロー像はあまりにも理想主義過ぎたがために多くの後続作品が多かれ少なかれ真似するようになってしまった。

特に横手美智子氏が書いた「天装戦隊ゴセイジャー」や香村純子氏が書いた「動物戦隊ジュウオウジャー」、そして山岡潤氏が書いた「騎士竜戦隊リュウソウジャー」は露骨な「ギンガマン」の擦り倒しだ。
しかしその殆どが私から見ていずれも原典となっている「ギンガマン」を超えられていないのだが、それは所詮表面上だけを真似して中身をきちんと詰められていない「鵜の真似をする烏」でしかないからである。
これは何もファンの欲目として言っているのではなく事実としてそういうものであり、「ギンガマン」が描いた姿というのはあまりにも理想にすぎる、すなわち現実的でないということになってしまうのだ。
歴代トップクラスの力と技に団結力とそれに相応しい純粋な戦士としての心構え、これらを全て寸分の狂いなく持ち合わせている戦隊を少なくともそれ以後の作品で私は見たことがない。

話が脱線したので元に戻すが、この「ドンブラザーズ」という作品は今のところCO(中央集権型組織)なのかDAO(分散型自律組織)なのかは判別つかないが、少なくとも彼らはプロフェッショナルの戦士ではない
だからこそその中で戦士に向いていない「人間そのもの」であり「地の時代の価値観」に取り憑かれた者である雉野つよしは一番今の時代に求められるヒーロー像からは程遠い存在である。
そもそも犬塚を警察に売り渡してしてやったりみたいな薄ら寒い笑顔を浮かべている時点でまともな人間ではないことは確かであり、こんな姿に子供達が憧れを持つかと言えば「No」だ。
そして雉野もそんな自分の内側に隠された醜さやみっともなさを知っているからこそ、それを「同じ人を好きになっていたから」という理由で犬塚にぶつけるしかないのである。

つまり雉野は「指名手配犯の犬塚なら何をしても許される」というとんでもない甘えを働いたわけであり、そのくせ誰にも嫌われたくないという風に人の目を気にする日本人そのものだ。
自分軸で生きているようでいてどこまでも「雉野みほ」という他人軸で生きていて、それ以外に明確な軸や芯となるものを持っていないが故にそれを失ってしまうと精神が瓦解してしまう。
雉野はその後揉め事を起こして犬塚と同じ牢屋に打ち込まれることになるのだが、犬塚も雉野も生き方が正反対なだけで本質的にはうだつの上がらない日々を送っている同じ穴の狢である。
でもそれ以外に自分が生きたという証を立てることができないから尚更ドンブラザーズに自分の居場所を求めて動くしかなくなり、いかに彼らの関係性が上っ面だけで成り立っていたかがわかるだろう。

しかし、これは決して虚構の上のことではなく今のSNSを通したネット上での人との繋がりがそうであり、雉野も犬塚も言ってみれば承認欲求を満たしたいネット民と大差はない
そんな話をニチアサという枠で描くのが適切かどうかは別として、ここまで来てようやく「ドンブラザーズ」が特に犬塚と雉野を通して描こうとしているものが見えて来た気がする。
『仮面ライダー555』の草加雅人がそう出会ったように、誰の心の中にも雉野つよしは存在するわけであり、いつの間にか地の時代の価値観に縛られて生きていないかを考え直してみよう。


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