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漫画版『真ゲッターロボ』感想〜闘い無くしてロボット漫画に発展なし!〜

漫画版『ゲッターロボ』の感想・批評もこれが3回目となるが、やはり何度も何度も読み返す度に石川賢という漫画家は驚きの対象であり続ける
ゲーム『スーパーロボット大戦』シリーズで改めて真ゲッターロボのデザインを描き下ろした彼は、改めて『ゲッターロボ號』では終ぞ語られなかった事故の真相が語られる。
早乙女研究所で起きたあの事故が1986年に起きたロシアのチェルノブイリ原発事故がモデルなのかもしれないことを読者に想起させうるが、それを石川賢は真ゲッターの異次元のアクションで裏切った
仮想現実的な要素を入れていながら、石川賢という漫画家が読者を引きつけ感動させるのは決して物語のテーマでも哲学でも進化でも何でもなく、漫画の表層に徹底して描かれる過剰な細部の運動故である

漫画『真ゲッターロボ』は元々正式なロボット漫画として想定されたものではなく、当初はゲーム『スーパーロボット大戦』のアンソロジーに寄稿され、それが後に「ゲッターロボサーガ」として再編成されたものだ。
したがって、本来であれば単なる後付けによるスピンオフにして、後出しジャンケンながら前日譚として紡がれる本作は決して単なる過去の掘り下げというだけには止まらなかった。
どんな作品だろうと、常に読者が困惑・驚きを感じざるを得ない「闘いの現在」を、石川は容赦なく読者に突きつけ、更には登場人物にまでそれを突きつけて心をへし折りにくる。
だが、どれだけ圧し折られても人は何故だかその圧倒的な存在感に引き寄せられてしまう、そう感じさせるだけのものが常に彼の漫画には存在するのだ。

今やすっかり壮大なサーガと化した『ゲッターロボ』であるが、私は彼の作品を読む度に常に「漫画とは何か?」について正されている気がするのである。
特にこの『真ゲッターロボ』に関してはその面が強く出ており、『ゲッターロボ號』だと単なる進化論の潜在的な可能性「のみ」で止まっていた未来が表層に具現化した。
前日譚として歴史の一部を補完するだけだったも筈のものが更に凄惨な闘争の幕開けになろうとは誰が予想しえたであろうか?
今回はそういう意味で、漫画版『真ゲッターロボ』が何を我々に見せつけ語りうるか、その過剰な絵の運動が我々の感性をどう刺激するかを論じてみたい。


闘い無くして漫画に発展なし!


石川漫画を読む度に痛感することなのだが、石川賢の漫画はどれもそうだが常に『闘い無くして発展なし!』という、それ自体ごく当たり前の事実を突きつけてくる。
最初の『ゲッターロボ』に関する記事で「石川賢は「顔」と動きの作家である」と褒めたが、こんなのはもう言い尽くされていることであり、永井豪も石川賢について褒めたのは「アクション」だ。

--永井さんから見て、石川さんはどんなマンガ家でしたか?

器用だし、筆は速いし。キャラクターをいつもたくさん描いてもらっていたせいか、モブシーンがめちゃくちゃ得意になっちゃってましたね。わざわざ自分でもモブシーンを作って描いたりしていた。とにかくキャラが動いているのが好きで、アクションの演出も上手です。彼の才能は常に感じていました。

やはり『マジンガーZ』の産みの親がいうだけあって批評家とても超一流のようだ、モブシーンもそうだし、とにかく「顔」と「アクション」が石川賢の売りだということを述べている。
そんな彼はその漫画の世界からこちらに向かって飛び出すような迫力を持ったその細部から、常に我々の瞳に対して「変容しなさい」と訴えてくるのだ。

とにかく彼の漫画はひたすら登場人物が「闘う」のであり、それもいわゆる「正義感」「使命感」「運命」「宿命」といったものすら超えたもっと純粋な「闘争本能」のみに突き動かされている。
男が一々暴れて喧嘩するのに理屈は要らない、ただ自分を脅かす強大な敵や悪の侵略者がやって来たら同じくらいのゲッターロボという強大な力を手にして本能の赴くままに殺すのみだ。
それはこの『真ゲッターロボ』という漫画でも流竜馬が口にしている。

自らを脅かす存在なら容赦なくぶっ潰す、そこに中途半端な和解や話し合いといった概念は微塵も存在せず、ただただ「倒すか倒されるか」という弱肉強食しかそこにはない
よく、『ドラゴンボール』を語る時に「孫悟空はヒーローではなく戦闘狂」という人がいるが、私に言わせれば石川漫画の主人公たちの方がよほどタチが悪い戦闘狂である
しかも「ドラゴンボール」は「死人復活」と「悪人の善化」という穏やかな「救い」を残しているが、石川漫画にはその「救い」すら一切ない、過酷な生存競争しかないのだ
そしてそれは「人類同士の争い」としてのロボアニメを作った富野由悠季、そしてその先人が積み上げてきたものを最終的に全て裏切る方向に突っ切った「エヴァ」の庵野秀明すらそのステージには立てていない。

おそらく、石川賢が独自に派生させた「ゲッターロボ」「魔獣戦線」「魔界転生」「虚無戦記」といった永遠の闘争に匹敵しうる格の物語とキャラを出せるのは永井豪のみである。
「ガンダム」「エヴァ」が最終的に「思想」「内面」といったところに帰着してしまい、「永遠の闘争とそれがもたらす人類の革新」といったものは頓挫せざるを得なかった。
しかし、石川賢はとにかく漫画を通じて作り手にも受け手にも「闘い続けることでしか人類に生き残る道はない」ことを突きつけてくるし、そんな石川賢が促す「闘争と進化」に永井豪は時間をかけて追いついた。
それこそがマジンカイザー、マジンエンペラーG、そして遂に『スーパーロボット大戦V』でツーショットが実現したマジンガーZEROであり、結局ガンダムやエヴァではどこまで行こうとダイナミックプロには敵わない。

二次創作とはいえこのツーショットにガンダムとエヴァが入れない理由は簡単、マジンガーとゲッターこそがロボアニメの歴史の開拓者にして、永久に進化し続ける闘争本能と潜在能力を秘めているからだ。
闘い続ける者だけが更なる進化を可能とするのはどこの世界でもそうなのだが、ロボット漫画というジャンルにおいてその「永遠の闘争と進化」を豊かな細部で肯定するのが石川漫画の1つの特徴である。

「事故」ではなく「歴史的テロリズム」であったゲッターVSアンドロメダ流国


さて、いよいよ本格的な『真ゲッターロボ』の批評に入るが、本作で最大の見所とされているのはやはり何と言っても真ゲッターロボ VSアンドロメダ流国であろう。
ここでやっと『ゲッターロボ號』で終ぞ語られずに終わった早乙女研究所の事故の真相が語られるわけだが、それは「事故」ではなく「歴史的テロリズム」だった
アンドロメダ流国は遥かなる未来でゲッター艦隊によって自身の故郷を滅ぼされてしまい、そうなる前にゲッター艦隊ができる前の過去に戻って「ゲッターが存在しない世界」を作ろうとする。
散々使い古された「タイムトラベルSF」を用いての歴史改変というとんでもない悪手に虫野郎どもは手を出してしまうのだが、これこそが新たなる闘争の始まりだ。

真ゲッターロボを駆る竜馬と隼人はそのアンドロメダと戦う中で遂にゲッターロボの最終進化形態「ゲッターエンペラー」を目撃するわけだが、この過剰なまでの細部を語ることこそ読者に許された唯一の自由であろう。

ゲットマシンの時点で惑星を軽々と破壊できる力とサイズを持ち、合体するだけで軽々と一世紀の時間が流れ、さらに合体するときの衝撃に伴うエネルギーの奔流で周囲にわる惑星を軽々と消滅させてしまう。
かのイデオンやガンバスターですらも可愛く見えてしまうほどに「デカいやつが最強」のシンプルかつ大胆な原理で動くゲッターエンペラーだが、静止画でありながらまるで物体そのものが動いてるように見える。
これだけのサイズのロボットを漫画で動かすことなど本来不可能なのだが、ここで石川賢はうまくアンドロメダ側の芸人ばりのリアクションや台詞回し、さらに溢れ出るエネルギーによってアクションとしているのだ。

動かぬ箱に見えてしまいかねないゲッターエンペラーをその外にある事物を動かすことにって実際に動いているように見せるという手法によって、本来なら両立し得ない「動くこと」と「動かないこと」を破綻なく実現している
それを更に竜馬と隼人のリアクションによって、竜馬がゲッターの進化の先に純粋な恐怖を感じて「乗らない」と決め、隼人は逆にゲッター線に惹かれその先を見ようとすることでエンペラーの凄さと恐ろしさを表現した。
その圧倒的な存在感と威力故に下手するとゲッターエンペラーや真ゲッターロボが悪党に見えかねないのだが、アンドロメダの目的はあくまでも宇宙の支配と征服であり、決して被害者でも何でもない
後の『ゲッターロボアーク』ではアンドロメダの連中は宇宙へ進出し瞬く間に植民地支配を進めていく人類を殲滅し、最後の拠点として地球に残る人類を殲滅しようとした大悪党であることが明らかになっている。

故にこの遥かなる未来のゲッターエンペラーの登場が示すシーンに我々が衝撃を受けるのは、それが決して進化の可能性だとか哲学だとか、あるいは人類補完がどうのこうのといった抽象的な形而上学のことではない
石川賢の漫画は後述するが徹底した表層に刻まれたコマの細部に宿る絵の運動によって感性を刺激してくるのであり、ゲッターエンペラーの存在とその動かないはずのものが動いて見せるという外面で感動するのだ。
決して歴史でも哲学でも社会でもなく、ただひたすらゲッターとアンドロメダの純粋な闘争とそれが行き着いた先の遥かなる未来で発生したゲッターロボの最終形態への到達が私たちの心を動かす。
そこには微塵の甘さも余韻もなく、徹底した闘争の「現在」だけが生々しく露呈しており、その細部の奥にある深層を解読しようとすることは無駄な饒舌でしかない

進化と闘争を「0」「1」で繰り返すこと


さて、『真ゲッターロボ』という作品を論じるに当たって、『ゲッターロボ號』で導入された、ほかの石川漫画に顕著な「進化」についても触れておかねばなるまい。
本作は最初に初代ゲッターロボで敵に操られたゲッタードラゴンを取り返す話があり、そのゲッタードラゴンがアンドロメダと戦うも挫折し、地下室で暴走しメルトダウン、そこから繭に籠る進化の描写がある。
まるで石川賢先生が「ゲッター」というロボットの1つの終焉というか集大成のようにして拾った感じがあるが、大事なのはそれが決して「終わり」ではなく「始まり」の合図だということだ。
ここでゲッターが純粋な「ロボット」から意思を持った「生物」、もっと言えば独立生命体とてもいうべきものに変質する過程が克明に豊かな細部として描かれていることにも触れねばなるまい。

初代やGは修理を繰り返し、更にピンチになったら新メカを開発することによって強化する過程を省き、またピンチがあったとしても最終的にご都合主義的なパワーアップで強化すればそれでよかった。
しかし、続編の『ゲッターロボ號』『真ゲッターロボ』辺りからはそう簡単に強くなることはできないが、その代わり時間をかけてここぞというところまでしっかり熟成させて新形態へと変質する
このような進化がなぜロボット漫画において可能となったのかは石川先生のみぞ知りうるところだが、これが掲載された1998年のあたりはちょうどそういう「モンスター育成」のゲームが流行していた。
いうまでもなく「ポケモン」「デジモン」「たまごっち」なのだが、そうした「育成したモンスターが進化して強くなる」という文脈が取り入れられたとも考えうるが、大事なのはそこではない。

石川漫画の中で『真ゲッターロボ』が特異的なのは闘争という「動」のみならず、進化と退却というう「静」のような感覚もまたあり、それが作品全体に妙な味わい深さを与えていることだ。
思えば『ゲッターロボG』『ゲッターロボ號』も最後のシーンは極めて静かに、どこか余韻を残すようにして終わるのだが、本作もまた地下に潜り進化の時を待つゲッターGのカットで締めくくられている。
それは暗に、否、明確に本作が新たなゲッターの進化の始まり、すなわち「0」であると同時に、この先につながっていく「1」の部分をも描いていることを示しているのではなかろうか。
終わりなき闘争の世界へゲッターロボを進めるためには、ただ戦って勝って負けてという切った張ったを繰り返すだけでは限界がある、だからこそ思い切って一度ショックを与えて新たなる進化に備える必要がある。

ここで初めて『ゲッターロボ號』の後半で出てきた真ゲッターロボがもはや突然変異の親も子もない奇怪な独立生命体のような異次元の強さを発揮していた理由が示された。
だがそれは決して「答えがわかる」といった生易しいものではない、むしろこれから始まる苛烈な終わりなき闘争へ読者を誘うための序章に過ぎなかったのである。
だから、物語の風呂敷を畳むとか畳まないとか、論理的整合性がどうとか、もっと言えばそこに真理や社会、学問が描かれているかどうかとかは瑣末でナンセンスな議論に過ぎない
我々が石川漫画に対して可能なことは、その徹底した画面の細部に描かれている無限の進化とそこから始まる闘争の表層=外面のみを見つめ、それを全身で受け止めまさぐることだけではないか。

徹底した「外面」を見つめること

まとめに入るが、石川漫画はあらゆる漫画の中でも徹底した「外面」を見つめることのみを重視した作りになっており、それがこれでもかと顕在化したのがこの漫画版『真ゲッターロボ』である。
だからこそ、私は決してこの動画の最後の方で語られている「集合精神」だの「仏教」だの「SF」だの、宇宙の真理だのといった学術的な抽象概念に引き寄せて特権化=骨董品扱いする論調に些かも賛同できない
確かに仏教・神道をはじめとする宗教的価値観が石川漫画のベースにはあるのだろうが、私にとって石川漫画がもたらす衝撃から来る驚きや刺激はそのような「内面」からは出てこないのである。
漫画はあくまでもコマ割りとデフォルメによる「外面=表層に刻まれた豊かな細部の連鎖」であり、漫画それ自体を全身で受け止めることこそが最大の礼儀というものであろう。

少なくとも私が初めて高校時代に漫画版『ゲッターロボ』『ゲッターロボG』『ゲッターロボ號』を目にした時、まるで幼少期に『ドラゴンボール』に初めて接した時と似た感動を覚えたのは正にそれである。
紙面を開くたびにロボットが、登場人物が飛び出してきて目の前で自分も無残に引きちぎられ、この残酷で厳しい闘争の世界で淘汰されてしまうのではないかと錯覚をせざるを得ない。
学問はどこまでも「抽象」であるが故に論理で語られるものだが、映画・アニメ・漫画・テレビドラマといったサブカルチャーはあくまでも「具体」であるが故に感性で語られるべきものである。
以前から述べているが、石川漫画に限らず富野由悠季の「ガンダム」にしろ庵野秀明の「エヴァ」にしろ、本来はそのようにして「外面」こそが語られるべきなのに、なぜか哲学だの思想だのに繋げてしまう。

それは料理に例えるならば大衆向けのファミレスで食事をするのと一流のシェフが作る高級レストランで食事をすることに差がないのと同じことであり、テーブルマナーが違うだけで「食べる」ことに変わりはない。
その料理を食べた時にいちいちその料理から内面や思想を一々忖度・考察して評する者が居るか?という話であり、基本的には「美味しいか不味いか」のどちらかしかないであろう。
サブカルチャーも同じことであり、石川漫画を見て宗教だの歴史だの心理だのに引きつけて語ろうとする白痴な議論をみるにつけ、「いやそれはただの漫画だから細部を見ろよ」としか思わない。
石川漫画はどこまで行こうと徹底した「具体」であり、永遠の闘争の世界に身を委ねて体験することに素直になることこそが大事だということを突きつけてくる。

それはどんな題材の作品でも同じことであり、図らずもそれが最終的に多くのファンを謎解きや考察といった「内面」に向かわせた「ガンダム」「エヴァ」とは相容れないスタンスであろう。
兎にも角にも「外部」を見つめること、それこそが改めて『真ゲッターロボ』という漫画を通して石川賢が読者に対して挑み続けていることではなかろうか。
正に「俺たちの戦いはこれからだ!」の精神を忘れることなく、この徹底した細部に刻まれた闘争を全身で受け止めて楽しもう


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