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不健全な人間関係は何の利ももたらさない!私がX(旧Twitter)を1年半程経験して感じたこと

よく、スピリチュアルでは「人間関係は鏡写しであり、負の波動をまとっていると負の波動を持った人しか寄って来ない」と言われるが、私自身の経験則も含めると本当にその通りである。
2021年の11月〜2023年の5月まで約1年半程X(旧Twitter)を使用していたが、その時に関係性を持っていた人のほとんどがもう今全く関わらなくなった人ばかりだ。
本当に今は精神面がクリアになっていて、何も不安に感じることがなく自分でも恐ろしいほど前向きに成功するというイメージしか浮かばなくなっている。
それは正に『ドラゴンボール』のナメック星編でカプセルで全快した孫悟空のような穏やかでスッキリした心境と似ていて、ここからやるぞ!というやる気がどんどん内側から溢れている。

昨日、9ヶ月ぶりに親友の黒羽翔さんとお会いして積もる話を色々と楽しくさせてもらったのだが、これがまた非常に中身の濃いものばかりなので本日から何回かに分けて書いていこう。
今回はその中で比較的ネガティヴな話題な人間関係の話題なのだが、私も翔さんもこの1年ほどでとてもネガティブな人間関係の修羅場(?)に近いものを経験してきた。
翔さんの話は本人のプライバシーを尊重して伏せておくが、私自身が経験したことでいえば思えば2022年の何が一番苦しかったといって公私の双方における人間関係である。
仕事でもプライベートでも本当にあの時期は苦しいことが重なったし、そのせいで例年なら引かないはずの風邪を合計で4回も引いてしまい、うち2回は本当に立って動くのもやっとな程だった。

しかし、今思えばあれはこれから羽ばたいていくために最も必要な試練だったわけであり、明らかにあの時の私は潜在意識の波動が相当に下がっていたわけで、だからこそ似たような波動の持ち主を無意識のうちに引き寄せたのだろう。
そもそも「風邪」という単語自体も「風が運んでくる邪(よこしま)なもの」という意味であり、私の場合は特に自分の精神状態のストレスがわかりやすい程に風邪という形で出るように体の仕組みができている。
特に8月の夏風邪と12月の急性咽頭炎による1ヶ月近くも声が出せない状態というのは今も自分の中で若干トラウマになっているのだが、それもこれも全ては自分自身の潜在意識がそういう現実を引き寄せてしまっていた。
それに気づいたからこそ、私はX(旧Twitter)を辞めたのだが、お陰で人間関係もだいぶスッキリして今は本当に自分のやりたいことが明確になった訳で、昨年の9月〜10月にかけて心身共にストレスは軽減されている。

そうした紆余曲折を経た今だからこそわかるのだが、タイトルにも書いた通り不健全な人間関係は自分にも相手にも何の利ももたらさない
SNSでもリアルでも、友達でも仕事仲間でも恋人でも全ての人間関係に共通することであり、理屈はわかっていても経験して我が事として落とし込むことで大きく変わってくる。
今だからこそはっきり言えるのが、今私がnoteを通じて関わらせていただいている真っ当な人たちを除き、2022年に関わったほとんどの人たちはTaker(奪う者)であった。
表面上は丁寧さを装い親切に接してくれているようでいて、奥底では相手からいかにして奪ってやるかということしか考えていない、動物でいえば正に腐肉を漁るハイエナである。

そんな者たちにいくら真っ当な人の道理を説いたところで無駄だ、仏教の六道の概念で言うところの畜生道に属するハイエナに真っ当な道徳心やその更に上にある天上界の真理を懇々と説いても理解できるわけがない。
正に豚に真珠、馬の耳に念仏であり、私が散々記事を通して批判してきた人たちは人間の皮を被った犬畜生であり、そんな者たちに私が与えてやれるものなんかあるわけがないだろう。
よく人間関係はgive&take(与えて取る)が大事と言われるが、その前提条件として相手がきちんと与えたぶんをリターンしてくれる人間性がある人がどうかを慎重に見極めることだ。
ハイエナに餌を与えるのは穴の空いたバケツに水を注ぐも同然であり、破損したバケツにいくら水を注いだところでその水は流れていくだけで無意味であり、そういう人とは関わらないのが一番である。

だがそういうハイエナに限って相手に文句をぶつけることで構ってもらおうとする図太さだけは一丁前にあり、それはまさしくハイエナが一般自動車の通常のスピードと同じ速度で走れる俊足とスタミナを持ち合わせているのと重なる。
よく言えば「貪欲」であるとも言えるのだが、その貪欲さを上手いことトップを目指す上昇志向へと昇華し駆け上がろうとすることができず、また人様から謙虚に誠実に何かを教わろうという気概すらも感じられない。
口では「ヒュウガさんに追いつきたい、追い越したい」などと言いながら結局は口だけで実行が伴っておらず、自分の意思で選択し意欲的に学習して進んでいこうしないのである。
少しでも知識を増やし、時には物の見方や考え方自体を変えて別の角度から見ることはできないかを試行錯誤しないから、そんなハイエナが語る言葉らしき何かは決して作品の見方を変えない。

以前に新美南吉の「ごんぎつね」を「どこをどう読んだらそんな見当違いの解釈ができるのか?」ということに関する「国語力の低下」を嘆く記事を書いたが、正に私自身もそれを経験した。
その中で一番酷かった事例を紹介すると、私も翔さんも非常に思い入れの深い『機動武闘伝Gガンダム』(1994)を「逆シャアの焼き直し」と雑に切り捨てるような評価を直に聞かされたことである。
語る言葉の温度感といい言葉選びといい、それを聞いた瞬間に「お前は「Gガンダム」という作品から何も見出してないんか?」と思い、これが10年若くてそいつが目の前にいたら間違いなく半殺しの目に合わせていただろう。
せめて「オマージュ」ないし「パロディ」と言えばいいものを(もちろん意味を正確に理解した上での正しい使用が肝要だが)、なぜ作品そのものを毀損するような「焼き直し」という言葉で雑に片付けるのか?

「Gガンダム」という作品になんの思い入れもないのか?「ここが好き」「この要素に俺は憧れた」とかいう要素はないのか?それで「ドラゴンボール」を貶して「ジョジョ」を擁護するだと?批評は宗教戦争だと?
分かった風な口を聞くな、私たちプレッシャー世代にとっての宝物である「Gガンダム」という作品をそんな粗雑な言葉で片付けるようなハイエナはその宗教戦争のスタートラインにすら立てていないのだ。
例えるなら奥底では自分も夢を持っていてロマンに進みたいクセにそのロマンを根っこから否定して夢を語るものをバカにして阻もうとする『ONE PIECE』のベラミーや仲間に加わる前のサンジと同じではないか。
いや、サンジやベラミーはまだマシだ、自分に何が欠けているのか、何が足りないのかを自覚し向き合い自分にできる選択をしていったのに対して、「Gガン」を「焼き直し」と吐き捨てたそいつは向き合ってすらいないのだから。

そしてそういう思考停止状態のハイエナに限って搾取の対象にされやすいことに、自分たちが作り手やスポンサーから「都合のいいカモ」として利用されていることにすら気付けない
だから私や翔さんの考え方や感性そのものにケチをつける割に自らが出す意見はまるでこちらを完璧に説き伏せるだけの説得力がなく、幼稚な人格批判・誹謗中傷に終始するしかないのである。
ビジネスも何もかもあらゆるものが急速な変化・変容・進化・成長を求められているにも関わらず、そういう者たちは自らを変容させようとせず自らが作ったコンフォートゾーンから抜けようとしない
今の自分が何をすべきなのかを真剣に考えようとしないからそれが言葉にも態度にも行動にも現れるし、結局はそういう言葉遣いが自らの人格を決めてしまっているのである。

翔さんがこれに補足して面白いことを語っていて、例えば恋愛で「初デートはどうだった?」と女性に感想を聞くとほとんどの答えが「〇〇に行けてよかった」「夜景が素晴らしかった」というものらしい。
これは本来失礼な言葉であり、デートで一番大事なのは「彼氏と一緒に出かけたことが心地よいか?」「彼氏が素敵な人間性か?」の筈なのに、なぜか行った場所や体験したアトラクションになってしまう。
すなわち彼氏のことをきちんと見て向き合えていないわけであり、一見肯定的な感想のようでいて、実は奥底では自分のことしか考えておらず「恋に恋している」状態から抜け出せていない。
よく恋愛映画や漫画で「寂しから付き合います」という人たちがいるが、そもそもそれが間違いであって「寂しさを埋めるために」といった不健全な動機から始めた恋愛は傷の舐め合いにしかならないのである。

そんな不健全な関係性からは何もプラスになる人間関係は生まれないし何の利ももたらさない、最悪の場合共依存の果ての共倒れという地獄絵図にしからない。
なぜこれを今いうのかというと1つはこれからの自分自身への整理・けじめとして、そしてもう1つはこれをここではっきりと言語化しておかないと蟠りとして肥大化するからである。
正の感情は表面化しやすいが負の感情は「影」「闇」であるからこそ普段は表面化しにくい、だからこそその火種が小さいうちに刈り取っておくという早期発見が大切なのだ。
だから私は見る人次第では不快に感じられる文章や内容であったとしても、それを忌憚のない率直な思いとしてぶつけることでありのままを見て受け入れてもらいたいのである。

ネガティブな記事ではあるのだが、真にポジティブなものやハッピーエンドというものはネガティブや絶望的な状況と向き合い乗り越えなければ生まれてこない
だからこそまずは新年の禊(みそぎ)として自分自身の中にあった汚れをしっかり洗い落としておく必要があり、今回本記事を書くに至ったというわけである。
当人がこれを読むかどうかは問題ではない、仮に読んだとしても自覚して改善して行かなければ何の意味もないのだから、大人は結果でしか判断しない。

そんなわけで、私はこれからも基本的に毒を吐きながらも根っこは明るく前向きに、書きたいことを書いて行こう!

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