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越前リョーマと遠山金太郎の「テニスをする動機(モチベーション)」の違いを比較してみる

冬野さんからコメントをいただいたこともあり、そういえば越前リョーマと遠山金太郎の「テニスをする動機(モチベーション)」って何が違うんだろう?とふと思い立って考えてみました。
「テニスの王子様」は従来の少年漫画・スポーツものの王道の真逆を行くロックな姿勢が逆に若い女性ファンを中心に人気を博しましたが、その要因の1つが遠山金太郎ではなく越前リョーマを主人公にしたことです。
一般的なジャンプ漫画のスタンダードでは遠山金太郎のような明るく無邪気でワンパクな直情径行の純粋熱血ヒーローが主人公です、例えば「ONE PIECE」のルフィとか「NARUTO」のナルトとかが正に熱血主人公ですよね。
それに対して「テニスの王子様」の越前リョーマはどちらかといえばロロノア・ゾロやうちはサスケ、流川楓みたいな主人公の対となるライバルキャラの造形であり、それが主人公を張るのが「テニプリ」の意外性でしょう。

許斐先生もインタビューで「元々は遠山金太郎を主人公にする予定だった」とのことなので、リョーマにとって高め合える同期にして、ある意味では終生のライバルといえる存在が遠山金太郎です。
そんな2人が紆余曲折を経て現在はリョーマがS2、そして金太郎がD2という風にシングルスプレイヤーとダブルスプレイヤーという形で差別化を図っていますが、今月号で金太郎がこんなことを言っていましたね。

「ワイは世界一のテニス選手になるんや!」

これは鬼先輩との再戦で言った「ワイは日本一のテニスプレイヤーになるんや!」の更なる目標更新ですが、テニプリにおいて実はこういうストレートに自分の目標を宣言するタイプは珍しいのではないでしょうか。
それこそ「海賊王にオレはなる!」「火影を超すってばよ!」じゃないですけど、金太郎って「やられたらやり返せじゃ!」というセリフもそうですけど、割と素直に自分の目標を言語化しますよね

逆に越前リョーマはそういう目標らしい目標がないというか、目標があったとしても基本的に口に出さないし、口に出すとしたらそれはもうよっぽどの時だと思います。
しかし、リョーマは草試合の対赤也戦とフランスの対プランス王子戦で「Nobody beats me in tennis.(テニスでは誰にも負けない)」と口にしているのです。
金太郎の「世界一のテニス選手になる」「勝ったモン勝ちや!」「やられたらやり返せ!」とは明らかに違いますが、2人の強さや強さを目指す源泉がどこにあるのかを比較してみましょう。

大きな違いはやはり「負けない」こと「勝つ」ことの違いにあって、実は旧作から一貫して許斐先生は両者をはっきりと違うものだと区別して描いておりましたが、一体何が違うのでしょうか?
ポイントは「対戦相手を特定していないこと」であり、越前の「テニスでは誰にも負けない」とはすなわちコートの向こう側の相手がどれだけ強い相手でも、それを上回って勝てるくらいの力を手にすることです。
対して金太郎の「勝ったモン勝ちや!」をはじめとするあのビッグマウスの根底にあるものは常にライバルと見なしている越前リョーマに勝つことであり、その途中で出会った対戦相手はあくまでその通過点でしかありません。
それは同時に立海の「負けてはならぬ!必ず勝て!」とも氷帝の「勝つのは氷帝」とも異なっているものであり、リョーマも金太郎もテニスに対して純粋な点は差がありませんが、動機はリョーマの方が極めて自分本位です。

どういうことかというと、リョーマは常に「自分より上の相手がいるのがムカつく」から「それに負けないだけの強さを得る」のであって、それは幼少期から毎日南次郎の英才教育を受けてきた中で育んできた価値観でしょう。
しかし、青学に入るまではリョーマのテニスは南次郎の模倣以外の何物でもなく自分を脅かす相手が父親と兄のリョーガ以外にはいなかったのもあり、言うなればかつての立海のように勝ちが常態化して停滞してしまっていたんですね。
それを物の見事に打ち砕いたのが手塚国光だったわけであり、あそこで完璧だと思っていた自分のテニスが1-6という形で惨敗したことで、「親父以外にも強い奴がいる」と知ったリョーマは視野を広げてテニスに本気で打ち込み出しました。
だからルドルフ戦では「全員まとめてかかってきやがれ」と口にしていて、実力はともかくもうこの時すでにリョーマは世界トップランカーと同レベルの鋼メンタルを手にしていたことになります。

対して金太郎はおスギ婆さんと出会うまでは不良たちと喧嘩に明け暮れる日々を過ごしていて、何の目標も持たないその日暮らしの自堕落な小学生であり、テニスのことも最初は「つまらん」とバカにしていました
それがおスギ婆さんと出会ったことで初めて自分の存在を認めて育て上げてくれた人に出会えたことに喜びを持ち、またその中で「やられたらやり返せ」の精神も育んだことが明らかになっています。
そうして四天宝寺に入学して白石部長をはじめとする個性豊かながらも人情深い先輩たちと出会い、大切に育てられた中で野生児だった彼も段々と協調性を覚えてテニスプレイヤーとしての精神も養うのです。
その過程で四天宝寺の先輩たちから「めちゃくちゃ図太い神経で唯我独尊、三白眼でごっつう睨んでくるアメリカ帰りの越前リョーマ」の話を聞きつけ、リョーマを倒すことを最初の目標とするようになります。

しかし、金太郎は経験値の少なさはもちろん「負け」を知らないまま「勝ったもん勝ちや!」の精神だけ叩き込まれて四天宝寺でNo.1の強さを手にしたので、自尊心が実はとんでもなく肥大化していたのではないでしょうか。
リョーマも金太郎も基本的に自分より弱い相手には興味がありませんが、2人が唯一違うのはリョーマは「負け」の悔しさや屈辱を知っているからこそ自分を客観視した上で本当の強さを目指すことができていたことです。
対して金太郎はリョーマと一球勝負を引き受け、その後で幸村精市に惨敗するまで「負け」というものを知らなかったので実はとんでもない有頂天にいたものと思われます。
まさにリョーマが手塚に惨敗したことで初めて「親父以外にも強い奴はいる」と知ったことで強さを目指したように、金太郎も初めて幸村に負けたことで「コシマエ以外にも強い奴はいる」と思えたのでしょう。

そして新テニに入った2人はそれぞれリョーマが徳川、金太郎が鬼に負けたところからの負け組合宿からスタートしますが、その後はリョーマが平等院親方に認められて日本を託されていくようになりました。
一方で金太郎は未だにリョーマと勝負することに固執していますが、そうなりかけたタイミングで白石の粋な計らいによって大曲先輩とのダブルスを組むことになりましたが、なぜこうなったのでしょうか?
それはダブルスプレイヤーだったおスギ婆さんとシングルスプレイヤーだった南次郎という師匠の教えの違いはもちろんですが、何よりも「適切な自己分析・自己評価ができるかどうか」という差があるのかもしれません。
リョーマは確かに天上天下唯我独尊で基本的にシングルスしか向かないですが、その代わり自己分析はきちんとできるタイプで、決して無謀な挑戦や無駄な戦いをしないので十分にシングルスでやっていけます。

しかし金太郎は全て本能の赴くままに自身の強大な潜在能力というか才能を暴走させているので、シングルスで戦わせるとその持てる強大な力をコントロールできずに暴走してしまうかもしれません
リョーマと違って金太郎は意識的に分別をつけられない直感的なタイプだからこそ、そんな自分をきちんと客観視した上でしっかりとその持ち味を引き出してくれる相棒・相方が必要なのではないでしょうか。
それこそ黄金ペアだって天才肌の菊丸に対して秀才タイプの大石がサポートに回ってくれるからこそ本領発揮できたように、天才の金太郎に秀才タイプの大曲が最初のダブルスの相棒だったのも必然だった気がします。
そして、だからこその「心強さの輝き」であり、それまでずっと天涯孤独で生き甲斐と呼べる人がいなかった金太郎にはそんな自分を必要とし、共に高め合えるダブルスパートナーが必要だったのでしょう。

逆にリョーマは小さい頃から南次郎の英才教育をはじめとして仲間や強敵に愛され、恵まれて育ってきたからこそ本当の意味での「自己愛=自分軸」でテニスをすることが求められているのかもしれません。
だからリョーマはおそらく天衣無縫から派生するのであればおそらく「愛しさの輝き」に目覚めるであろうし、逆に言えばずっと相手の能力を剥奪ばかりしてきたリョーガを救済するためにS2で負けない必要があると。
「新テニ」は旧作を土台にした上で各人物が次の目標を見つけて強くなっていく物語であるわけですが、分けても天衣無縫に目覚めたリョーマ・金太郎・手塚は先生にとっても特別な存在なのではないでしょうか。
リョーマはおそらく「勝ち負けにこだわらず常に上を目指し続けること=自分軸でテニスを愛すること」を、そして金太郎は「勝つことを念頭に置いた上で誰かと共に上を目指し続けること=ダブルスでテニスの頂点に立つこと」を動機としているのかなと思います。

しかしそれを考えると、リョーマも金太郎も辿ってきた道のりも性格もプレイスタイルも全く違えど、師匠や先輩らに恵まれてすくすくと育ってきたという点では共通していて、そこがいいですね
シングルスとダブルスで違う道を歩むことになりましたが、あの一球勝負から始まった2人の物語がそれぞれ枝分かれしていてますますどのように成長していくのかが楽しみです。

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