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公権力とヒーローと私人逮捕系YouTuber

何だか『仮面ライダーOOO』みたいなタイトルになってしまったが、なぜこんなタイトルにしたのかというとXにてこういうことが書かれていたからである。

とりあえず「お前ヒーローものの歴史を何も知らないんだな」と突っ込むのか「確かにその通りだ」と賛同するのかでその人がどれだけヒーローものに精通しているのか、ある種の踏み絵のようなポストである。

知らない人の為に「私人逮捕系YouTuberって何なの?」という定義を説明しておくと、今取り締まられている私人逮捕系YouTuberとは平たく言えば「正義を自称する迷惑系YouTuber」であろう。
要するに法律で裁けない悪党を私刑に処するというものだがやっていることは結局犯罪者と変わらない発想であり、この記事で言われているようにテロリストと大して変わらないのである。
第一、正義などとご大層なものではなく結局は目先のお金稼ぎや承認欲求を満たしたいという全くのエゴイズムであり、私が一貫して承認欲求を動機とするのに否定的な理由はここにあるのだ。
目先の利益が目的化してしまうと結局は「見返りを求めて動く条件付きの正義」ということになってしまい、そんな手前勝手な理屈で動くやつをなぜ有り難がらないといけないのか?

私人逮捕系YouTuberを擁護することはすなわちへずまりゅうやSNSでイイネ稼ぎをしている人たちを擁護するようなものだし、歴史を遡れば学生運動やオウム真理教を擁護することにもなりかねない。
戦後日本の若者の現実を知らない幼稚じみた正義の麻疹の成れの果てがどうなるのかはそれらの事例を見れば一目瞭然なのだが、そういう少しの想像力と勉強でわかることすらわからないようだ。
せっかく何でも調べれば情報が得られるいい時代になったにも関わらず、まだまだ本当の意味でインターネットを有効活用できている若者は少ないのだなあと言わざるを得ない。
誠に嘆かわしい事態であるが、まあ私人逮捕系YouTuberはどうでもよくて、今回は改めて「ヒーローと公権力」に関する話をしてみようか。

以前にも述べた気はするが、私は別にヒーローが公権力と連携しようがしまいが別にそのこと自体は大した問題ではないと思っている、だってたかがフィクションじゃないか。
この辺りは結局「どれだけうまく見せられるか?」の問題でしかないわけだが、そもそも公権力と協力するか否かでヒーローの存在価値が決まるかというとそうではないだろう。
たとえ公権力と協力しなくてもきちんとした一定のロジックや判断基準があれば私設型の非合法なヒーローでも良いと思うし、逆に公権力が絡むと話がややこしくなる場合もある。
それこそ『鬼滅の刃』の鬼殺隊は政府非公認の非合法な武装集団なのだが、上記の意見を参考にするならば炭治郎たちも私人逮捕系YouTuberと大差ないのだが、そんな意見を書く人はまずいない。

鬼殺隊がなぜ非合法な武装集団に設定されているのかというと、大正時代の刀狩りが発令されて武士がいなくなった世界だからであり、特許をきちんと取らないと刀を持つことも外で振るうことも許されない時代だった。
また、敵組織たる鬼自体が夜間にしか活動できず組織規模も精々が零細〜中小企業レベルだからわざわざそんなものに公権力を動かさなくてもいいという話であり、一応設定自体はそれなりに筋が通っている。
その上で炭治郎たちの振る舞いや価値基準が私の肌には合わなかっただけのことであり、別に公権力と連携していないからという理由で批判しているわけではないことはご理解頂きたい。
ところがこの意見を書いた人は頑なに「ヒーローは公権力と手を取り合って戦わないとだめだ!」と些か強硬な主張をしているように思われる。

さて、話を戻すが、もう何度も書かれているように何故ヒーローの世界には一部の例外を除いて公権力、具体的には警察や自衛隊といった現実に存在する公共団体が出てこないかはもう答えが出ている。

昭和の仮面ライダーシリーズでは、警察や自衛隊は出てこない。なぜなら、出てきても役に立たないからである。
ショッカーにしろデストロンにしろ、その技術力は人間の科学をはるかに上回っている。その陰謀を阻止できるのは、やはり人間の科学を超越した力を持った仮面ライダーのみ。ということは、もし仮に警察が仮面ライダーの戦いに協力し、そしてそれが結構役に立ったりすることがあれば、その敵はショッカー等に比べてずっとグレードダウンしたものであるに違いない

『仮面ライダークウガ』は過去の作品である(その2)

そう、ここに書かれているように既存の科学力でどうにかなるような敵組織ではない、まさに未曾有の危機だからこそ人知を超越したものの存在としてヒーローが設定されている
翌年の『仮面ライダーアギト』の警視庁チームを見ていても疑問だったのはそこであり、「ただの人間が出てきて頑張った程度でどうにかなるような敵組織って大したことなくね?」という話だ。
そもそも既存の警察が頑張ってもどうにもならないからこそ神の力そのものであるアギトや独自のルートでそれに匹敵する力を得たギルスがいたわけであり、G3なんて前半はほぼかませ犬である。

それこそスーパー戦隊シリーズでいえば、『未来戦隊タイムレンジャー』『特捜戦隊デカレンジャー』『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』はもろに公権力ヒーローだ。
また、『秘密戦隊ゴレンジャー』をはじめとする軍人系戦隊も政府公認の特殊自衛隊という点を考慮すれば公権力型のヒーローといえなくもないが、これらのヒーローにはある種の問題がつきまとう。
1つは先ほども書いたように「既存の戦力でどうにかなるようならその敵は大したことない」であり、特に「タイムレンジャー」「デカレンジャー」「ルパパト」は強そうに見えない。
犯罪者を逮捕することが目的の「タイムレンジャー」は高度な科学技術こそ使っているものの、敵を倒さずに圧縮冷凍で逮捕だから視覚的カタルシスが得られにくく、強そうに見えないという難点がある。

そしてもう1つは「大企業病(公権力は意思決定が遅いために後手に回りがち)」であり、公権力と連携することは同時に活動の際に一々上に掛け合って許可を貰わなければならない厄介さをも意味する。
それの何が問題なのかというと未曾有の危機が起きた際に現場の判断で動けずに事態を悪化させてしまうことであり、実際『救急戦隊ゴーゴーファイブ』の8話は正にそういう話だった。
消防局をはじめとする公共機関に根回しもせずに活動していたゴーゴーファイブだが、8話ではモンド博士の親友にしてライバルである乾総監との相克が描かれている。
あの話の前半で纏たちゴーゴーファイブは乾総監とモンド博士のどちらの指示に従って動けばいいのか判断がつかず、後れを取って負けてしまうという一幕が描かれていた。

正に「船頭多くして船山に登る」であり、一瞬でも判断を誤ると命の危機になりかねない過酷な災魔一族との戦いにおいて迂闊に公権力が現場も見ないで口を挟むとこうなるといういい例だ。
確かに根回しを十分にしていなかったモンド博士にも問題はあるのだが、彼がゴーゴーファイブとして活動する上で最初にマトイたちの職場に退職願を出して辞めさせたのもこういう理由があってのことである。
既存の公共機関に属したままゴーゴーファイブの活動と両立することは動きに制限が出てしまうわけであり、それをわかっていたからこそモンド博士は先んじて手を打っておいたというわけだ。
結果としては父の判断と科学力が正しかったわけで乾総監はバックアップに徹するという協力体制を取ることになったが、この話で既にヒーローと公権力の関係性については1つの答えを出している。

また、それこそ前作の『星獣戦隊ギンガマン』のギンガの森に住む銀河戦士たちは上記の呟きに当てはめると私人逮捕系YouTuberと大差ないことになってしまうが、「ギンガマン」を見てそんなナンセンスな意見をする人はまずいない。
彼らがなぜ外界の情報を得ながらも森に結界を張って入れないようにしているのかというと、一番の理由は彼らが特殊能力という形で用いている「アース」がロストテクノロジー(失われた技術)になるのを防ぐためだ。
アースは「星の命を守る」という優しさと「俺こそがこの星を守る」という強き誇りが1つになってこそ初めて使える規格外の力なのだが、科学ばかりを発達させて大自然を疎かにしてきた現代人はその心を失ってしまっている
それを避けるためにギンガの森の民はいつ復活するかもわからない宇宙海賊バルバンとの戦いに備えつつ、世間一般との関わりを持たずに大自然と共生する道を選んで独自の戦闘技術を発達させた存在だ。

表面上には書かれていないが、彼らがギンガの森に青山親子や鈴子先生など一部を除いた人々をギンガの森に案内しなかったというと、恐らくはそういう理由も考えられる。
また、彼らは戦いの際にも一々モークに許可を得て動くなんてことはせず個人的判断で動くことが多かったし、何ならモークの指示に背いて動くことも多々あった。
星の命を宝石に変えることが出来てしまい、そうでなくとも大気汚染や大地震を単独でできてしまう高スペックなバルバンの魔人衆を相手に公権力なんか役に立つわけがない
実際、阪神・淡路大震災や東日本大震災・熊本地震など凄まじい大自然の脅威を相手に日本政府をはじめとする公権力が役立った試しはほとんどないのである。

日本はどうしても滅私奉公や和を以て尊しとなす集団主義の傾向が強いがために公権力が素晴らしく私設団体がダメという風潮があるようで、いわゆる個人事業主や自立分散の概念にピンとこない人が多いらしい。
今回のこのヒーローと公権力に関する投稿はある意味で日本人の中に無意識のレベルで根付いてしまっている「公権力は無条件に絶対的正義である」というバイアスを露見させたものではなかろうか。
つまり「この紋所が目に入らぬか!」という、権力を前にするとおもわず頭を垂れてしまう水戸黄門のDNAが良くも悪くも日本人に染み付いてしまっているということだろう。
逆に言えば、こういう体制側の手先みたいな常識に縛られた発想をしている限りは面白いヒーロー作品は作れない、という証拠でもあるわけだが。

間違いなく人々は「公権力が本当に正しいのか?」を問い直す時代に来ている。

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