見出し画像

ダウンタウンを取り巻く真の問題点は「反形式の形式化」にある

昨日の記事では伝統と革新の比較自体がナンセンスであるとは書いたが、私自身のスタンスはどちらかというとやはり石田の方が共感できる
結局形式的なものの方が長期的に見て残りやすく再現性も高い、この間書いた「形式が気持ちよければ何度でも聞いていられる」というのは正にそういう意味だ。

これに関してはホリエモンも「トップガン」「水戸黄門」を例に出して、「何度も繰り返せる「お約束」を実はお客様は期待している」と述べていた。
また、この間引用した荘子itと宮台真司もそのように述べていて、「意味内容ではなく形式が気持ちよければ何度でもアクセスできる」といっている。
そう、私がラ何とかなるものから当てこすりのように批判された形式主義やそれをベースにした蓮實の表層批評の面白さはそこにあるだろう。
石田は正に古典的な漫才・お笑いのあり方が大好きであり、そこから外れてしまうと本質を見失ってしまうことを危惧している。

格闘技でいえば、本来は柔道・空手・キックボクシング・ムエタイ・レスリングといった種目別に別れていたのが90年代からK-1という総合格闘技が台頭してきた。
今でいえば朝倉兄弟が中心となってやっているBreaking Downの元ネタにもなっており、これが話題を呼んでいるのだが、一方で問題もまたある。
中でも大きいのは「格闘技本来の面白さからズレてしまう」ことであり、こういった応用や小手先に走ってしまうとついつい足元の基礎が疎かになりがちだ。
また、それは同時に古典的かつ原初的なものを軽視する風潮にも繋がってしまい、伝統を古臭いという理由で軽視してしまうことの危険性はすなわちその分野の衰退にもつながりかねない。

ただ、一方で梶原の言うように新しい風を取り入れることも大事にしなければたちまち老害思考に陥ってしまうため、そのバランスというか見極めがとても大事にはなるのだが。
で、その上で松本人志を取り巻くM-1の根本的な問題は若手の芸人たちがひたすら審査員に気に入られる漫才をしてしまい、まるで出来レースのようになってしまっていることだ。
これは同時にある時期以降私がM-1を見なくなった理由でもあり、自分たちの理想の漫才というか実力で審査員を唸らせるのではなく、最初から審査員に媚を売ることが目的化している。
それでは真に面白い漫才は生まれないし、結局はダウンタウンのエピゴーネンばかりが大量生産されてしまって縮小再生産の陥穽にハマってしまっているというのであろう。

中田も石田も松本人志への提言を通して指摘しているのはそこであり、本来の趣旨からどんどん外れていってしまい、あるべき「道」が見失われている
これはスーパー戦隊シリーズもガンダムシリーズも、あらゆるシリーズ物が陥ってしまっている悪い傾向であり、そこを図星突かれて炎上しているのだろう。
戦後日本の近代漫才といえばダウンタウンが台頭して来る前はやすしきよしが花形にして完成形であり、かのビートたけしですら「敵わない」と衝撃を受けたほどだ。
それの後釜として出てきたダウンタウンは本来ならば漫才とコントを掛け合わせた喋りだから、本来ならばお笑いの形でいえば文法破りなのである。

だが、今ではみんながみんなダウンタウンの芸風やルックを真似るようになってしまい、どこもかしこも似たようなリズムとテンポの漫才しか生まれない。
実は松本人志を取り巻く今のお笑いの世界が抱えている一番深刻な問題はここであり、要するに「反形式の形式化=パターン破りのパターン化」に陥ってしまっている。
本来なら絶対に真似てはならないはずのダウンタウンの芸風をそれより下の世代の芸人たちが軒並みそれに追従してしまったことの方が遥かに問題だ。
実はこのパターンに陥ってしまったのがガンダムシリーズや平成ライダーシリーズなのだが、これの何が問題なのかを説明しよう。

例えば、アニメ史上最大のエポックと言われる「機動戦士ガンダム」は本来ならばそのルックや形式を安易に真似してはならないものだった。
「ザンボット3」からそうだったが、富野由悠季と安彦良和はあくまで「反70年代ロボアニメ」という立ち位置・作風だったからコアなファンの評価も高かったのである。
何に対する反形式かというともちろん「マジンガーZ」を始祖とするダイナミックプロを中心とした子供向けのロボットアニメの形式に対する反抗であった。
しかし、富野監督も安彦先生も当時は自分たちがやっていることが決して後世に真似されるとか、10年以上も通用する程のものになるとは思わなかったはずだ。

ところが80年代に入ると高橋監督をはじめあらゆるロボアニメが「ガンダム」を真似るようになってしまい、そして当の富野自身が「ファーストガンダム」の呪縛に囚われてしまう
その流れは「聖戦士ダンバイン」までを迂回して「Zガンダム」の登場で決定的なものとなってしまい、ここからロボアニメは「反形式の形式化」という罠に陥ったのである。
だから私はガンダムシリーズを俯瞰してみると実に歪な歴史であると思っていて、本来ならばシリーズ化の予定もなかった、してはならなかったものがシリーズ化してしまった
賛否両論あるが、私はどちらかといえばやはり本来であればシリーズ化はしない方がよかったのではと思えてならない、シリーズ化したのはあくまでスポンサーの要請という商業的事情が大きい。

そしてそれは平成仮面ライダーシリーズもそうであり、特に「クウガ」〜「555」辺りまでの時期は昭和ライダーファンからの風当たりが非常に大きかった。
ところが今ではそんな事件が一過性のものとして風化したかのように掌返しで平成仮面ライダーの初期作品が評価されているが、これもやはりダウンタウンや「ガンダム」と同じであろう。
本来ならば「反形式=反昭和ライダー」という一回きりの過去との決別として作られたはずのものが形式化してしまい、今では寧ろある種の神格化さえされてしまっている。
もっとも、平成仮面ライダーシリーズに関しては「OOO」までしか知らないので現状がどうかはわからないが、多分ガンダムシリーズと似たようなものではないか。

その点、唯一(?)違っていたのがスーパー戦隊シリーズであり、幸か不幸かそのような「反形式の形式化」に奇跡的に陥らなかったのがずっと切らさず続いてきた所以であろう。
『鳥人戦隊ジェットマン』は以前の批評でも書いたようにスーパー戦隊における『機動戦士ガンダム』のような位置付け=70・80年代戦隊への反抗として作られた作品だ。
しかし、以後の作品で「ジェットマン」が持っていた作風やルックを真似した作品はほとんどなかったし、「ジュウレンジャー」は徹底して「ジェットマン」の逆張りを行った。
以後のスーパー戦隊の礎になったのはむしろ「ジュウレンジャー」の方であり、「ジェットマン」のルックや作風がその後真似されたことは一度としてない

それはそうだ、「ジェットマン」はあくまでも井上敏樹の反王道の作劇と雨宮慶太の独自の映像美という奇跡のタッグや役者たちの熱演による部分で支えられている。
あれをそう何度も行えるわけがなく、あれほど尖った作風は以後の作品でもせいぜい「カーレンジャー」「タイムレンジャー」くらいのものではなかろうか。
今のスーパー戦隊(に似た別の何か)のスタンダードになっているのは「ギンガマン」なのだが、これに関しては形式主義でありながら同時に例外的な反形も内包している。
そのため一見真似やすい形式やルックではあるが、私が見たところやはり「ギンガマン」を意識したと思しきエピゴーネンはいずれもがオリジンを超えられていない。

話を戻すが、おそらく「ポストダウンタウン」としてのニュースタンダード像、すなわちジャニーズでいうところの嵐のような安定した実力を持つ若手のお笑いコンビが不在なのかもしれない。
キングコングがそれになりるかと思われたが、そうはならなかったところを見るにジャニーズとは違った歴史を吉本興業が辿っているのは興味深いところではある。
果たして石田や中田の諫言に気づいて古典に回帰するのか、それとも今のまま反形式ばかりが繰り返されるうちに完全に形骸化してしまい滅ぶのか、その判断は歴史に委ねられるであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?