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漫画版『ゲッターロボG』『ゲッターロボ號』感想〜「栄光のリアルロボットブーム」に終わりを告げ「スーパーロボット新時代」の幕開けを謳った傑作〜

昨日の記事の続き、今回は『ゲッターロボG』『ゲッターロボ號』の感想・批評となるが、武蔵の最期に関してはもう既に至る所で擦り倒された名場面中の名場面なので今更私から語ることはない。
ゲーム『スーパーロボット大戦』シリーズはもちろん『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』でも使い古された名シーンはロボット漫画屈指の名場面であった。
まあ何せ庵野秀明が『トップをねらえ!』でウザーラの頭に乗って出て来る腕組みゲッタードラゴンをまんまパロディしたくらいだから、それだけ後世に与えた影響はでかい。
ということで、まずは『ゲッターロボG』で言い尽くされている名シーン以外の細部を豊かに肯定し、更にその15年越しの続編である『ゲッターロボ號』を語る。


漫画版『ゲッターロボG』の名シーン

『ゲッターロボG』はアニメ版・漫画版共に初代の恐竜帝国と比べて地味であり、あまりクローズアップされず目立たない印象がある
漫画版・アニメ版の双方に共通している要素は「3つの心が1つになれば1つの正義は百万パワー」を体現したような必殺武器・シャインスパークくらいであろう。
あとはアニメ版が鉄甲鬼・胡蝶鬼といったあたりの単発エピソード、そしてアニメ版では隼人とミチルが最終決戦後に結ばれたことくらいであろうか。
漫画版でも語られるのはどうしても古代の超兵器・ウザーラの登場と復活したゲッタードラゴンの腕組み(ガイナ立ち)、そしてラストのシャインスパークくらいである。

なぜかというと1つは恐竜帝国との戦いに比べて竜馬・隼人があまりにも死線を潜り抜けた結果経験豊富なベテランの先輩となっていることが挙げられるだろう。
そしてもう1つは百鬼帝国自体が恐竜帝国と比べて悪役としてのインパクトが薄く、「人間を支配し害を与える」というスケールダウンした悪党のようだからだ。
人類抹殺を目論み恐竜人類の復活を目論んでいた文字通りの生存競争に比べて、あまりこれといって目立つ特色のない悪の組織だったことが影響している。
しかし、そんな中にも個人的なお気に入りのエピソードをピックアップして豊かに肯定することで漫画版の方を論じてみたい。

魔王鬼VSゲッターライガーのスピード対決

実は「ロボアクション」という点において一番絵の運動がしっかり描かれているのが、最初に描かれた魔王鬼VSゲッターライガーのスピード対決である。
恐竜帝国との対決では最初の対決以外で目立った活躍がなかった隼人がゲッターライガーを駆り無敵の魔王鬼相手に繰り広げるロボアクションが最大の見所だ。
ドラマ的にも、隼人が学生運動から完全に足を洗った後に組織が完全に壊滅、失った指導者とともに学生運動の夢をもう一度取り戻そうと悪に魂を売り渡した悲しき学徒たちの物語である。
まず石川先生はなぜ初期に描かれていた隼人の学生運動活動家という設定を拾ってきたのかは謎だが、ともかくこのエピソードによって改めて隼人のキャラや位置付けがはっきりと定まった。

隼人はもはや学生運動という小さな学校内の青春以上の地獄を見てきたわけであり、そんな男が今更学生運動に戻り日本転覆なんてアホなことを目論むわけがない。
だが、いとこの竜二をはじめとして置いていかれた者達はその亡き幻想に執着し、力に固執するあまりに百鬼の甘い誘いに乗ってしまったというわけである。
話としてはまあありがちなもので、言うなれば当時問題となった連合赤軍の末路のパロディとも取れるが、この話の本質は学生運動カムバックではない
また、過激な思想の末路をそこに表現したわけでもないし、悪魔に魂を売り渡してしまったものの末路・因果応報といったものをあぶり出すことにもないのだ。

隼人は「冷たい機械の中の青春」「狂った鉄くずに過ぎん」と言っているが、ここで描かれる隼人の心情自体は大した重みを持たないものである。
なぜならば初登場時から隼人は冷酷無比に掟を破る者達を容赦なく殺すリアリストだったわけであり、彼が死に涙するのは近しいもの非業の死を遂げた時のみだ。
後述する『ゲッターロボ號』ではその涙すらも流さなくなっていくのだが、隼人は要するにここで自分の中にあったわずかな人情味と決別し、より非情なリアリストとなる。
だからこそ、ゲッターライガーのスピードアクションと共に自身の中にあった無自覚な善意を振り切り、魔王鬼の頭を取って容赦なくジェットドリルで倒した。

魔王鬼のスペックはゲッタードラゴン以上であり、真っ向勝負で戦ったら到底勝ち目のない戦いを竜馬達はいきなり強いられるのだが、そこを技と機転によって乗り切る
「分離と合体」というゲッターならではのアクロバットな戦いを高いクオリティーで描き切り、話の重さをロボアクションの軽やかさで振り切っていく絵の運動が見事だ
ロボアクションの中でスピード対決自体は描かれているが、ここまで高度な駆け引きや知略・ドラマがセットになって詰め込まれた話も中々ないのではなかろうか。
エピソードとしてはどうしても地味ではあるが、隼人の嘗ての因縁を題材に繰り広げられる命懸けの戦いが見事である。

アトランティス帝国ウザーラ登場による強さのインフレ

そんな百鬼帝国との戦いは人間が作った細菌爆弾、更に超スピードの弾道ミサイル、早乙女博士のピンチを救う隼人といったサブエピソードを挟みながら最後のアトランティス帝国編へ突入する。
実は竜馬が最初に殺した、防護服に身を包んだ人たちは百鬼の連中ではなく普通の人間だったのだが、「ガンダム」の登場を待つまでもなく「人類同士の争い」はすでに描かれていたのだ。
そしてこの細菌爆弾のネタが終盤に出てくる「ウィルスへの免疫がないが故に滅亡寸前まで行ったアトランティス帝国」につながるのだが、ここで実はとんでもない強さのインフレが発生している。
それが冒頭にも書いた古代のオーパーツであるウザーラなのだが、このウザーラが後のOVAに出てくる真ドラゴンの元ネタであるのはいうまでもないだろう。

ここで大事なのはそのウザーラの凄まじいスペックにあり、これまで百鬼帝国のメカを苦戦しつつも蹴散らしてきたゲッタードラゴンが遂に雑魚扱いされてしまうのである。
決してゲッタードラゴンが弱いのではない、そのゲッタードラゴンが太刀打ちできないほどの古代アトランティス文明の科学力が圧倒的過ぎるのだ
まあ「黄金バット」しかり「オーレンジャー」しかり、そういう古代文明は人類が夢やロマン・神話を感じやすい設定だが、大事なのはそれが人類の敵となったことだ。
最終的に「百鬼帝国を滅ぼす」という利害が一致したからいいものの、最悪の場合竜馬たちはここで組んで負けていた可能性だって考えられる。

このウザーラ登場によって強さのインフレが凄まじいことになり、最終的にゲッタードラゴン共々宇宙にまで飛び出て戦うこととなった。
展開としては実に凄まじいスピードで飛躍しており、それまで何があろうと地上・地中・空中・水中から抜け出なかったゲッターの戦いの規模が最終的に宇宙へ広がる。
そしてゲッターは果たしてアトランティスの科学力によって修復したおかげかはしらないが、宇宙に飛び出すこともシャインスパークを使用することも可能となった。
のちに石川賢が加筆したバージョンによれば、漫画版のシャインスパークは太陽光を直接エネルギーとして取り込むことでどんな強敵をも葬るというメカニズムが明らかになっている。

つまり、漫画版のゲッタードラゴンは最終的に宇宙クラスの敵と戦っているために東映アニメ版と比較にならないほどに強化されていることが絵の運動として示された。
ゲッタードラゴンの腕組み登場は単にそれ自体がのちの「ガイナ立ち」の元ネタになったことに留まらず、ゲッタードラゴン自体も数段強化されているということであろう。
アニメのシャインスパークは3人がペダルを同時に踏むことによって発動する技だが、必ずしも太陽の光を取り込んでいるわけではないため威力自体は実は小さめである。
それに対して、石川賢が描く漫画版では最終的に百鬼帝国では到底太刀打ちできないほどの凄まじいオーバースペックを手にし、文句なしの最強ロボとなった。

作品自体は一度ここで完結となるのだが、まさか終盤で起きたこの強さのインフレが15年の時を経て新たなスーパーロボット新時代のきっかけになろうとは、誰も知る由はなかったのである。

漫画版『ゲッターロボ號』がもたらした革新

『ゲッターロボG』の完結から15年の月日が経った1991年、世は平成初期へと移行し『勇者エクスカイザー』に代表される「子供向けの王道ロボットアニメの復権」が主流となっていく。
もはや「ガンダム」「イデオン」「マクロス」「ボトムズ」辺りに代表される「リアルロボ」のブームが終わりを告げ、またもや徐々に子供向けロボアニメのニュースタンダードが台頭する。
その動きに乗じて「待ってました」と言わんばかりに乗り込んできたのが元祖スーパーロボットであるマジンガー・ゲッターなのだが、その目論見は結果から言えば頓挫した。
アニメ版『ゲッターロボ號』が商業的にも作品としても振るわず、半ば黒歴史のごとく葬り去られていく……かに思われたが、実はここで石川賢は漫画版『ゲッターロボ號』を描く決意をする

すでにこの頃「魔界転生」「虚無戦記」といった、未完の大作となるライフワークを描き始めたもはや漫画家として独り立ちを果たしたが、その脂が乗り切った画力が遅めの全盛期として大輪の華を咲かせる。
そんな中、原作漫画の15年後の世界として描かれた『ゲッターロボ號』はロボット漫画・アニメの歴史にとんでもない方法論で革新をもたらす、凄まじい怪作となった。
タイトルにも書いたように、「栄光のリアルロボットブーム」に終わりを告げ「スーパーロボット新時代」の幕開けを謳った傑作、それが『ゲッターロボ號』なのである。
富野ガンダムが「逆シャア」で1つの終わりを迎えて既に作家としての影響力も創作力も低下していたその頃、正に15年越しの逆襲と言わんばかり再び「ゲッター」がロボット漫画の頂点に返り咲く

『機動戦士ガンダム』というエポックを経てロボアニメ一辺倒になったかに思われたロボットアニメの歴史が再び王道のスーパーロボット路線へ回帰し始めた、その最中に石川先生は帰ってきたのである。
「80年代ロボアニメの死」と同時に「スーパーロボット新時代」の開拓を石川先生は果たして漫画でどのように行っていき、それが後世にどのような影響を与えたのかを「絵の運動」として論じてみよう。

「80年代ロボアニメの死」として描かれる前半のアラスカ戦線

まず名前の通り、ゲッターロボ號が登場し活躍する前半は「ガンダム」以降の80年代の主流であった「リアルロボアニメ」、すなわち「人類同士が争う国家戦争」の文脈を色濃く引きずっている。
地球出身の超天才科学者ことプロフェッサー・ランドウという設定やそこから人類に反旗を翻して世界に対して宣戦布告をかけて全面戦争を行うというのは80年代で散々擦り倒された仮想戦記ものの設定だ。
スーパー戦隊シリーズでも『超電子バイオマン』のドクター・マンや『超新星フラッシュマン』のリー・ケフレン、『超獣戦隊ライブマン』の大教授ビアスといった辺りで使われたものである。
その戦後日本のロボットアニメをはじめとする戦いの文脈で使われていた「スーパーロボット」ものと「リアルロボットもの」の石川先生流の総決算として描かれたのがアラスカ戦線までの話だ。

ちょうど同じ年、スーパー戦隊シリーズが『鳥人戦隊ジェットマン』で「80年代戦隊の死」を司ったように、石川漫画版の前半もそのような「リアルロボットの死」を描いた話となっている。
前半はある意味「ゲッター」らしからぬリアルな人種差別に基づく軋轢が描かれ、日本政府の監視から離れてレジスタンスとして独立した號・翔・凱は世界中のスーパーロボットと結託してランドウとの大決戦に立ち向かう。
歴代唯一の「非ゲッター炉心」を採用したリアリスティックなゲッターロボの獅子奮迅の活躍もさることながら、多種多様なミリタリーロボットが入り混じっての総力戦のスペクタクルは「ガンダム」に匹敵する。
プロット自体ははっきり言って初代のものをほぼそのまま流用しているのだが、どのキャラクターも初代に負けないくらいきっちり濃い活躍を見せて立っており、この前半もまた見所がたくさんあった。

しかし、初代ゲッターロボが武蔵とともに非業の死を遂げたのと同じように、やはりゲッターロボ號もまた最期は腹を貫かれて非業の死を遂げるのだが、この散り際もまた美しい
この年は「ファイバード」「ジェットマン」もまた最終回での散り際の色気が印象的なのだが、それに負けず劣らずゲッターロボ號もまた最後のリアルロボットとしての役目を終える。
そしてここでもう1つ大事な要素があり、それは何と言っても隼人の婚約者・山咲の死であり、この場面での隼人の目が正に「絵の運動」としてとても素晴らしい
たった3コマしか描かれていないのに、決して顕在化しない隼人の心情の変化を効果的に描写しており、初代の頃からの伝統である「顔」「目」の作家としての本気がここにも現れている。

ゲッターチームの3人がアラスカ戦線までを通して立派に成長してみせたように、神隼人もまた大切な人を失くす経験を通して、よりそのリアリズムに拍車がかかっていく。
物語はもちろんのこと、ロボアクションも見所満載の前半はこれが「ゲッターロボ」かどうかという問いすら超えて、とにかく素晴らしい完成度というかクオリティーを誇る。
ここまでで完結してもきっと評価の高い名作のまま終われたのであろうが、『ゲッターロボ號』はなんとここから更なる物語を紡ぎ、読者にとんでもない衝撃を与えることに成功した
そしてそれこそが「スーパーロボット新時代」の開拓を宣言するに相応しい後半戦であり、この後半にこそ正に石川賢が紡いできた「ゲッターらしさ」が詰まっているといえるだろう。

「スーパーロボット新時代」の開拓を宣言する突然変異体・真ゲッターロボの登場

『ゲッターロボ號』の後半戦こそ、「スーパーロボット新時代」の開幕に相応しいのだが、その理由はもうファンの皆さんならご存知、「本当のゲッターロボ」こと「真ゲッターロボ」の登場である。
漫画では一回もその名称は出てきてないわけだが、前半では一切触れられていなかった早乙女研究所で起きた凄まじい暴走事故という忌まわしき過去が語られていく。
その過去とは後日談の『真ゲッターロボ』で加筆されているので是非ご覧いただきたいのだが、この「真ゲッターロボ」こそ私は「90年代ロボアニメの新境地」に他ならない。
「エクスカイザー」「ライジンオー」に代表される子供向けロボアニメや「Gガンダム」らアナザーガンダムが必死に王道ロボアニメの古典的名作への先祖返りをやっていたその時にこの「真ゲッターロボ」は現れた。

アニメ版『ゲッターロボアーク』ですらその魅力を再現しきれていなかった真ゲッターロボはそのデザインといい、劇中での活躍といい突然変異であると言わねばなるまい
「本当のゲッターロボ」として出てくるこの真ゲッターロボは既存のどのスーパーロボットにも似ていない、肉親や親戚に相当するモデルとなるロボットが1つもないのである。
初代ゲッターロボやゲッタードラゴンですらもその系譜にはなく、またその後に出てくる真ゲッタードラゴン、ゲッター聖ドラゴン、ゲッターエンペラー、ゲッターアークのいずれとも違う。
また、OVAの「チェンゲ」「ネオゲVS真ゲ」に出てくる真ゲッターのどちらとも似て非なる、正に石川先生自身が生み出したとしか言いようがない、継承も不可能な突然変異体と言わざるをえまい。

それを証明するかのように、驚天動地のスペックもさることながら、一度拳や蹴りを振るえばその風圧だけで大地を砕き空を割り、物理法則すらも簡単に捻じ曲げ、核ミサイルですら余裕で無効化する。

搭乗者の竜馬・號・タイールすら嘲笑うかのようなマッハを超えるスピードであっという間に地球の極北に到着し、斧でどんなものも真っ二つにし、更にかめはめ波が可愛く見えるエネルギー弾「ストナーサンシャイン」を放つ。
もちろんリスクも存在し、搭乗した者のなかでゲッター線の意思により選ばれた強靭な竜馬・隼人・號・タイールのみが無事に生存し、そうじゃない渓は脳死し凱は精神崩壊した挙句真ゲッター本体に吸収される。
そして最終的には敵であるはずの復活した恐竜帝国すらも全てを飲み込み食らいつくし、宇宙の真理へ目覚めたと思いきや1つの巨大生命体となって火星へとテラフォーミングしてしまう。

もはやオーバースペック・最強・無敵といった言葉すら陳腐に思われてしまうくらいの独自の表現力、絵の運動に読者は「もはやこれはロボットなのか?」という問いすら抱くであろう。
こんな表現は石川賢のそれ以前の作品はもちろん永井豪先生も、そして富野由悠季も庵野秀明も今川泰宏も、歴代のそうそうたるロボアニメの作家がやったことのなかったものだ。
その限りにおいて、この真ゲッターロボが提示したロボアクションの絵の運動は他の追随を許さない新境地を開拓し、あらゆるエピゴーネンを後世に産むほどの絶大な影響を与えた
「ガンダム」以来の革命児と言われる庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』ですら、規模感やスペックはともかくロボットバトルの絵の運動としてこれに匹敵するものを開拓し得ていない

男女の抒情すらぶった切る、徹底した「男」の作品

初代から一貫している石川賢のテーマにして、同時に他のロボアニメ作家との大きな違いは石川賢の漫画は男女の抒情すらもぶった切る、徹底した「男」の作品であるということだ。
これは永井豪・長浜忠夫・富野由悠季・庵野秀明ら他のロボ漫画・アニメ作家との大きな違いでもあり、他のロボアニメ作家は大なり小なり「男と女」が残る。
例えば「マジンガーZ」には兜甲児の側に弓さやかがいるし、「デビルマン」にしたって最後で殺されてしまうとはいえ不動明のヒロインが物語の核心に来るだろう。
長浜忠夫の場合もやはり敵味方を問わず「男と女」のメロドラマを描くし、富野由悠季や庵野秀明なんかはそれこそ「女に振り回される男たち」を題材とすることが多い。

しかし、石川賢に関しては最終的に「男」のみが残り「女」は最終的に残らなくなる、あるいは残ったとしてもフレームアウトしてしまうのである。
実際、早乙女ミチルも最終的に単なる華やぎ以上にはならなかったし、橘翔にしても渓にしても決して主人公の號にとって色恋沙汰になるような人物ではない
「ゲッターロボアーク」で判明する流竜馬の嫁にしても、あくまで空手道場で出会った押しかけ女房に過ぎず、竜馬はむしろ対応にすら困っていた。
これらの事実が何を意味するかというと、石川賢という漫画作家ならびにそこに出る登場人物たちにとって、女性の存在は基本的に添え物か戦いの中で散る儚き存在だということである。

神隼人の婚約者だった山咲にしたって本当にわずか数ページしか出ない即死のモブキャラであり、非情な戦場の狂気に呑まれてあっという間にフェードアウトしてしまう。
だから、仮に結ばれて夫婦関係になったとしても、その関係性が永久不滅で続いたこともなく、男女の抒情すら容赦無くゲッター線至上主義によってぶった切る
それは女の扱いが酷いといったことではなく、過酷な人類の生存競争を前に生き残ることができるのは女よりも圧倒的な力を持つ男のみだというシンプルかつ大胆な結論であろう。
石川賢は他の作品でもそうだが、日常の家庭や学園といった穏やかな世界を題材とすることがなく、はやとの校舎が登場しても、それは竜馬と隼人が凶暴さを発揮する場でしかない。

真ゲッターロボの登場において決定的だったのは、石川賢ワールドにおいては善悪や正義なんてものを超越した、純粋な闘争本能と上昇志向を持ちうるもののみが残り続けるということだ。
それはとてもシンプルかつ古典的なヤンキー漫画の文法なのだが、とにかく富野由悠季や庵野秀明でさえ挫折してしまわざるを得なかった「男と女」の抒情を石川賢は最後までぶった切り続ける
つまり何が言いたいかといえば、実は宇野常寛がいっていた「母性のディストピア」で主張されている「男が情けなくなって女に屈せざるを得ない」という文脈は石川賢には全く当てはまらないということだ。
むしろ、それらを振り切ってとことんまで尖り続け、永久に進化し続けるからこそ石川賢という漫画家ならびに彼が遺した作品群は読者にとって未だに驚き・衝撃の対象であり続けるのだろう。

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