我が価値観をひっそりと

人は一人では生きていけないのは正しい。しかし人生でなんらか関わりを持つ人間の9割9分9厘は入れ替え可能だ。

自分にとって本当に入れ替え不可能な人間は片手で数える程度である。もしかしたら、一人だって作れるかどうかも怪しい。

親、親戚、兄弟でさえ入れ替え可能である。家族という事実はあるが、それを持ってかけがえがないと言い切ってしまうのは早い。その理屈でいけば、血の濃ささえ考慮しなければ、人類はみな家族のようなものといえるので人類全員かけがえがない、という発想になる(倫理的にはそう言うべきかもしれないが、あくまで自分にとってどうかという問題)。
家族と他人との違いは血の濃さと、たまたま長い時間を過ごしていることくらいだ。
家族が大切、という価値観は結局、社会が要請する価値観であり、自分の価値観とは別物である。

必ずしも、社会の価値観と自分の価値観が重なるとは限らない。
このズレは坂口安吾いうところの堕落ということなのだと思う。
彼のいう堕落は、生半可では全うできないので、多くの人はどこかで社会に合わせるということをしてしまう。
重ならない部分を削ぎ落としたり、足りないところを傘増したり。
世の中に生きにくさがあるとしたら、こういうところが一役買っているのだと思う。
別の言い方をすれば空気、同調圧力と呼ぶのだろう。

気にしいの人は、自分の価値観を選んでも、社会の方を選んでも精神的にはジリ貧を免れない。2000年代初頭まではそれもやむなしだったと思う。
しかし今は自分の価値観を選びつつ、社会に対して突っ張ることなくひっそりと生きていくための装置が、手段が数多く生まれた。
その意味では田舎と東京の差も縮まりつつある。

人は一人では生きていけないが、孤独には生きていける。孤高になれなくたって、堅実に自分の幸せを噛み締めながら、少しの友達と自分が作った家族を大切にして静かに、平凡に、我が価値観を満たしていこうと思う。

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