生きることを納得する

納得とは理解ではない。
理解だけでは足りない。
受け入れるまでがセットである。

僕はずっとあらゆることに納得できずにいた。
喧嘩してはいけない、人の嫌がることはしてはいけない、勉強しないといけない、学校に行かねばならない、友達を作らねばならない、外で遊ばねばならない、ご飯残さず食べなければいけない、女性には優しくしなければいけない、男は強くないといけない、なぜなら大人になって社会でやっていけないからだなどなど、きりがない。

何となく筋は理解した、それに大人の言うことは聞かねばならないと思っていたからから、その通りにしていたわけだが、でも受け入れられなかった。

例えば、喧嘩してはいけない。これはとんでもないハンデだ。子供なんだから手を出されることなんていくらでもある。この場合反撃したら喧嘩になる。僕は我慢した。

例えば、外で遊ばねばならない。これはとんでもないハンデだ。運動は好きだがスポーツは嫌いだった。運動では失敗で責められることはないが、スポーツは責められる。漫画やゲームが好きだったので家の中にいたのだが、家族からも友達(当時そう呼んでいた)からもものすごく批判を受けた。僕は我慢した。

例えば、女性には優しくしなければいけない。これもとんでもないハンデだ。子供のころは女性のほうが物理的に大きい。成長しても別に絶対的に女性のほうが弱いわけではない。筋力の上限値、成長速度、体重などが男のほうが比較的有利なだけだ。いびられた記憶がある。僕は我慢した。

我慢し、無理をし続けた結果、何も良いことはなかった。結局過去に納得できないまま大人になった。どこかで反発していればもう少し状況は変わっていたかもしれない。反発するのが怖かったどうにかなりそうだった。

そのせいかは分からないが、ずっと人見知りだし、コミュ力は低いし、人の気持ちもわからない。おまけに文章を読むのは遅いし、人にものを説明できない。人の話もうまく聞き取れない。文章を書くのも下手だ。

いつも理解だけはした。物心つくかつかないかくらいのころは反発もしていたのかもしれないが、いつからか反発ができなくなった。理由は分からない。どれだけ振り返ってみても昔の感情を探ってみてもわからない。

いつも不安定な感じがあったのは、嫌だとかいう感情を受け入れないが、行動だけは嫌だと思うことをやっていたからだと思う。認知的不協和が常に発動していたわけだ。

今、小さくイラついており、小さく嫌悪感が沸いている。こういう反抗的な感情は久しぶりである。
僕は一人になった。いや厳密には違う。一人にならねばならない。これは我が心の叫びだ。今を逃したら僕の願望とか後悔の回収は厳しいだろう。取り返しがつかない。

覚悟の問題だ。責任をとるという。それさえしてしまえば、どんな結果も納得できる。

僕は覚悟の末の後悔を渇望している。
これまでは覚悟がなかったから後悔になっていない。ベタベタでギトギトした取り返しのつかない大きな黒い塊がたたずんでいるだけだ。取り除けないし受け入れることもできない。永劫、解釈を変えられない。

切実である。覚悟をすれば行動が一貫する。主体的になれる。何をこの年になっていっているのだろう。恥ずかしい限りだ。

さて僕はあらゆることの責任から逃げてきたから、生きることにすら納得できていなかったと言える。でも納得できないときつい。だから覚悟をする。責任を取る代わりに好きにやる。(もちろん悪いことはしない。念のため)

これが自由というやつだと思う。すごく疲れた。
これまでのことは仕方がない。もうこれは全部自分以外のせいにしようと思っている。今後のことは自分のせいだ。

晴れて生きることに納得できたわけだ。やっと楽になった。

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