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老衰とはしょうがないのか【おばあちゃんが教えてくれた事】

追記 -2/6 20:25 -
このnoteを更新したのは2/6 18:49です。
先程父から連絡が入り、19時前おばあちゃんが息を引き取ったと連絡が入りました。
おばあちゃんは私に会うのを待っていてくれたのかもしれません。
諸々の日程が決まり次第に、しっかりと最後のお別れをしてきます。
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おばあちゃん。
愛している。
大好きだよ。
ありがとう。

雲ひとつない快晴。
特例で許された面会時間の5分。
限られた時間のなかで、おばあちゃんを抱きしめ、耳元で何度も愛を伝えた。

老衰とは加齢により脳を含めた全臓器・細胞の力がバランスを保ちながらゆっくり命が続かなくなるレベルまで低下していき、最後に下顎呼吸後に死亡することである。
Wikipediaより

老衰の最後は、徐々に食欲がなくなり静かに息を引き取るのだという。
老衰は人間にとって最も痛みがないことから、本人は苦痛を感じることなく、天寿を全う出来る理想の人間の最後であると言われている。

先週末、母からおばあちゃんの容体が良くないとの連絡が入った。
「心の準備をしておいてください」
覚悟しておく様にと。

そんな早くおばあちゃんが亡くなるわけがない。

連絡が入ってもまだ現実味などなかった。
先週は、プライベートも仕事もバタバタしいて睡眠不足が続いていたので、目の前のことをやる事に集中していた。
しかし、妹から送られてきた写真を見て動揺してしまい。
こんがらがった思考は情けないことに仕事の一部にも支障をきたしてしまった。

スーパー日立で向かう車中。
心を落ち着かせるため、こんがらがった思考をnoteに書き留める。
(このnoteは週末から書き留めたものを書き足し更新しています。)
それと同時に、この1月から押し寄せていた自身の出来事を振り返っていた。
実は1月下旬に、今回の老衰と言われたおばあちゃんとは別の、一緒に住んでいたおばあちゃんが認知症が酷くなり施設へ入ったところだった。

ここで少々一緒に住んでいたおばあちゃんのお話をさせてほしい。
おばあちゃんの認知症はひどく進んできていたので、年末年始まさしくそれを体感していた。
時折通常に戻るおばあちゃんから、
『おばあちゃん、頭おかしくなっちゃった』
『こんなの死んでいると一緒だ。きちんとしようと思っているのに、ごめんね。』
『本当にありがとうね。こんなおばあちゃんに優しくしてくれて。』
おばあちゃんを寝かせるためのお着替えを手伝っているときに、言われた言葉を時折思い出す。
おばあちゃんは寝る前に必ずパパ、ママ、ゆうこありがとうと言って眠りにつく。
認知症とは、偶に正常に戻る時もあるが本人もなりたくてなってるわけではないのだ。
介護する側は、本当に忍耐が必要で徘徊や便などのお世話、そして繰り返される同じ会話で怒りたくなくても怒ってしまう。

この一緒に住んでいたおばあちゃんはその後に施設に入るわけなのだが、まさかその直後に、今回の母方のおばあちゃんが老衰だという連絡が入ったので、立て続けにおきる出来事に動揺を隠せない。

話は戻って、今回老衰であるおばあちゃんに最後に会ったのは、私が鎌倉に来る直前だった。
その時は、鎌倉で1から頑張るという決意の時だった。
今回のnoteのサムネイルの写真はその時の写真で、泣きじゃくる私の実に恥ずかしいスッピン姿である。
それでも大好きな写真なので載せてみた。

その後も会いに行きたかったが、コロナ禍の中普段鎌倉にいる私が会うのはダメで、中々叶わずにいた。今年は会いたいと母にも伝えていたところだった。

母方のおばあちゃんも認知症だった。
それはそれは酷い認知症で、いとこはキャリアチェンジをし実家に戻り付きっきりで面倒を見てくれていた。
おじいちゃんが亡くなった14年前から少しずつその症状が進み、丁度3年前に施設に入った。
この14年は私たち身内はとても忙しかった。
脳卒中に癌、また亡くなる身内も多くその度に別れを経験していた。
沢山の家族がそれぞれのケアでばたついていた。

おばあちゃんは別れの度に胸を痛め、いとこのお母さんが亡くなった時は『私が変わりに逝けば良かった』出棺の時に叫んでいた。
とても愛情の深いおばあちゃんなのだ。

私ももう36才。おばあちゃんはもう95才。
親もおばあちゃん達もみんな歳取るのなんて分かってたから、そういう年になったのだと。
世間一般ではそう思われるのだろう。
しかし、いざ身内となり現実を突きつけられると心が乱され、落ち着かず、動揺を隠せない。
おばあちゃんと私には沢山の思い出があるのだ。

おばあちゃんとBabyいのさんと母


私はおばあちゃん子だ。
忙しい両親達は家にいる事も少なかったので、2人のおばあちゃん達が私をケアしてくれていた。

子供の頃は毎週のようにこのおばあちゃんの家に行っていた。
暖かく、沢山の人で溢れるお家。
普段住んでいる場所がニュータウンだった為、住宅地ということもあり、田舎の生活が身近になかったことから、この母型のおばあちゃんと過ごす日々はいわきならではののんびりした田舎を教えてくれた。

春は冨岡の夜ノ森へ桜を見にいく。
夏休みは朝早く起きて、川沿いと山をお散歩し、おじいちゃんが役所時代に関わっていた浄水場にいく。
缶ボックリに竹馬に流しそうめんを楽しみ、秋には金木犀の香りに包まれる庭を走り回っていた。
冬は川に来る白鳥達にパンをあげにいき、公園で凧揚げ。
おばあちゃんの作るお節料理のイカ人参は絶品だった。

おばあちゃんの家のお庭には、いつも沢山のお花や盆栽達があった。
ザクロがなればザクロを食べ、ブルーベリーがなればブルーベリーでジャムを作ってくれた。
昔ながらの遊びや近所の駄菓子屋さんに、小さな地元のお祭り、田舎遊びを教えてくれたおばあちゃんだった。

おばあちゃん、Babyいのさん、おじいちゃん


おばあちゃんは、私に自然の素晴らしさ、第6感をフルに使うこと。
そして、動物や人へ優しくする事そして詩からその時代の感情を汲み取り表現する事や、唄う喜びを教えてくれた。

この唄う喜びという事に対してのエピソードも話させてほしい。
おばあちゃんは詩吟の先生で、幼少期はよく詩吟のお稽古を聞いていたものだ。

詩吟とは、漢詩や和歌、その他さまざまな形態の詩に、節をつけて自分の声で表現する芸術である。
詩歌に込められた作者の喜び・悲しみ・憤りなどの感情や感動した心を感じ取って、それを声に出して表現するものです。言葉を読んだ後に余韻(節)をつけるところにも特徴がある。
詩吟学院より

基本は漢詩に音節をつけ、吟じるもので、
和歌・短歌・俳句・俳諧歌・新体詩などのバリエーションもある。

子供の頃はこの詩吟はなんだか意味の分からない呪文の様なものだなと思っていたけれど、お稽古をやっていた部屋から響く詩吟コンダクターの音や、おばあちゃんの声が心地よかった。
揺れる節に、呪文みたいな楽譜にと興味津々だった。

成長と共に、作者の心をしから汲み取り表現する。
古人が残した詩というものの素晴らしさを知り、その時代やその作者の感じた背景を詩から汲み取ることを知った。
日本語とは素晴らしいと思った。

詩吟は難しすぎたが、私が文字を書くことを続けられる根底に、文字を表現することへと興味を持たせてくれたこの思い出があるからだと改めて思う。

おばあちゃんは施設に入っても、とても立派な詩吟をうたっていた。

その時の動画は今でも元気がない時に見る大事な宝物だ。
今回、老衰と言われ意識が朦朧とする中でも偶に詩吟を口ずさんだりもしていたようだ。

人はこの世に生を受ければ、死がセットであることは分かっている。

これまでも、その死に立ち会う度に心が張り裂けそうになり、悲しみを抱えながらも思い出を大事に生きてきた。
人の死は突然訪れるもの。そんなの分かっている。
でも、覚悟の時間があるだけ良いのかもしれない。
そんなの分かっているのだ。

今私たち家族は、これが最後になるかもしれないと、家族1人1人が面会をしている。

私も幸運な事におばあちゃんに会えた。
握りしめた手は温かく、寝る事が多くなってしまいお話も出来なくなってしまった状態でも、私が声を掛けたら、あーと一生懸命に声を発してくれた。
ケアの方にはビックリされた。
お孫さんのお力は絶大ですねと。

抱きしめた体は小さくても確かに呼吸をしていたし、顔を撫で、何度も何度も愛してると伝えた。
それは短い時間だった。

今はおばあちゃんとの思い出を振り返り、感じ、そしてただただありがとうを思う。
私がこの世に生まれた瞬間から私を愛し優しく包み込んでくれたおばあちゃん。
私はその真実を今一度体感し胸の中に大事に包み込む。
そして、またしっかりと私は自分の道を歩み見つけられるはずなのだ。

私は今鎌倉に戻る電車の中にいる。
リモートでいわきにいることも出来たが、今とても大事な時期なので、自分のやるべき事と向き合ってこようと思う。

おばあちゃん。
おばあちゃんとの日々はとてもキラキラと愛に満ち溢れ、innocenceな世界だよ。
私はおばあちゃんがしてくれたことを、これから自分の大事な人達へと還元して教えてくれたことを繋いでいくね。
おばあちゃんの孫に産まれたことが幸せです。
ありがとう。
私に愛を教えてくれた、人生において大事な人。

ここまで読んでくださりありがとうございました。


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