『梨』#74

旬ならうんと前に過ぎてしまったところ、そう感じるのは過ぎて季節が変わってしまったからで、実質は4ヶ月くらい前のことで、これからまた旬を待つ時間の方がうんと長いようで。
昔、りんごとみかんしか知らないころはりんごが好きだった。皮を剥く手間がなくて、みかんは皮を剥く手間とそれに付随する、汁が飛んでくる怖さと爪の間に皮やアルベド(正式名称を知ってからはそう言ってそう書いている。皮の内側の白い毛細血管のようなアレ)が挟まってしまう煩わしさとそのアルベドの口当たりの悪さが、味の美味しさへの好感度に勝ってしまうために、りんごを好んでいた。切るだけでいい。しゃりしゃりして歯ざわりよく、その歯ざわりに似合う甘さを持っている。風邪の日のりんごは格別だった。
大きくなるにつれて果物の種類の豊富さを知る。赤とオレンジ色の果物色彩世界に、緑や紫、地味な黄土色まで、目は果物を知る。味覚も甘いか酸っぱいか、他に苦みや渋み、みずみずしさ、ぐんぐん複雑になる。季節の味覚を楽しむ、風情を楽しむ心も備わる。それでもあのころ、見た目がエグかったり、ヘタとか皮とかがちょっと汚っぽく思えてしまった果物に苦手意識があった。ビワ、イチジク、ぶどう、ざくろ。法事にお供えされているのを「おあがり」とされても心から喜んでは食べられない。その喜べなさは悲しかったけれど、いま食べられて美味しさを楽しめていることで、過去からの伸び代を美味しさに加算しているような、儲けもんだなと思うフシもある。
そんななか、初めて食べた時から大好きで、りんごと違うしゃりしゃり感はみずみずしさと甘さを同時に口に広げてきて、飲み込んだときには身体に染み渡るような心地がする。皮は、数年前までマメに剥いていたがどっかの道の駅で丸かじりしてから、もう構わなくなった。でも、家で食べるなら、余裕あれば確実に剥く。あの食感と染み渡る感覚は、果皮無く果肉であればこそ。でもでも、剥いた皮は一応食べる。栄養価はおそらく高くないのだろう。皮と果肉の間への期待は薄い。
わたしの地元川崎は京浜工業地帯の中核として工業で栄えた街だが、数少ない農業名産品にあって、20世紀はじめに発見された品種・長十郎からはじまり、改良されたいくつかの品種が多摩川流域で栽培されている。小学校の社会の時間に習ったうっすらとした記憶(ちなみに歴史の興りの長十郎は、いま国内でもあまり栽培されていないようだ)。それでなのか、妙な愛着がある。好きな果物をメロンと言っていた少年時代があるが、そこに経験的愛着・コンテクストは無い。
この冬の終わり、初春の頃にどうして季節外れの果物をと思うところはこのnoteの通し番号を見れば一目瞭然であるし、最近みかんを食べ飽きてきたことにも由来するかもしれない。

#梨 #180302

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