『手動』#349

ドアとか、水栓の蛇口(ハンドル)とか、あとはなんだろう、タクシーの後部座席のドアとか、結局ドアか、うーん、とにかく、かつては何の気なしに手を使って動かしていたものが機械化に伴って自動で動くものが現れたのち、従来のように手を使って動かすものに対して我々は「手動」と言ってみている。「自動」の対の概念に捉えられるものの一つ。あ、室内の出入りの際に人感センサーで点灯消灯がなされる「自動」に対する手動の、スイッチというものもあるか。たぶん書きながら色々と思い出すのだろう。
人間が能動的に働きかけずとも機械が、求めに応じた動作を行う「自動」のものが現れてから、顕在化した動作と言葉なんじゃないかな、と思ってしまう、「手動」。何か人間の動作を代わって、機械自らが動作する、その「代わってもらえる部分」に手動が表れる。ドアの開け閉め、吐水口から水を出したり止めたり、電灯を点けたり消したり、あとは、トイレの水を流したり、間違いなく、確実に、もっともっと意識していない手動があるはずなんだけど、機械が自動的に行ってくれている動作に慣れて、動作自体が無いものになっているんじゃないかと少し恐ろしい気持ちが湧いてくる。
人間の労働を軽減することや不要に思われる時間の短縮、危険作業の回避、色々と生活を楽にするために機械にまかせる自動化は進んでいるわけですが、あ、車の運転があった、自動運転と手動運転、それもあって、人間は着々と作業を外部化していって、ゆくゆくは何をして人間は暮らすのだろうと悶々と思う。思うわけでありまして。農業や畜産業・漁業はども外部化・機械化してしまえば、自分たちの生命維持のための食事だって、部屋で椅子に座ったまま口元まで料理がやってきて、我々は噛んで飲み込むだけになる。のだろう。
伝統工芸は、人間であるがために発生するブレ、エラーまで機械がトレースできるようになれば再現できてしまうだろう。「ものをつくる」ことについては代わりが効いてしまう。
何か結論づいたものを言うでもなく、手動で何かをするっていうのは「(代わってもらえず)仕方なく」やるときと「楽しくて」やるときとか、異なる場合がいくつか考えられはする。車の運転だってただ移動が目的であれば自動運転に任せてしまえばいい。けれど運転することの楽しみだけは誰かに代わってしまったら自分は味わうことができない。極めて、自動化したくないものはこれだな、と思ったのを一つ挙げて終わりにしよう、神輿担ぐとか声を張り上げるとか踊るとかそういうのひっくるめた祝祭、祭り。私たちの自動化されない身体性をもってしてのみ残っていくだろう。「神輿を担ぐ機械」は絶対に売れない。

#手動 #181202

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