『六根』 #364

毎日新聞の言葉を扱うTwitterアカウントの投稿で「六根清浄」について、旅にまつわる言葉のひとつとしても書かれていたのを夕方に見て、以前にお世話になっている地元のカレー屋さんとの話で「なんで仏教に関連するものは三とか七とか、多いんだ」ってときがあって、そのときには七については厳密にこれという(全く無いというわけではないけど、というエクスキューズ)答えがなかったけど、三は中道、空観を有と無との関係でおくからかだとかって話をしたなあ、ってことを思い出して、その三について書いてみようかと思ったけれど「三」と題してしまうと他の三にまつわる話をいま展開しづらいなと思って先送りにして、今回はその会話を思い出すきっかけになった「六根」についてと。
仏教用語としてある「六根」、ろっこん、これはざっくりと言えば人間の知覚、器官とはたらきを示している。人間の感覚器官といえば五感と言われるけれどそれよりひとつ多い。眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)、の六つで、それぞれ眼根、とかって根をつける。一般的な五感といえば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つで、つまり、六根の意根にあたる、簡単に言えば、心、の感覚器官が外れている。けれど第六感と言われている六つ目を数えることも可能だけど、わざわざ“第”と仰々しいつくりになっているだけあって、第六感は端的に心を指すのとも違っていて、これは「五感を超越する」とか「五感以外の」とか、次元がひとつ異なっていて、第六感はインスピレーションとか霊感とか直感とかを主に指していて五感と並列に扱われるものとは違っている。六根は意根以外の五根と並列されて特別な場合を抜きにして同列に扱われる。法華経の中では、この法華経の教えを受け持って(たもって)説くことで六根が清浄(しょうじょう)になり、というように説かれている(法華経のその教えってなんじゃい、っていうのはまた別の機会に)。ちなみにこの六つの感覚器官は人間の身体の内部器官であって、外部からの入力対象は六境といって、色(しき)、声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(そく)、法(ほう)というのがあり、どれも日本語のその漢字の意味より異なってそれぞれ抽象的になっていて、意根に対する法は、知覚可能なすべての存在、というなんとも広範な対象となっている(法、は本当に捉え方も扱い方も難しくて、まだまだ勉強不足)。
概説で千文字を超えてしまうので、概説以外のつぶやきをひとつ。日本は仏教が有史以来古くからあったにも関わらず何故、感覚器官の五感が一般的になって六根が専門用語になって私たちは「意根」を「知らずのうちに壊して」病んでしまうのだろう、と、思う。唯一、目に見えないとしても、二千年以上前に釈尊はこの六つの器官にそれぞれ苦しみの原因を見ていたのかと思うと、途方もない。
仏教用語を扱うと読み仮名を付さないと適切じゃないような気がして、仏教用語を題材にするのは書いていて楽しいけれど、カッコ書きばかりで読みづらいのが難だ。

#六根 #210824

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