『特別』 #365

特別、なんて素敵な響きだろう、と、思わせてくださる約30年間に高く美しく積み上げられてきた“意味”、これには頭が上がらない。頭を上げてみたところで、高すぎて眩しすぎて顔を上げることもままならぬ。そんな言葉だ。幸せなのだと思う。特別、という言葉にキラキラとした印象を抱けているこの現状は、このこと自体が特別でなかったとしても、有難いことだと思える。「特別にご用意させていただきました」「この特別な機会に」「あなたには特別に」「特別大特価」、もうなんだっていい、特別ということにスペシャルという言葉をあてた翻訳者にも感謝する。
なんだってこんな、すべての出逢いに感謝!みたいなノリになっているかといえば、通し番号が365になったから、という、そういう理由がある。まったく一日一本みたいな頻度でも無いし、とびとびに書いてきてしまったとはいえ、いちおう数字が365になって、一日に一本、みたいな感覚ではあったわけだから(一日二本とかじゃないから)、ちょっとしたセーブポイントみたいな地点にできそうなもので。とはいえ、通し番号は1からじゃなく0からつけているから、本数としては366本目にあたる。晦日じゃなくて閏日。
なんの変哲もない恒常的な流れのなかに現れる特別な時間というのは、あるいは物というのは、なんのために訪れるのだろうと思うこともある。時間をおいて何回も思う。ものすごく短絡的に言えば「驚き」とか「刺激」のためだと言えるだろうけど、じゃあそのなんで驚きとか刺激が求められるのか、って問いがすぐに立ち上る。この短絡的と言ってしまう問いも普段はすっ飛ばして「そもそも恒常的であるからといって、変化が起こっていないわけではない」とか「すべてのものは不変なんてことなくて、変化、言ってしまえば老いたり朽ちたりするわけだから、澱まないために刺激が要るんだ」とか、かっこつけて「エントロピーの増大」とか「動的平衡」とか言ってみたり、するわけだけど、特別な何かというのを「その驚きと刺激、特別であるという肯定が、誰かの喜びになる」という、なんというか無垢な主張をできないものだろうかと、考えてもしまう。もし自分に子どもがいたら、「あなたはほかの誰か他人と同じで、お父さんもお母さんも、特別じゃ無いよ」と育てるより、「あなたはお父さんとお母さん、他の誰かにとって、特別な存在なのだよ」と思い育てることは、絶対的に家族である関係性で必要不可欠な肯定なのだと思う、大人になってから「他人である」ことを認識する未来があったとして、それはそれとして、特別である、絶対的な肯定がある、というのは、成長するひとつの人格を絶対的に支えるものになるはずだと、思うわけで(だからこそ釈尊は息子に羅睺羅と名付けたのか)。
人でも物でも時間でも、特別さというのは恒常性と関係性がなければ生まれないもので、スポットライトの当たる特別さをして、周囲の舞台を知る、というのは、コロナ禍にあって過去の日常を懐かしむというのと同じようで、いまはまだ、特別な時間。

#特別 #210825

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