『妬む』#280

妬むためには自信が要る。どうでもいいことには妬む気持ちは起こらない。それは、友人や慕う人との間の愛についてもそうだし、ある物事に感じる才能や能力についてもそう。妬むためには努力が要る。そして、脳の成熟も要る。このことはいま読んでる本の中でつい最近わかったことで、抽象概念としてでもなく脳が関わる話。
感情としてふだん一括りにしていたのが、情動行動と情操行動で、妬みはその二つのうち高次な(大脳新皮質で営まれる成熟した大人の人間特有の)後者の情操。前者が快・不快などの反射的で短期間の感情。後者は喜びや悲しみ、それに妬みも、その感情は持続的に及ぶ“感じ”をさす。幼い子供にはまだ備わっていない情操。
「野球のうまいアイツは、チームでも人気者でムードメーカーで、周りのみんなから慕われている。羨ましい」。羨望の気持ち。
「自分より野球のうまいアイツは、チームでも人気者でムードメーカーで、周りのみんなから羨望の眼差しを受けている。妬ましい」。嫉妬の気持ち。
羨ましさと妬ましさは構造が似ている。言葉の印象からして、羨ましさのほうが妬ましさよりもポジティブな感じ、明るくキラキラとした感じがある。裏を返せば妬ましさのほうがネガティブで暗くドロドロとした感じがあるということ。じゃあ、はたらくべき感情、望ましい心理行動は、羨むことなのか。羨むことが、妬むことよりも尊重されるべき思いなのか、というとそんなことはないだろう、と思う。少し話が変わるけれど、一時期わたしのTwitterのタイムラインで、「批判より批評を」というようなムーブメントがあった。建築学科に所属していたこともあり、色々な人が何かを作ることや表現することに意欲を燃やしていた。誰かが、自身の作ったものを投稿したり、あるいは著名な建築家の設計した物件やプロジェクトをしたりと、タイムラインには作品や表現物、またはニュース記事などが流れた。そのときに話が盛り上がってくると否定に終始するやり取りが起こることもあった。そんなとき、当人が言う場合もあるし、傍目に見ていた人が言う場合もあるけれど、もっと生産的で発展性のある批評を行おうと、批判でなく批評を行おうと、声が上がる。場合によりけり、批判と否定と中傷ばかりの場はよくないけれど、批判を批評に変えようという転換促進は、半分良いことに思えてもう半分は単語イメージに引っ張られた言葉遊びだろうと思って冷めてしまうことがあった。批判にだって、理由と判断があって行われるものだし、なにより批判は批評ではない、とも言えない。
そこで妬むことについても、羨む気持ちは(出典を思い出せないけれど)「相手を神棚に祀って勝手に持ち上げているだけ」で、自身の向上心を、その「神棚」の上まで到達させることはない。でも妬むことは相手の実力や能力への強い競争心を煽ることで、自身を高めるエネルギーとしてはかなりの高効率な燃料となる。
結局のところ、転じて転じて妬むことをポジティブに書いてみたけれどやっぱり言葉遊びに他ならなくて、ここは論文ではない、という気持ちに落ち着いて、一件落着。

#妬む #180924

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