『バウムクーヘン』#324

層状の食感を味わった体験があったろうか、と疑問符を浮かべながらいま食べている。うそ。浮かべながら、食べていた。ふんわりとしているけれどがっしりとした食べでがあって、たしかに層状に生地が焼き重ねられているからボリュームがあることは疑いないけれど、歯や舌でもって焼き重ねられた生地のことを知覚することができない。わたしの歯が鈍いのかもしれない。そう思うのだけれど、どうしても、あの年輪のように見える焼き色と生地色の縞模様が食感に現れてこないことの疑問が立ち上る。
例えば卵かけご飯ならば、初めに醤油の塩味と卵の甘みがやってきて、それから噛むごとにご飯の味が広がってきて醤油と卵を弱めながら混ざり合って絶妙な風味を醸す。またハンバーガーであればパンのふんわり食感とレタスのシャキシャキ感、パティのひき肉の粒感が噛む歯にまず知覚されて、舌に触れているパンはレタスの瑞々しさとパティの肉感に呑まれていくように口の中で混ざり合っていく。ソースがあればそれが媒体となって全ての具材の風味を束ねて一体感をもたらす。わかりやすく食感が違う場合、風味が異なる場合、初めのひと噛みと咀嚼の過程で差を知覚できる。
それが無いのがバウムクーヘンだろう、という話。目に見えて違いの見える姿なのだけれど、噛む歯には何も捉えられず一つの凝集した焼き菓子の歯ざわりである。ときどきは、層が剥がれて「あ、分裂した」とわかるときがあるけれどそれでも、味に差異もなく舌で触れてみても、なんとなく焼き面がざらついていて生地面がつるりとしているかなと思うくらいの差異、なんともこう、先味ともいう見ための良さに対する中味の一定さに心は寂しさというか物足りなさを感じてしまう、とか偉そうに貴族のようなことを言ってしまう、いや貴族を揶揄の素材に使うあたり偏屈であるがしかし、見掛け倒しと思ってしまう私がここにいる。
ただ、これはバウムクーヘンに限らず、マーブル模様のパンとかケーキにも言える。チョコ生地を粗く混ぜた生地で焼いて作られたマーブル模様も、色の濃い方を食べるとなんとなくチョコ風味が強いように思うけれどそれも実は視覚情報に味覚が引っ張られているだけでは無いかと思うこと少々。
見た目の差異に味覚体験が追いつかないこのことも、私がいま人間である以上仕方のないことなのかと思う人体の仕組みを推察する。人間の視覚で捉えられる瞬間は1/18秒だという研究を何かで読んだ。それより速い変化は「静止している」ようにしか見えず、変化を捉えられないそうだ。それと同じで、味覚と歯の触覚は、バウムクーヘンやマーブル模様のパンの焼き色と生地色の差異に追いつける知覚幅を持たないのではないか、というところ。トーストのカリッとした焼き面とモチっとした内側との触感は捉えられるけれど、バウムクーヘンの層は「一体のひとつのもの」としかわからないんじゃないかな、と。とはいえ、バウムクーヘンは大好きな私、「こんなに美味しいのに」という変な歪んだ愛情がここにあるだけでありまして、とひとつ釈明をしておきたい。

#バウムクーヘン #181107

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