『電気』 #361

はるかな未来に、そのときにも電気が残っていればいいとも思うし、なくなっていればいいとも思える。そんな話。
建築設計を始めてから、無意識にうっかりしたとき以外には徹底して、照明器具のことを「照明」「あかり」と言って「電気」とは言わないようにしている。このこだわりは、少し共有可能なものかもしれないなと思っている。伝達と理解に甘んじない言葉の正確さにこだわるか、というところなのだろうかと思うけど、例えばIHクッキングヒーターをコンロと言わない、とか、燃料電池車や電気自動車の動力源をエンジンと言わずモーターと言う(だから「車のエンジンかけといて」というメッセージが厳密には成立しないみたいな)、とか、キーレスの錠前に「カギかける」とは言わないとかそんな、習慣的に使ってきた言葉の残像をずっと見ているような状況を、可能ならば更新し続けておきたいと思うのは見栄か自尊心か正義感か、なんなのかわからないけれどわりと、カッコつけたがるカッコ悪さみたいで後ろめたくもある。
それはそうと電気は電気で、この文章を書いているのも、身体の動力を使いながらキーボードを媒介して電気信号を送って画面上に文字を打ち込んでいる。画面(上の情報)も電気(電力)によって目に見えるようになっている。この、電気からの逃れられなさに、多少の環境意識が向いているいま、やるせなくなってくる(後ろめたく、と書きそうだったけど、二度書いてしまうと意味ありげな伏線っぽくなってしまうからやめた)。
車で言えば二酸化炭素の排出量が多い、環境負荷の高い、化石燃料を使用する、ガソリン車からの脱却が全世界的に(ではないのかな、一部の国だけかな)勧め・進められているけど、ガソリンと電力とのHV車が1997年にトヨタのプリウスとして量産され始めてから、電気を供給して電気で動くEVとか、水素燃料を使って電気を生成して電気で動くFCVとか、車本体からの環境負荷が少なくなっても、エネルギーとなる電気にも水素にもそれらは二次エネルギーで、作るためのエネルギーでしっかり負荷がかかる。一般人の脳味噌で考えれば考えるほど、厳密な数字を伴わなくてただただ言葉でパンクする(パンク、もタイヤやら風船やらに使う言葉だもんな、脳は風船じゃない)。結局のところ、自分の知覚領域内でクリーンであるように浄化しようとしたところで、どこか見えないところに汚染を負担させてしまうという状況が、もどかしい(似たような言葉でも言い換えられるものだ)。
20年前、10歳くらいのころの夏休みの宿題のひとつに「環境」についての作文があった。そこに「未来の生き物のために」って言葉を書いてそれは、自分を含んでいたと思う。当時10歳くらいの自分にとって、未来の自分は未来のなかにあった。いまの30歳くらいの自分にとっての未来には、未来の自分以上にはるかに多くの、いまだ生まれていない「自分」がたくさん存在しているんだろうと、まだ思える。はるかな未来に、そのときにも電気が残っていればいいとも思うし、なくなっていればいいとも思える。
二年半ぶりに書いた。きっと何かが違っている。同じように見えても私の細胞はごそっと変わっている。

#電気 #210820

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