『テレビ』#358

テレビはテレビであって、他の何物でもない。しかし、気になることがひとつある。いつからテレビはテレビで、テレビジョンでなくなったのか、ということ。語源はテレビジョン、televisionのはずだ。日本でなければtelevisionをteleviと略しはしないだろう。でも、もしかして日本へは「テレビ」として技術と製品が輸入されてきたのだろうか。まず、そもそも、テレビはどこで発明されて大衆化してきたのだろうか。
そんな、“テレビ”という言葉の生まれがふと気になってしまった。
生まれた時から家にテレビがあって、大人になった頃にブラウン管が薄型デジタルに変わり、いい歳してきたところでインターネットでの動画配信が盛んになってテレビの衰退が声高に言われるようになり、かつての歓喜に包まれたテレビの発展とは違う、ゆるやかな衰退が待ち受ける変化の途上にある、そんな感じのテレビジョン。
かつて、20年くらい前の私が小学生くらいの幼いころ、動画を見るためには映画かテレビ、その2つが主だった。パソコンでも撮影した動画を再生することはできたけれど、DVDもなかったので家で何かを視聴するとなればテレビで地上波を観るかVHSを再生するかだった。
今回はノスタルジーにまみれた文章になりそうだ。
19時から21時までのゴールデンタイムを意識せず「家にいるから」見ていた小学生時代、22時以降のバラエティ番組に面白さを感じて暗い部屋でごろ寝しながら見ていた中学時代を経て、ニュースと天気予報と流行りのドラマくらいしか見なくなった高校時代があって、テレビを部屋に用意しなかった大学時代に、テレビ離れは顕著になった。周りではドラマとかお笑いにブームとか流行りがあったけれどそれも全体では熱狂しておらず(建築学科での課題一辺倒な生活も原因の一つにはありそう)、流行りはYouTubeで確認するくらいになった。
テレビはモニターとしての役割を、もともと持っていたにも関わらず私に妙な驚きをもたらして「テレビをモニターにできるんじゃん」みたいな開き直りとも言えないひらめきに繋がった。プレゼンテーションの外部モニター、ゲームのプレイ画面、カラオケルームでのBGVなど、とにかく、テレビジョンでなくテレビのモニターだけが眼前にあった。
いま実家暮らしで朝夕にテレビジョンのニュース番組やドキュメンタリーが目に入ってくる環境になったけれど、それ以外のバラエティ番組を、なんとなく、どう楽しんだらいいのかわからなくなって、気になっているのが「尺」であって、これはまた今度書こう。収録とカットについて。

#テレビ #181211


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