『九九』#81

覚えてから早20年、念仏は唱えられなくても九九は普段唱えることのない今でも、いんいちがいち、そこから、くくはちじゅういち、ここまで何も煩うこともなく言える。
なんみょうほうれんげきょうより、なむあみだぶつより、般若心経が唱えられなくたって、日本人には共通して唱和できる九九がある。国歌の君が代も、トトロのさんぽも、何番かでわからなくなることがある。
因数分解より、三角関数の定理より、微分方程式より、何より九九を唱えられなければ算数から数学をすることができない(こないだ試し読みしたマンガは、この世の法則や生物を、ありのまま捉えて数式をつくれちゃう天才少年がいたな。興味深い)。数学をする、という言葉がおかしい気もする、けれど、個人的には数学を学ぶという迂遠な言葉より数学は端的に「する」ものでありたい、少なくとも学校ではそう近しい存在でいてほしい。所詮、言葉遊びでありますが。
教わって、口頭で早口言葉のようにみんな口ずさみ始める。九の段まで覚えた人は先生の前に行って、いんいちがいちからくくはちじゅういちまで暗唱する。途中で戸惑うことなく間違えることなく、スラスラと言えたら、おめでとう、九九マスターです、ということになる。それを終えると、九九最速の称号を求めて一心不乱に唱え始める。魔法の詠唱速度をガンガンに高めていく感じだ。なつかしやテイルズ・オブ・シンフォニア(このゲームの流行りは中学の頃だったか。アクションRPGの面白さとやり込み魂を育ててくれた)。たしか、100秒だか、1分だか、それくらいのタイムだったんじゃないか。段が変わるときの脳の切り替え、息の長さと息継ぎのタイミング、これがキモだった。というか、小学生が「長い文を速く言う」ためにはとにかくブレス、息が重要で、それ以外ない。全て覚えて、考えずに口ずさめる段階になったらそれしかない。脳内で思い出しながら読む段階を超えるのが、関門ではあったか。
国語以外で長い文章(九九を文章と言うとなんかパラダイムシフト起きる気配がある)を覚えて、言えるようにする(というか覚えるために、言えるようにする、という理屈もあるか)ことって九九以外、他にないんじゃなかろうか。じゅげむじゅげむごこうのすりきれ、春はあけぼのようよう白くなりゆく山際、祇園精舎の鐘の声、だいたい国語だ。覚えることの意義、これがたいへんわからない。最低限の知識であるとか、古文の素養であるとか、そうは言えるかもしれない、けれど腑に落ちない。いっぽう日本国憲法の前文は覚えることなかったけれど、社会科の授業で重たい扱いがされていた。これは日本国憲法そのものと、国民の尊厳や国家と国民の関係性を(いま認識せずとも守られているものを)捉え直すために、重要な文章だった。でも。
九九ほど、未だ忘れ得ぬほど身につけて、それ以後の生活・成長に密接してきたものは他にあったろうかと、しみじみと感慨深く、たいへん不思議な存在に思う。

#九九 #180309

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