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1

 ぶ厚いせ表紙と絵本のすきまから、あわのようにあふれだすアヒルのしゃしんみたいに、朝しょくのひざしに流されているわたしは、海すいよくと砂と、せい神が集まるとてもフレキシブルな床を歩いていた。床には、僕が散らかした本が積まれており、本は僕を目で追っている。
 床にふ属するすべての物しつが頭頂から発したお花のよう脈は、ナイフのように霊きをまとっていて、牡蠣の外とう膜縁からのびた三日づきじょうのしょく手から、でん波をじゅ信している。
 とおい、むかし、床にしゅつ現したこのすな浜には、そう熟と旅行がなか良くたいせきしていきます。例えば、ミルクいろのセーターを着た牛をとおりすぎた20メートル先で、ピッチャーがなげた、速いサングラスが、くつをぬいで海を散ぽする。その目のまえを、せん争映がでCGになったしん臓おんがつう過し、その2つあとでは月のわぐまが、自己紹かいをしている。そのずっとあとでは、いち番あたらしい砂でできた層が、みじかくて贅沢な、じんせいの、幕をていねいにたしかめている。うぶごえのように、純すいなかいすいをもとめて、この海にやってくるこのひょう流たちは、波のように眠るばかりで、あのまほうという感じょうを信じようともしませんけれど。

 絵がの外にはいつも風けいが立ちふさがっている、ある種のナルシシズムをもった彼が。私は彼の目からみえるけ色にきょう味があった。
 砂浜にわずかにめだつ、瑞みずしいざっ草のうえで、ふやふやになった瞳こうの、しわのひとつ一つが鞘いんげんのようだと思った。おいしそうにお腹がすいて、《そうじょうの昼しょく》という、1862年から1863年にかけて描かれた絵がを思いだそうとした。しかし、この絵のなかのざっ草は、今日も、ぼくの目のまえで絵のそとの彼とあさを迎え、朝しょくを食べている。
 そこで思いだすのをやめた。
 雑そうのうえでは、寝そべる流ぼくのきょ大な影が、ちらちらと小さく跳ねたあと、せんぼんの母指くっ筋がせんぼんのライターをどうじに着火した。いち年にいち度のお祭りのようだった。
 火を見ると、いつもおもいだす。わたしが安いマグカップだったころ、そそがれた冷たい液たいが、飴がとけた光なのか、つやつやと黒びかりする鯨のはみでた臓もつなのかを考える、あおいぷらすちっくだった。捨てられたカレンダーの日々は、夜のだい王イカ座のように光って見えた。
 めをよく閉じて、せかいがうら返るのをまっているたい児の、精しんぶんせきをしていたアルビノのシャチたちは、コップに注いだ海すいをおよぐ文学の魚影にいつも感しゃしていた。このお祭りは、アルビノのシャチたちが始めた波におくるかん謝の詩なのではないか。しかし、そう言っておしえてくれたおじさんは誰だっけな。

「シャチがしっぽを立てて舌をだすのは、大せつなよ言者におくるしん仰の合ずだ、覚えとけ」
 たしか、じょう下にみず色のしましまが、モワレの霧吹きから歩幅まで哲がくするのを、グリッチ中の脂ぼうのように齧る。
 そういう印しょうのおじさんだったという記おくはあるんだけど。

2

 おもい出にはキャラメルが浮かんでいる。
 キャラメルのように、二足歩こうする化せきは珍しいので、無やみにたべてはいけないとむかし恐りゅうはおもった。安心したキャラメルは、みっつ目の次元からわき出ていたもじを組み合わせて、海に近いすなのうえに、太いマジックペンできろくした。それはきっとすぐ流されてしまうから、はやくだれかに読んでほしい、と空から見ていたカモメは上昇しつづけてすなになった。

「8がつ8か、ご前8時30ぷん いちまん年ほどまえに音をなくしたふかいすな浜のフナムシのいるひ陰で、ある哲学しゃが発けんしたという貝殻をさがす そんなも 見つか  ろうか、だ てそ 奇 な 殻は そのへんに寝ころが てい ただの がらとは異     す。それは 事  とい  の貝  す。つ り、それは       名の    。  は、           ですから、   、             。                。                。
        名 貝
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 やっぱり、ところどころ波が吐いたあわを見ていました。
 でも、波もえ本だったとしたら、どうだったと思いますか。絵ほんに、これは泡じゃないかといって、読しょを放きしたことがありますか。とつ然、ずじょうの青い昆布が鐘のように波のリーディングテストを燃やしたら、私のつれている子いぬのスーラはそれをちゃんときいてましたか(くろい虹のたい群がぜん部やきそばとつながっていたら)。
 もし、そうだったら、という話しですが。そういうとき、波ぶん学というジャンルのせん門家は、海を泳ぎまわってあそんでいます。それかあそびつかれて勉強をしている。
 かれらの専もんはエラ呼きゅうをしているかもしれないし、両めのタイヤの掃じをしている。そのとき見たのですが、うろこにはふるい傷もあるし、脳みそには電きが迸っていて、その中でお米をたいているかもしれない。実体はわからない。
 それでも、家てい用波生成装置のはつ明い降、瞬くまに波ぶんがくは火星人にふ及する。つまり、むげんの時かんと、むげんのくう間をもつう宙と、それが入っているぼくらののうみその中では、あらゆるものやできごと、かせいじんが実在する。
 そして、波は歴しに似ている。

 もちろん、この音のない砂はまでもお花が咲いたらすぐにしゃ真をとってみたい。それでもまい日波はすり減っていくとしても。
 世かい中の海がデカルトに読み尽くされてしまった午ご、研きゅうの末に貝るいはひとつの条けんを出した。「びわ湖の外しゅうをきょ大な一まいの鏡で囲ってみたら、かがみにべっとりとはりついた前とう葉の透めいなねん液と、もう細血かんがオレンジ色の芳こう剤をふっ騰させていて、人差しゆびと、中指と、親指から縞しまがでた。」
 あわせ鏡のむげんの波は海の文じに比べてしお気がなく、きゅうりも育つ。

 でも鏡の外では、なみを失った海が、読まれることを終えて、公園のベンチでひ向ぼっこをしている。こういうときは、隣でほんとうの文学の音を想ぞうしながら時かんをつぶします。

3

 びわこのほとりでカメラのレンズを身につけた、だいじなりんごを利きてでかまえて、とぼとぼと歩いていきます。あおい空と地ずのような波、み切れた深い砂はまをリズムよくさつ影する。そのとき(い図的にそうなっているわけではないのだけれど)歩みを止めたりはしない。
 歩みというのは可そ的で、片あしでもよく、引りょくからこうせいされることだってある。だから、私にとってとるという行いは、画家がかいたフォト・フレームの中で、構ずやストーリーをつくるというひ評ではないのだ。
 私にとって撮るという行いは、風けいの有き的なうん動と、カメラをかまえてシャッターを切る反ぷく運どうのリズムが、調わを見つけるもち歩きがっ器であり、私にとって撮るという行いは、うごきとうごき、動きのなかの最も力がこもるはくと拍のかけひきがおり成す現代おん楽なのです。

 私は、デュシャンが、かべによりかかった一瞬や、ねむるコップがね返りをうたない間のチャンス、はな火が開く直ぜんのちゅう象とカメラのフラッシュがかべからはねかえってくるわずかなじ間みたいな、そういうシーンのだんめんに対して、カメラをある位ちに持ってきてからシャッターを切るまでの0.5びょうや6秒という、タイム・フレームを合わせる、またはわざとらしくズラす。その指と、くちびるの震えやはいの呼きゅう、肘の角ど、髪のけのうねりとか、ポケットの中で考えていた飴のこととかがピシャリと重なったとき、どこにも世かいの果てなんてば所はないのだけれど、あったかもしれない最はてを、いつだって呼びよせているような気がして、だれも折ることのできないさい初の紙ひこう機が、ずっと近くの見えないところをしゅう回しているような感かくがあって、この音のないすな浜では、りんごはわたしの耳になり、どう時にリコーダーのファにもなった。
 シャッターをきっていればすぐに、き節がカレンダーをめくるゆびになる。
 それは例えるなら、じ間のうえをはしる二じ元のしょう年が、なにもない平坦な道をはしってころんでしまうようなことかもしれない。転ぶたびに道は四かくくなったり三かくになったり、八じ元の生きものの餌としてほうふなえいよう源になったり、辞しょになったりしている。

 て書きの日っきのうら側にある、かいすい浴客へのインタビューにもとづいた、定期調さ報告書(仮)によれば、このすな浜はだれもが例がいなくじ分のりんごを大せつにしている。みんなのりんごはひとしく甘い、氷のにおいがした。

4

 くりかえします、りんごヨーグルトのじゅん備はいつでもできているし、だれもが自ぶんのりんごについてよくかんがえる午ごを生きがいにもきゅもきゅとしている。すな浜というき号(仮)にだれかが胼こ(たこ)のえを描いてしまうほどに、頭のつま先からおでこの岬までつかってじゅう層てきに絡まりあって、転んだまま石こう像みたいに固まっている。
 ある人は、りんごのことを果もの(いち部野さいを含む)だと考えているし、ある人は時計とうだと考えている。ある人はパーティーの机(学っこうのシンボル)だと考えているし、ある人はマルセル・デュシャン(1887-1968)だと考えていて(あるひとはけん法の草あんだと感心している。ある人は耐ねつガラス性のふ安(大丈ぶだよ)だといい、ある人はズボンのほつれ、ある人はみかんの血(オレンジ色の)、ある人はバナナの皮が(厚く)あるいはいちごの骨、(も)ほそい、ももの木(とカメラ)は、か樹園のよ空(は学こうに行く)、(メロン、の写しん、の耳たぶ、とパイナップル(ず工)))の目(が6つ()、トマトのようなて袋をはめた黄いろい犬(中略)あるいはりんご(フィクションという街で二足ほ行の犬がニワトリを立ぱにそだてている)。ようするに、せ界はスイカ(の種)のように)並んですわっている。ここで報告はしゅう了です。

5

 りんごのスイッチをオフにして、スイカの種を2つぶ水でのんだ。

「大抵の場あい、赤く縁どられたちょう査ほう告しょをな乗っているげんこうよう紙は、びちょびちょのメガネをかけてりょう手の触しゅを忙しそうにくねらせているオタクのて汗と血るいによって、趣みのはん疇でかかれたきざみ海苔もじなんだ。」
 もうたくさんですと、まつげがつんつんになって叫ぶ、かず々の調査ほうこく書(仮)を読んできたこのアンテナ(私)がいうのだから、これはNえいちKの電ぱじゃない。
 ぼくはもともとうそをつくタイプではないし。
 お世辞すらつくと口から蛇口がでるんだ。

 それをきいていたカモメはたかくたかくじょうしょうし、うそをひとつついてみずいろのはブラシの毛がぽろぽろととれた。カモメのうえで観光きゃくはダンスをおどり、キャラメルは立ち上がり、アルビノのシャチはもくもくと勉強をつづけた。
 それを私はしゃ真に撮ってカモメに渡した。

「博士、結きょくわたしは病気なんですか?」
 カモメはおなかをすかせていた。かれの住む西にかえれば、コーヒーのにおいのする巣としょう突のためのアヒルのクッションが住んでいます。
 はかせはゆう気を出して、カモメの額を押した。
「人げんって、動ぶつなんだなっておもうたびに、どう物ってにん間なんだなっておもいます。」
博せ?

 年賀状はおそらく届いた、ペン立ての中の水そうの中の穴に落ちて船に乗っていた。ピンク色の髭をなでてはよせて返す波とチョコレートの波。
「カモメくん、土ののりものはすきですか、ゆげがふっていますか、それとも、はるがすきですか、はるの、きゃぷてんがけいじどうしゃに、のっています、あなたは、はねさきのくろいはんてんもようがもえているようにみえて、べんちぷれすとして、わたしをそうじゅうの、コックピットにのせています。いっかいおります、テレパシーではなしをしましょう、いっかい、つめたいかいだんをおりて、テレパシーをしました、さあ、もういちど、つめたいてすりですよ、ぬめぬめとした、きいろい羽のドアをあけて、そのまえに鍵をおいてくたざい、森はたくさんあります、そしてくらくらしていてこわいのです、さあ、急いで、しんじつのあいことばをおしえてあげたい、めがしらのじゃくてんをいけばなでつきさしたい、たけのこのながさを変えてみました、鉄のほうがみじかくふとくなりましたよ、さあ、はやく、あしのはやいやきいもがいろおちして、しちりんのなかのほのおがむらさきいろにそまったらぞうきんみたいに、ちからいっぱいしぼって、ななつのこゆびをこげこげにしました、とけたこおりがひとびとのゆめにあしをはやしてすきっぷをおぼえる、ころんで、ないてちきゅうがとろける、かもめくん、きみだってけいさつのおかしをこねるのはたのしいでしょう。わたしだって、にじいろのつえがほしいですよ、もやもやとなみうつ山みゃくをほそながいつえでひっかきまわせたらうれしいんです、急いで、どあのぶをかしてください、らいおんのきばを、くちびるのめろんを、おさかなのあつまる痰のようなみにくい笑顔をもういちど、くもりぞらにあかるいカモメの輪をえがくげんだいのちゅーりっぷのたねを、のうみそのまんなかをしんちょうにわりだしてうえつける、きのうのつちまみれだったはたけをおもいだして見る、みみずがにまんびきいたっけな、みんな血がかよっていた、はんどうでくねくねダンスをおどっていた、し界がぴんくいろのもやみたいにゆらゆらとこわれた、ミミズがわれてなかから本があふれてくる。かんせんしょうがまんえんしてしまいます、カモメくん、しんかんせんはかっこいいですよね、しゃしんがあるのでみてください。」
私は写しんをかもめに渡した。

6

 カモメは一体どのように飛んでいたか。
 砂でできた物しつのなかを、温室のかじゅえんを、コップのなかの海をそして、砂の中の惑星を、波の本の宙を。

 私はきゅう激に、自ぶんのもっているたいせつなカメラであり、かつりんごであるこのぶっ質のことが恐ろしくなった。人はそれを真じ目すぎるとはん断し、すこしおこるかもしれない。それでも、わたしには、早きゅうに琵わ湖を囲ういちまいのきょ大なかがみを取り壊さなければならないように思われたし、それにはアルビノのシャチが協力してくれる気がした。
 しかし、ここである重だいなけっ陥に気づいてしまったわたしは、「自宅」という言ばをうしなっていたのだ。あの日洞くつをて放した火よう日から、本とうの海やほん当のあわは、あるいは。波は、すべて土よう日のどう窟の奥にかくされているのかもしれなかった。
「もしもし、カモメの耳はここで合ってますか」
はい、文じがとおり過ぎていきます。
「カモメはすべてを耳にした。」
カモメは博せのことを一しゅん考えたが、それはむ理な話だった、どうしたって。もう火ようびのどう窟はおびただしい苔のもんに閉ざされて川になったのでした。
「はか士の例をおもいだします。」
「はい、」「それは良いこと」「ばですか。」
つまり、あなたの手に
「は、その、お」「そろ」しい、り「ん檎が」「あり、」「どう窟」は
「、閉じ」て本と苔に閉じたの「です。」
「私」のてのなかには、「林ごがあった。その林ごは、やはり」恐ろしくふるえて「いた。」
「どう窟は、コップのように」閉じていたし、苔にとざされて、「ざっ草になって、」「いた。
「わたしは」ふう景のことをおもい出し「た、そして、ふるえる」りんごを使って、「さいごの」おとを「奏でること」にした。だ「れもおっ」た事の「ない、さいごの紙」ひこう機が、ずっと遠くの聞こえないところ」を周かい「している気がして、「カメラは」それでもがっ「器になれた。

 私は波のうえを泳いで」」」かもめに生いしげる風けいの写しんを渡す。
 しゃ真はカモメの涙としてなぞの信仰を発しんする。床にふ属するすべての物しつが頭頂から発したお花のよう脈は、ナイフのように霊きをまとっていて、牡蠣の外とう膜縁からのびた三日づきじょうのしょく手から、でん波をじゅ信した。

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