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マガジン

  • 反ラボの記憶

    反ラボの活動記録まとめ

最近の記事

短歌❶

10円のボールペンだからすぐ壊れるからこれで短歌を書ける 洞窟のなか 膝のうえに大気を置かれて立つこともできず 地図のうえに突っ伏して苺の夢の思想ファシズムけど可愛い レーニンの活造りが来るべき食事を待ってる ひとり今夜も 椅子になったら弱いだろうね手を繋ぐとき腕相撲したいとき うさちゃんのご飯くださいとは関係ないよ 名前三田だとしても

    • アリストテレスさ

       肩をへびのように這うてんとう虫がもよもよして耳から胃が出そうになった。子供とおもわれていたころ、転んだきずのひざの口からてんとうむしが体内に入ってしまったことがあったが、あれは思い出だろうか。私の脳がいつもてんとうむしの脚の数を三十本くらいに勘違いしているのは、膝のいまも蠢くわすがな腫瘍の与える主観的な数量を、てんとうむしに群がる三十本の脚という実体に結びつけた哺乳人類の、原罪が見る初夢だろうか。  〈私〉のなかの肩で自由に足取りを闊歩するてんとう虫に、川を下るせせらぎで、

      • 1  ぶ厚いせ表紙と絵本のすきまから、あわのようにあふれだすアヒルのしゃしんみたいに、朝しょくのひざしに流されているわたしは、海すいよくと砂と、せい神が集まるとてもフレキシブルな床を歩いていた。床には、僕が散らかした本が積まれており、本は僕を目で追っている。  床にふ属するすべての物しつが頭頂から発したお花のよう脈は、ナイフのように霊きをまとっていて、牡蠣の外とう膜縁からのびた三日づきじょうのしょく手から、でん波をじゅ信している。  とおい、むかし、床にしゅつ現したこのす

        • 絵日記/もにきす

          最近は/ブルー/アーカイブと/🫐/うあーかいゔというゲームを/ブルアカはやっています/流行っ/ていた/ます/をやって/いるのですが/よ/がでてくるの/おんなのこ/の子が/でてくる/のです/がキャラ/な/の/ですが/二次元のおはなし/という/かシナリオか/書/か聖書のような/シナリオを読んでい/座って読/ベッドで/布団/をか/お片付け/をさぼって/🌵って/ベッ/シナリ/ブルーべ/リー/おいしいブルーベ/アー/赤/☆う/🫶/らぶー◯ヴ/ブルー◯◯◯イ/ゔぇ/アカ/ブルー/ベリーい

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        • 反ラボの記憶
          6本

        記事

          第二回シュル-レアリスム宣言

          n-1の悟性が予期する平面において、シュル-レアリスム・オブジェクトとして外化、否定、反証可能な思想は実在の方法を一つも把捉し得ない。可能かつ否定すべき把捉とは、このパレルゴンにおいてベクトルを想像から象徴へ、象徴エフェクトの仮想思念体の彼方へと、脱構築そのものを放棄し、逃走線の帰路にn-1を盗むことである。であるならば、その思念体を実態エフェクトとして象徴の下へと、彼方へと否定するシステムが観想され得る。「大地震」なしに病として予期される啓蒙の、象徴界エフェクトへの転移に、

          第二回シュル-レアリスム宣言

          Spivak, Gayatri Chakravorty. "Three Women's Texts and a Critique of Imperialism" の翻訳ノート(1)

          「帝国主義」とは、イングランドが19世紀末に他の大国とともに政治、経済的な膨張を意図し、実践した局面を指している。また、「帝国」とは16 世紀から 20 世紀までに、イングランドついでブリテンが公式、非公式に支配しようとしたか、支配した周辺地域を持っていた政治体制を指す[1]。 「帝国主義を忘却するのであれば、19世紀の英文学を読んだとは言えない」ここで使われる「読んだとは言えない」は、原文の "should not be possible to read" の shoul

          Spivak, Gayatri Chakravorty. "Three Women's Texts and a Critique of Imperialism" の翻訳ノート(1)

          ノートの0.5ページめ:うららか絵画祭について

          不完全な私のノート 人生に必要なのは結論ではなく、仮説である。ノートというタイトルは、三木清の『人生論ノート』から引用している。三木は『人生論ノート』において、人生は偶然と必然の中間に位置しており、愛や希望や運命はその中間環境によって存在することができると語っている。また、人生には始まりも終わりもなく、ゆえに絶対的な根源にも、絶対的な結論にもたどり着けないし、たどり着く必要もないと考え、ただ、仮説と検証があるだけだという結論を導く。このような三木の人生論が、「ノート」という

          ノートの0.5ページめ:うららか絵画祭について

          ボリス・グロイス論

          本稿には、東京造形大学で行われた読書会のために主催者である私(三田)が作ったレジュメを少し改変したものを載せている。現在も読書会と勉強会を主催しているが、あまりにも参加者が少ないため本論考から興味を持ってもらいたいと思い、noteに載せることにした。この論考を読んで参加したいと思った方はぜひ下記リンクからオープンチャットに参加していただきたい。 オープンチャット「読書会 東京造形大学」 https://line.me/ti/g2/NJs3-doGR0CkEJxKWViLr7N

          ボリス・グロイス論

          裏芸祭に行ってきた。

          10:30くらいに着いた。そのときは電気がついていなかったが、展示作家の友達と来ていたから、普通に入った。その友達は在廊しにきていたが、アトリエのオープン時間を知らなかった。でも、とりあえず入った。 入ってすぐのところに紙が置いてあって、よく読まずに写真だけ取っておいた。結局いまもよく見ずにこの画像を張り付けているから、作品の位置とキャプションが書いてあるんだろうなくらいの認識しかない。 とりあえず一周してから、アトリエでスマホのカードゲームをしていた。11時くらいになる

          裏芸祭に行ってきた。

          反ラボの現在:ポスト二項対立の時代における反概念

          最近の反ラボ 反ラボは今、動きを止め、忘れられ去られようとしている。Discordはついに私を含め誰も論文を提出しなかったし、いまだに誰にも発言権はない(図1)。 反ラボ再考 思えば反ラボは生まれた時から死を予見された存在だった。反(アンチ)という構造はその存在から闘争的であるとジャック・デリダは言っているが、ボリス・グロイスは闘いは常にイデオロギーへの無限の期待でありながらそのパロディでもあると言う。これは何もアンチという概念が言語的必然性として反対者に依存していると

          反ラボの現在:ポスト二項対立の時代における反概念

          土地「14分の5」展に対する私見

           本稿では、9月5日から9月9日までの5日間、土地というアーティストによってmimeで開催される展覧会、「14分の5」展について私見を述べる。一言でいうならば、同展覧会は、革命である。それは表象不可能なものを表象すること、再現前なき現前を欲望してしまうことの暴力性という文化における大問題に、全く新しい方法でもってパラダイムシフトをもたらしたからだ。会期はあと1日しかないが、この革命は必見である。 光、あるいは影  9つの既存の発光源=オプション付きの借りられた展示室で、す

          土地「14分の5」展に対する私見

          外部向け:反ラボの教育における意義

          反ラボはラボに反旗を翻し、打倒ラボを掲げる組織ではない。反ラボはラボに補えない反対側の教育における役割を担う組織だ。 反ラボが担うべき役割 東浩紀はこの記事で、ゲンロンにおける飲み会のようなノンエッセンシャルなものの重要性を説いているが、オフライン空間であり、なんの目的もなく学生がたむろする人間ツタヤとしてのCSラボが担っているのはこのノンエッセンシャルな側面である。ラボでは創造的な活動や議論がないではないが、たまたま目に入った左藤青さんのツイートを引用するが、一般論がぐ

          外部向け:反ラボの教育における意義

          反ラボ声明ver.2.0+質問回答

          反ラボは形骸化せず、他者性を排除する共同体の性質に自覚的かつ責任を持つために流動的である必要がある。ゆえに反ラボの定義も揺らぎやすい。そこで反ラボ声明ver.2.0では、反ラボ声明を部分的に踏襲しつつ、不要な要素は否定している。反ラボに完成はあり得ない。それは少し面倒ではあるが、共同体における原初的な暴力性に対して責任を持つということはこういうことなのだ。 反ラボ声明ver.2.0反ラボの目的 反ラボの目的は「本来のラボの実現」の範疇を逸した。「本来のラボの実現」が第1段

          反ラボ声明ver.2.0+質問回答

          反ラボマガジンについて

          反ラボマガジンとは 反ラボマガジンとは反ラボのメンバー・研修生たちが、それぞれ自主的に行っている研究や制作、活動に目を向け、ドキュメンテーションおよびアーカイブするためのマガジンである。マガジンという名を冠しているが、成果物が雑誌の形式を取るとは限らない。あるときは展覧会になるかもしれないし、あるときはライブパフォーマンスになるかもしれない。それは、そのとき反ラボに参加している人たちや周囲の環境によっても変化していく。反ラボマガジンは未知のフィルムを収納する容器(マガジン)

          反ラボマガジンについて

          ザムザム星に行ってきたンゴ

          大学で何人かに感想を聞かれることを予想し、予めここに記す。 しかし、この展示についてはTwitterで、有名なアーティストや批評家、美術関係者の方々が感想なり批判なりを呟いているので、そっちを読んだ方がおもしろいと思う。私は単に考えることが好きなだけで、批評や美術の知識は全然ないということと、ザムザはキュレーション展なので個々の作品については深く言及しないということも予め断っておく。 惑星ザムザ  惑星ザムザとは製本工場跡地で開催された、布施琳太郎によるキュレーション展で

          ザムザム星に行ってきたンゴ

          反ラボはなぜ独立した組織ではなくラボの変革を標榜するのか

          反ラボへのTwitterでの質問に回答する。Twitterの字数制限に反ラボの精神は収まりきらない。 新ラボの実現 ラボの良さは自由度の高さにあるが、民主主義が愚民主義に陥りやすいように、そして山賊には山賊のルールがあるように、単なる自由のもとに自由な世界は実現しえないというパラドクスがある。自由は個人の高度な知性とたゆまぬ努力によってこそ維持できるものだ。そこで反ラボがラボに足りない知性を補完し、反ラボ内でメンバーが飽和することで反ラボが内破=ラボ化し、反ラボとラボが境

          反ラボはなぜ独立した組織ではなくラボの変革を標榜するのか