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半身

 その昔、人類は異なる形をしていた。二人の人間がおなかのあたりでくっついて一人の人間として存在していた。手足は四本ずつあったし、頭も二つあったのだ。
 神にたてついた人間に腹を立てたゼウスは、あることを思いついた。人間を半分にしてしまえば力も弱くなって神に反抗することはなくなるのではないか。ゼウスは早速人間の体を半分に割いた。それが今の人間。だからわたしたちはかつて生き別れた半身を一生かけて探すのだ。

 「今、こころを読んでるんだ」
 その言葉に一瞬、混乱した。この人って超能力者だったのか。わたしのこのぐるぐるした心のうちまで読まれてしまってるのだろうか。突然のカミングアウトに戸惑っていると、ピンときていないわたしの表情を察して、彼は続けた。
 「夏目漱石の『こゞろ』を読んでてさ。それで、人間らしさってなんだろうってすごく考えちゃうんだよね。高野は人間らしさって何だと思う?」
 『こゞろ』は高一だか高二だかの国語授業でやった記憶が朧気にある。たしか、下宿先のお嬢さんを巡って親友Kと恋敵になってしまい、心を病んだKが自殺する話だ。

 山本とは大学の同期で、ゼミが同じだった。あの頃はゼミの仲間たちでよく飲みに行っては議論の火花を散らしたものだったが、社会人になってからは週に一回が月に一回になり、そのうち月に一回が半年に一回になった。顔を出すメンバーも一人また一人と減り、気がつくと残ったのは私と山本の二人だけになっていた。
 山本と話すのは楽しい。「人間らしさってなんだと思う?」だなんて、こんな話題の振り方をする人をわたしは他に知らない。気の置けない友人とだって、こういう自分の価値観を掘り下げるような話題になることなんてほとんどない。
 人間らしさとは、と言われて浮かぶことはたくさんある。二十数年生きてきて人間らしさについて全く考えてこなかった、なんてことはない。なのにどれをとってもきちんとした形を作ってはくれない。結局うまく答えられずにその日は終わった。
 帰りの電車の中でも、家に帰ってお風呂に浸かっている時も、歯を磨いている時も、ベッドの中でも、何がヒトを人間たらしめているのか考えた。一晩経っても思考は読み込み中のカーソルのように、ぐるぐると同じところを回っている。理性、情緒、義務、権利、言語、進化、科学。それから何日も同じことを考えた。
 「倫理的に正しい、正しくない以外の価値観を増やしていくこと」。これが今のわたしなりの答えだった。

 LINEでもよかったのだけれど、この答えを直接聞かせたくなってしまって、問いを投げかけられてからちょうど一週間後の日曜日の夜、わたしたちは一週間前と全く同じ時間に、全く同じ席で、全く同じビールを飲んでいた。意気揚々と山本に答えを聞かせると、彼は「そうか」としばらく目線を遠くに投げたあとで「なるほどね」と笑った。もっと何かあるだろうと期待していたのに、彼の反応はそれだけだった。
 お酒が進むにつれて、話題はわたしが抱えている苦しみへと移っていった。このときのわたしの人生のテーマは「自己受容」だった。自分の期待に沿えない自分がすごく嫌だった。人に迷惑ばかりをかけているように思えて、こんな自分に価値なんかない、お前は死ぬしかないと責めた。同時にこんな自分では他者に受け入れてもらえないのではないかという不安感にも苛まれた。他人に迷惑をかけずには生きられない自分の不甲斐なさがどうしようもなく嫌いだった。等身大の自分を受け入れなきゃいけないことはわかっているのに、どうしてもそれができなかった。
 山本はわたしの話を最後まで黙って聞いていた。
 「自己受容が必要なのって、つまり生き延びるためでしょ。それがなかったら僕たちは簡単に死んでしまう」
 生き延びるため。その言葉を心の中で反芻する。そうだ、自分で自分を受け入れられなければ死ぬしかない。わたしは今生きている。死ぬしかないと思いながら、自分に殺されることなくどうにか今日も生き延びている。

 酔ったはずみで書いている文章を見せてしまったこの日の自分を愚かだとは思わない。それがわたしたちを、その心理的距離を、一気に近づけたからだ。わたしの文章を読み終わると、耳を赤くして山本がぼそりと言った。
 「おれも書いてるんだよね。見てくれないかな」
 人に自分の文章を見せるという行為はこのうえない信頼の発露だ。わたしたち文章を書く人間は、同じ種類の人間を見つけると途端に嬉しくなってしまう。この世界にはいろんな表現のやり方がある。本当にたくさん。その中で文章を書くということを選び、好み、愛する同志は特別だ。文章はときに直接的すぎたり、逆に言葉が足りなかったり、自分の思惑とは全く別の解釈をされたりする。世界観や表現が好きだと言ってもらえることもあるが、同時に気持ち悪いと思われたり敬遠されてしまったりすることも少なくはない。そういったリスクを取って、知人に文章を読んでもらうことは本当はものすごく怖いのだ。

 それからわたしと山本はほとんど毎週のように食事をするようになった。日曜日の夜が二人の安息の時間として定着するのにそれほど時間はかからなかった。互いの抱える苦しみについて話す時間は、決して埋まることのない孤独の痛みを和らげてくれる。
 この日話題にのぼったのは彼の恋愛観だった。彼は「おれは三年間しか人を好きではいられない。どんなに好きでも三年経ったら気持ちがなくなってしまう」と静かに告白した。騒がしい居酒屋にいたはずなのに、その声は静寂の中にこだまするみたいな響きでもって、さっくりと胸を刺した。
 山本には四年間付き合った恋人がいたそうだ。先に惹かれたのは彼だった。恋に落ちてから半年後、晴れて思い人と付き合うことになり、二年半は相手を溺愛していたそうだ。しかし付き合って三年目に差し掛かる頃、彼は自分の気持ちの変化に気付く。たしかに情はある、だけど愛情は。
 そのときのことを振り返っては「僕は好きな人を傷つけてしまう。だから人を好きになることはできない」と繰り返す彼になんと声をかければ救えただろうか。その恋人を傷つけたことは事実なんだろう、それを否定することは違うと思った。そうしたら何も言えなかった。それでも山本はわたしに話したことですごく気が楽になったと言ってくれた。

 また次の日曜日の夜も会うことになっていたのだけれど、日中に山本から連絡があって約束はなくなった。「高野に甘えすぎてる」それが理由だった。代わりに電話していいかと尋ねると快諾。何コールかのちに「もしもし」と声がして心臓が跳ねた。
 これはもう互いにわかっていることだった。今は辛うじて同期として飲みに行っている感覚を保てているだけ。平均台の上を歩くように、少しでも踏み外してしまえばもう戻れない。いや、本当はもうバランスを崩しかけている。わたしたちは互いを救いあって、日曜日の夜を拠り所に何とか毎日を生き延びていて、そんなのはもうただの同期ではない。もう少し、例えば軽い力で背中を押されたり、ぴっと腕を誰かに引かれでもしたら簡単に落っこちてしまう。
 「このままだと山本のことを好きになってしまうかもしれない」
 そう告白した。電話の向こうで息が漏れる。彼の返事はこうだった。
 「おれだって高野のこと好きになりかけてる。でも僕は好きになった人を傷つけてしまう。不幸にしてしまう。だから動けない」
 これもわかっていた。彼は変わらない。自分の背負っている業から逃れる気なんてない。
 「でもできたらやっぱり会いたい。今度は一日遊びに行こうよ」
 続いた言葉に首肯しないという選択肢などなかった。

  この頃のわたしは、山本との時間で救われる一方でとても追い詰められていた。通勤電車に乗るのにも動悸がするので、目を閉じてイヤホンを耳に差し込んで自分を外界から切り離さなければならなかった。あんまりひどいので心療内科を受診して、不安を抑える薬を処方してもらったくらいだ。
 薬を飲んで一日働くつもりで家を出る。なのに最寄駅に着くと目眩がして息ができなくなることが度々あった。息苦しさに駅のベンチに座るとそこからもう動けなくなってしまう。行かなきゃって思えば思うほど足に力が入らなくて、筋肉に力が伝わらなくて。力んでも力んでも足の裏から地面へ抜けていく。自分の足なのに思い通りに動かせないことがどうしようもなくもどかしくて、苦しい。そんな日は言うまでもなく帰るしかなかったし、泣きながら職場にたどり着いたとしても「今日はもう帰りな」と帰されることが多かった。
 別に職場に不安があるわけじゃない。同僚も優しいし、上司もよくしてくれている。エクセルをポチポチするのも好きだ。なのに足は、体は、言うことを聞いてはくれない。

 彼はそんなわたしを心配してよく連絡をくれた。でもその言葉を信じてはいけないことをわたしは知っている。初めてできた彼氏を通して学んでいる。
 その人はひとつ上で「何かあったら頼ってね」が口癖だった。わたしはその言葉をそのまま信じて、わたしの全部で彼に寄り掛かった。嫌なことが起きたとき、眠れない夜、憂鬱な日。どんなことだって彼氏に話した。思考の全てを彼氏に投げた。そうしているうちに少しずつ彼氏の様子はおかしくなっていった。メンタルは共鳴する。引っ張られる。彼はわたしの重さに耐えきれなくなって、とうとう潰れてしまった。
 人の言う「頼ってね」とは「負担にならない程度に頼ってね」であり「自尊心をくすぐられる程度に頼ってね」だったのだ。だからこそ、山本を頼ることはできなかった。一度頼ってしまうと全てを預けてしまいそうで怖い。わたしは自分を信用していない。そう言って頼ろうとしないわたしに、山本は何度も何度も言葉をくれた。
 「今なにで苦しんでるのか教えてほしい。思考がまとまってなくてもいいから教えて」
 「おれは高野を救うことで、昔のおれを救ってる。これはおれのエゴだから、おれのためにもおれを頼ってほしい」
 そう言われて、何度も書き直して、抱えている苦しみをやっと文字にした。
 「他人に迷惑をかけている状態が嫌だ。もう死ぬしか許される方法がない」
 山本にとって、誰かに必要とされることは彼が生きる理由に繋がっている。だから同じようにしてわたしにも生きる理由をくれたんだろう。
 「どれだけ他人に迷惑をかけたとしても、少なくともおれのために存在しててほしい。頼むから」

 もうあれから何週目の日曜日になるのか、覚えていられなくなった。それくらい日曜日の夜が二人の中で当たり前になっていた。そんな夜、彼が自身の生い立ちをぽつりぽつりと零してくれたことがあった。わたしはその雫をひとつも零さぬように手のひらいっぱいで受け止めることしかできなかった。
 彼の生まれは部落差別が今も根強く残っている地域で、詳しいことは教えてくれなかったけれど血筋を理由に様々な制限を受けてきたらしい。「生まれたときから業を背負っているんだ」と口許に笑みをたたえて俯きがちに語る彼にかける言葉なんて、一つたりとも持ち合わせていなかった。 
 わたしのことは「一人にしない。同じ深さにいるから。側にいるよ」と言うくせに、自分は平気でたった一人、孤独の海へと沈んでいく。自分は一人でいることに慣れているからいいんだって言いながら暗闇の彼方へ閉じこもる。この人は自分に孤独を課している。そんなの、ちっともよくない。いいわけがない。諦観と苦しみを滲ませた瞳を見つめながら、わたしは自分が怒っているのか悲しんでいるのかわからなくなる。

 「親愛なる分身さん」
 いつからか、山本はわたしのことをそう呼ぶようになった。わたしたちは似ている。考えていることや思うことが似ていて、話していると「わかる」のだ。お互いに。こんな感覚になる人をわたしは他に知らない。きっと彼も。
 そしてわたしたちは同じ名前を持つことになった。山本がくれたその呼び名は、初めから自分の名前だったような懐かしくて愛おしい響きがした。今まで生きてきた名前は煩わしい人間界で生きるための仮の名で、わたしという生き物の真の名前はこっちだったんじゃないか。そんなわけがなくてもそんな気がしてきてしまう。
 わたしたちは神々の時代には、この名前を持つひとつの生き物だった。きっとそうだ。もしそうじゃなくてもきっとどこか、なにか、特別なものがわたしたちを繋げている。そう思いたい。

 山本は昔からいろんなことを何かに喩えて話す癖がある。その比喩で日常を書くスタイルが好きだ。村上春樹に影響を受けた詩的な表現に触れると、彼が見ている世界の一端が垣間見えたような心地がする。
 これは最近になって知ったことだが、山本はよく自分を深海魚に喩える。ずっと暗然とした深海に暮らしてきた自分は海の上に行ったら死んでしまう。人を不幸にするから深海にいるしかない、と。必死で自分も同じだと主張する。だって分身なんでしょう。わたしが一生かけて探し続ける半身はあなただ。なのに。
 「高野を深海にとどめておくことはできない。高野は深海にいるべき人間じゃない。おれと高野は似てるかもしれないけど、それは高野が今孤独の海に沈んでいるからだよ。高野は海を出るべき人間で、おれは一人で海底にいるべき人間。一緒にはいられないよ」
 わたしがいなくなるって決めつけてるのも、自分は深海魚だから海の上へ行ったら死んでしまうと思い込んでるのも、この人の弱さだ。わたしは決していなくなったりなんかしない。分身のわたしに海を出ることを勧めるのは、あなた自身がどこかで海を出たいと願っているからでしょう。あなただって海を出ても生きていける。だって、あなたはわたしなのだから。

 わたしがあなたにとっての光になれなくともいい。深海の生物になって、このままあなたと一緒に海底で一生を終えたい。だってわたしたちはかつて二人で一人だったのだから。半身なら、恋がなくなったって一緒にいられるはずでしょう?
 あなたの背負う呪いが一生解けないのだとしたら、あなたが呪われたままの方が楽だと言うのなら、わたしも一緒に呪われてあげる。わたしだってあなたと同じだ。罪も罰も背負っている。わたしはあなたが思うほど綺麗な人間ではない。あなたがわたしの翼を見るたびに罪悪感に苛まれるなら、こんな翼はへし折ったって構わない。
 二人で生きよう、生き延びよう。それが死ぬことのできないわたしたちに残された救いだ。本当は半身なんかじゃなくたって、ひとつに溶けることなんてできなくたって、二人だけの世界で。

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