送り手になる恐怖
noteに登録してみて感じたのは、コンテンツの受け手から、コンテンツの送り手になることへの恐怖だった。
noteの作りや仕組みは、コミュニケーションよりもコンテンツの発信と発見、作品発表と購読というところに重点が置かれていて、適当にだらだら書き散らして、適当にリプライを投げ合うTwitterなんかとは全然性質が違った。そこで流通する主たるものは、「作品」なのである。
僕にとって、「作品」として何かを送り出すことはただ適当に頭の中を垂れ流すのと違って、とても怖いことだった。作品を届ける先にはコンテンツの消費者がいるのだ。それがわかっていることであるならば、消費者にごみを投げつけるような真似はできない。作品の背後には責任がある。
もちろん、気負いすぎだと思う向きもあるだろうし、もっと気軽に発信すれば良いものだという考えも分かる。でもnoteで流通する作品は、金銭のやりとりを発生させる仕組みの中にある。例え僕が無料の作品しか発表しなくても、その場にそういう仕組みがある以上、無料の作品と言えどもそれなりの品質がなければ流通させてはいけないのではないか。そんな思いが僕にはあるのだ。
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