大槻泉実

ふぁぼるぞ!

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最近の記事

(仮題)ギフト 第1節

「あれ……」 異変に気づいたのは、いつものようにショッピングサイトの欲しいものリストをチェックしているときだった。欲しいものがあるときはまずここに入れ、しばし寝かせるのだ。そうして、欲しいという気持ちが収まらなかったり、あるいはぐっと価格が下がったりしたら買うというわけだ。SNSにも公開しているので、日々の物欲が丸出しになってしまうが、もしかしたら誰かが贈ってくれるかもしれないという淡い期待があった。 「やっぱりなくなってる……」 そのサイトの欲しいものリストには、その

    • ももたろう

      むかしむかし あるところに おじいさんとおばあさんがすんでいました あるひのこと おじいさんはやまへしばかりに おばあさんはかわへせんたくにいきました おばあさんがかわでせんたくをしていると かわかみのほうから どんぶらこ どんぶらこ と おおきなおおきな ももがながれてきました おばあさんは ももをかわからひきあげようとひっぱりました うんとこしょ どっこいしょ うんとこしょ どっこいしょ ところがももは あがりません そこでおばあさんは おじいさんをよんできました

      • 神の哲学

        「まず始めに無が在った……いや、無がなかっ――違うな。何もなかった……いや……」 神は悩んでいた。神は何もなかった世界に天と地をつくり、光をつくった。そしていよいよ自らの形を真似て人をつくった。 人らは神にとって、自らの信徒となるべき存在であった。しかるに神は、天地創造の神話を彼らに伝えんとした。 「つまり、世界があったのだが、そこには何もなかったのだ」 神は、すでに自身が混乱しはじめていることをその全知全能性によって理解していた。 「神もおられなかったのですか」

        • 大槻さんちのあいさつ

          「やる気でんぬ」 大槻さんは人の顔を見るなり、ちょっとうっへりした様子でそう言った。 「でんぬ」 同じようにうっへりとしながらそう返す。これは挨拶のことばなのだ。もう10年以上も昔から、彼はやる気が出ないときは決まってこの挨拶を使った。返し方もきちんと定められていて、自分もやる気が出ないときには先ほどのように「でんぬ」とうっへりしながら答える。うっへりどころかぐったりな時には「ぬー」とだけ答える。もちろんやる気が出ない時ばかりではないことも織込み済みで、やる気がある時に

        (仮題)ギフト 第1節

          クオリアの問題を抜きにしても、あなたの「赤い」とあの人の「赤い」は違うかもしれない。

          ※この記事では、諸般の事情により色が正確に表現されていない部分があることをご容赦されたい。 たとえば、こんな色があったとする。 あなたが「この色をもっと赤い色にして欲しい」と言ったとしよう。 すると、ある人はこんな色を持ってくるかもしれない。 一方、別のある人はこんな色を持ってくるかもしれない。 両者は最初の色からそれぞれ逆向きに変化していて、似ても似つかない色なのだが、どういうわけかこういうことが起こり得るそうだ。 どうして二人は「赤い」を逆方向へ捉えたのか。ク

          クオリアの問題を抜きにしても、あなたの「赤い」とあの人の「赤い」は違うかもしれない。

          星になった男

          かつて、星の魔力に魅入られた男がいた。 星の虜となって以来、男は来る日も来る日も星を生み続けた。 生み出された星は、また多くの人々を星の虜にした。 星の虜となった人々もまた、多くの星を生んだ。 そうして世界が星々であふれかえっても、男は満足しなかった。 食事を取る間も惜しみ、寝る間も惜しみ、命を削って星に造り替え続けた。 星の魔力に魅入られた男はもういない。 風の噂では男が失踪した日、星を咥えた一匹の猫又が、その男の部屋から出て行ったらしい。

          星になった男

          高校生だったころに書いた絵本、ここで再録するのありかもしれない。

          高校生だったころに書いた絵本、ここで再録するのありかもしれない。

          冷し中華とざるラーメンとつけ麺があるじゃん? パンタロンとベルボトムとブーツカットがあるじゃん? 別に何の関係性もないじゃん。

          冷し中華とざるラーメンとつけ麺があるじゃん? パンタロンとベルボトムとブーツカットがあるじゃん? 別に何の関係性もないじゃん。

          送り手になる恐怖

          noteに登録してみて感じたのは、コンテンツの受け手から、コンテンツの送り手になることへの恐怖だった。 noteの作りや仕組みは、コミュニケーションよりもコンテンツの発信と発見、作品発表と購読というところに重点が置かれていて、適当にだらだら書き散らして、適当にリプライを投げ合うTwitterなんかとは全然性質が違った。そこで流通する主たるものは、「作品」なのである。 僕にとって、「作品」として何かを送り出すことはただ適当に頭の中を垂れ流すのと違って、とても怖いことだった。

          送り手になる恐怖

          dAのギャラリーでスクラップばっかりが増えていく。

          dAのギャラリーでスクラップばっかりが増えていく。

          なんか見知らぬヒトカラ突然送られてきたけどリャマバッジってなんだ!?

          なんか見知らぬヒトカラ突然送られてきたけどリャマバッジってなんだ!?

          入国申請書

          入国申請書

          Twitterに現れないからといって他のいろいろなサービスで手当たり次第私にふぁぼを投げつけてくる皆さん……

          Twitterに現れないからといって他のいろいろなサービスで手当たり次第私にふぁぼを投げつけてくる皆さん……

          デザインの敗北

          デザインの敗北、と呼ばれる何かがある。何年か前の「テプラを貼られたらデザイナーとして負けだよね」という有名デザイナーの誰かの言葉が元ネタだっただろうか。とにかく、そういう考えがある。 しかし、敗北したデザインはそもそもデザインと呼べるのだろうか。 デザインというのは普通、何らかの目的の為に一定の機能を持っているものだ。ピクトグラムであれば、ある情報を言語に頼らず直観的に伝えるという目的の下、それを象徴する記号を表示しているし、エルゴノミクスキーボードなら、使用者を疲労させ

          デザインの敗北