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『PLAN75』という名の黄昏

林檎の樹の下で
明日また会いましょう
黄昏赤い夕陽
西に沈む頃に
楽しく頬寄せて
恋をささやきましょう
真紅に燃える想い
林檎の実のように

 主役である角谷ミチ役を演じる、倍賞千恵子さんが劇中で歌う、「林檎の樹の下で」という曲の歌詞だ。
 歌詞に出てくる「黄昏」。古くは「誰そ彼(たそかれ)」と言ったらしい。陽が落ちて、人の見分けがつかなくなり、思わず「あれは誰?」と口にする。
 映画『PLAN75』は、あらゆる登場人物が、誰かであり、同時に私である、そんな作品だと思った。そのストーリーは、常に「誰そ彼」と観る者に問うてくる。
 それを象徴するようなシーンがある。河合優美さんが演じる瑶子は、<プラン75>に申請した人達の最期の日まで、電話でサポートするコールセンタースタッフで、主人公ミチを担当する。彼女との最後の電話を終えた後、瑶子はもう一度ミチに電話をかけるが、虚しい発信音が続くだけだ。
 その後一人食事をとる瑶子の脇で、コールセンターの仕事内容を説明する女性が映し出される。申請者たちに寄り添い、途中で断ることがないよう、上手く誘導してさしあげるのだという、その女性の言葉を耳にしながら、瑶子がふいにカメラの方に視線を移す。時間にして1秒足らずのその瞬間に、「あなたならどうする?」という強烈な疑問符を投げつけられた気がした。

 満75歳から生死の選択権を与える制度<プラン75>。映画では、選択権を与えられた者と、その制度の運営に携わる者との両方の側面が、実に淡々と描かれている。激昂するわけでも、落涙するわけでもなく、まるでありふれた日常を切り取ったドキュメンタリーのような印象すらある。
 現実に目を移せば、会社や家族という組織の神話は遥か昔に崩壊し、今は個とネットワークの世界が広がるばかりだ。緩衝材となるものは何もなく、あらゆる類の情報を晒し、晒される。まるで剥き出しの尖鋭な神経同士を繋ぐかのような印象を抱く。
 そんな現実において、誰かに対して寛容であるということ。おそらく唯一の救いとなるはずの心の側面を、私たちは敢えて捨てているのではないだろうか。
 誰もが強者になろうとしていると言い換えてもいいかもしれない。強者の存在は、弱者の存在を前提とするという簡単なからくりを誰もが気付きながら、「自分だけは」と時に虚勢を張るような危うさに満ちている。  
 そんな盲目的な幻想を嘲笑うかのように、SNSをはじめとする、ネットワーク上のコミュニティにおいて、ある日突然敵意を剥き出しにされ、独り追い込まれていく光景は、日常茶飯事だ。
 私たちは、「肉体の死」と「ネットワークにおける死」という二つの側面から、死を捉え直す必要に迫られているのかもしれない。 
 
 ラストシーンで、倍賞千恵子さんは、再び「林檎の木の下で」を口ずさむ。それはあたかも、そんな「今」を生きている私たちへの、レクイエムのようにも聴こえるのである。

#映画にまつわる思い出

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