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【知られざる日ソ間の緩衝国家】極東共和国

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今回はwikipedia英語版「Far Eastern Republic」の記事を翻訳をします。

翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれません。正確さよりも一般の日本語ネイティブがあまり知られていない海外情報などの全体の流れを掴めるようになること、これを第一の優先課題としていますのでこの点ご理解いただけますと幸いです。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

翻訳において、思想や宗教について扱っている場合がありますが、私自身の思想信条とは全く関係がないということは予め述べておきます。あくまで資料としての価値を優先して翻訳しているだけです。


極東共和国

極東共和国は、チタ共和国と呼ばれることもあるが、1920年4月から1922年11月までロシア極東最東部に存在した名目上の独立国家である。名目上は独立していたが、1917年から1922年のロシア内戦で日本が占領した地域とロシア連邦との緩衝国家として想定されていたロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国(RSFSR)の支配下に置かれた。初代大統領はアレクサンドル・クラスノシチョーコフであった。

ボルシェヴィキ革命家、極東共和国初代大統領
アレクサンドル・クラスノシチョーコフ(ユダヤ人)

極東共和国は、現在のザバイカルスキー・クライ、アムール州、ユダヤ自治州、ハバロフスク・クライ、沿海州(旧トランスバイカル州、アムール州、沿海州)の領土を占めていた。州都はヴェルフヌディンスク(現在のウラン・ウデ)だったが、1920年10月にチタに移った。

1922年10月25日、赤軍がウラジオストクを占領。3週間後の1922年11月15日、極東共和国はロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国と合併した。

歴史

⬛創設

極東共和国はロシア内戦の後期に成立した。内戦中、ロシア極東の町や都市は一般に地方当局が支配しており、アレクサンドル・コルチャークの白シベリア政府や日本軍に多かれ少なかれ協力していた。1920年春、日本軍がトランスバイカル州とアムール州を撤退させると、政治的空白が生じた。

白軍の指揮官アレクサンドル・コルチャーク

日本軍の後方に残った極東共和国を統治するため、チタに新しい中央当局が設立された。極東共和国はヴェルフヌディンスク周辺地域のみで構成されたが、1920年夏、アムール州のソヴィエト政府が参加することに同意した。

極東共和国は、コルチャークの死後2ヵ月後に、ソヴィエト連邦と日本占領地との間の一時的な緩衝国家として、ソヴィエト連邦政府の黙認のもとに成立した。ロシア共産党員の多くは、約4000人の党員が自分たちで権力を掌握できると考え、この地域に新政府を認めるという決定に反対していた。しかし、ウラジーミル・レーニンをはじめとするモスクワの党指導者たちは、約7万人の日本軍と約1万2000人のアメリカ軍が、このような行動を挑発行為とみなし、ソヴィエト共和国が余裕のないさらなる攻撃に拍車をかけるかもしれないと考えていた。

緩衝国家建設を支持したボルシェヴィキ政権の指導者
ウラジーミル・レーニン(ユダヤ系)

1920年4月1日、ウィリアム・S・グレイヴス将軍率いるアメリカシベリア遠征軍はシベリアを出発し、ボリシェヴィキが対処を余儀なくされたこの地域の唯一の占領国は日本軍となった。しかし、モスクワのボリシェヴィキ政権は、極東共和国の樹立を東方におけるブレスト・リトフスク条約のようなものと考え、政権が経済的、軍事的に回復するために必要な息抜きを提供するものと考え続けていた。

アメリカのシベリア遠征軍を指揮した
ウィリアム・S・グレイヴス

1920年4月6日、急遽招集された憲法制定議会がヴェルフヌディンスクに集まり、極東共和国の樹立を宣言した。共和国の新憲法は、普通選挙、直接選挙、平等選挙の原則の下で自由選挙を保障し、外国からの投資を奨励することが約束された。

穏健な社会主義者が支配する極東共和国は、1920年末になると、この地域の各都市からしぶしぶ承認された。その後1年半の間、暴力、残虐行為、報復が定期的に発生し続けた。

日本は、1920年7月15日に調印された赤軍との休戦協定で、新しい緩衝国家を承認することに同意し、アタマンのグリゴリー・セミョーノフと彼のロシア東郊を事実上見捨てた。10月までに、セミョーノフはチタの拠点から追放された。セミョーノフがいなくなったことで、極東共和国の首都はチタに移った。

ザバイカル・コサックの統領(アタマン)
グリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフ

1920年11月11日、極東臨時国民議会がウラジオストクで開かれた。この集会はチタの政府を承認し、1921年1月9日を極東共和国憲法制定議会の新たな選挙の期日と定めた。合衆国憲法によく似た新憲法が制定され、1921年4月27日に承認された。

⬛1921年のクーデター

しかし、右翼勢力は、ロシア極東に民主的な共和国が誕生することを否定した。1921年5月26日、ウラジオストクで日本占領軍の支援を受けた白色クーデターが起こった。反乱軍は日本軍によって保護され、沿海州に新政権プリアムール臨時政府を樹立した。クーデターの直後、コルチャークの後継者と目されていたアタマンのセミョーノフがウラジオストクに到着し、自ら総司令官を宣言しようとしたが、日本の恩人に見放され、失敗に終わった。

新しいプリアムール臨時政府は、さまざまな反ボリシェヴィキ勢力を旗印に結集しようと試みたが、ほとんど成功しなかった。その指導者であったウラジオストクの実業家、スピリドン・メルクーロフニコライ・メルクーロフの兄弟は、1922年6月24日に日本軍が10月末までにシベリアから全軍を撤収させると発表したことで、孤立無援となってしまった。1922年7月のゼムスキー・ソボル(全国会議)はメルクーロフ兄弟を退陣させ、チェコスロバキア軍団に所属していたロシア人将軍M・K・ディテリフスを軍事独裁者に指名した。

左が外相のニコライ・メルクーロフ、右が議長のスピリドン・メルクーロフ
(中央はスターク提督)
チェコ軍団参謀長・ロシア白軍指導者
ミハイル・K・ディテリフス
のちに中国に亡命

⬛1922年極東共和国の勝利と終焉

1922年の夏、日本軍が撤退すると、白ロシアの反乱軍はパニックに陥った。極東人民共和国人民革命軍としてわずかに偽装された赤軍が東に移動すると、ディテリフスと彼の残存兵力を含む何千人ものロシア人が新体制から逃れるために海外に逃亡した。極東共和国軍は1922年10月25日にウラジオストクを奪還し、ロシア内戦は事実上終結した。

内戦がようやく終結し、ソヴィエト・ロシアは1922年11月15日に極東共和国を吸収した。極東共和国政府は解散し、すべての権限と領土をモスクワのボリシェヴィキ政府に移譲した。

⬛影響

日本は1925年までサハリン島の北半分を領有したが、これは表向きにはニコラエフスク事件(1920年5月から6月にかけてニコラエフスク・ナ・アムーレで約700人の日本軍市民と兵士が虐殺された事件)の補償としてであった。領土を保持するこの「補償」という動機は、ロシアのパルチザンの行動に対する日本の報復によって、2倍から3倍の数のロシア人の命が奪われたという事実を裏切るものだった。

廃墟となったニコラエフスク(尼港)

領土と資源

極東共和国は、旧ロシア帝国の4つの州(トランスバイカル州、アムール州、沿海州、サハリン島の北半分)で構成されていた。主に、トランスバイカル地方と外満州地方の境界を表していた。短命に終わったこの国の国境は、バイカル湖の西岸線に沿って、モンゴルと満州の北の国境から日本海とオホーツク海へと続いていた。

極東共和国の総面積は約73万平方マイル(190万平方キロメートル)、人口は約350万人と推定されている。そのうち162万人がロシア民族で、100万人強が中国、日本、モンゴル、朝鮮半島に起源を持つアジア系だった。

極東共和国は、ロシア全体の産出量の約3分の1を占めると、同国唯一の国産スズを産出する領土を含む、相当な鉱物資源に恵まれた地域であった。極東共和国には他にも亜鉛石炭などの鉱物資源が埋蔵されていた。

旧沿海州の漁業は盛んで、漁獲高はアイスランドを上回り、ニシン、サケ、チョウザメの資源も豊富だった。伐採可能なマツ、モミ、スギ、ポプラ、シラカバを含む1億2000万エーカー(49万平方キロメートル)以上の広大な森林資源も自慢だった。

1922年の極東共和国の領土

人民革命軍

1922年7月20日、第104バラガンスク・ライフル旅団は極東共和国人民革命軍の第1トランスバイカル・ライフル師団に再編成された。同師団は結成当初から満州との国境を守り、10月4日から25日にかけて、極東における白人の最後の残党であるゼムスカヤ・ラットを討伐する沿海州作戦に参加した。この作戦の間、第1トランスバイカル・ライフル師団はグロデコボ、ニコルスク・ウスリースキー、ウラジオストクの占領で戦った。

第5軍(ロシア連邦)(第4次編成)は、1922年11月16日のロシア連邦全ロシア中央執行委員会の命令により、極東共和国人民革命軍を改称して創設された。第1トランスバイカル・ライフル師団がその指揮下に入った。ウラジオストクを拠点とした。1922年11月22日、太平洋沿岸で白軍を撃破したことと、太平洋沿岸を根拠地としたことにちなみ、同師団は第1太平洋ライフル師団と改称された。

政府議長(国家元首)

  • アレクサンドル・クラスノシチョーコフ 1920年4月6日~1921年12月(ユダヤ人)

  • ニコライ・マトヴェーエフ 1921年12月~1922年11月15日

閣僚評議会議長(首相)

  • アレクサンドル・クラスノシチョーコフ 1920年4月6日~1920年11月(ユダヤ人)

  • ボリス・シュミャツキー 1920年11月~1921年4月(ユダヤ人)

  • ピョートル・ニキフォロフ 1921年5月8日~1921年12月

  • ニコライ・マトヴェーエフ 1921年12月~1922年11月14日

  • ピョートル・コボジェフ 1922年11月14日~1922年11月15日

極東共和国生まれの著名人

ユル・ブリンナー(俳優:※アメリカに渡り『王様と私』などに出演し、アカデミー主演男優賞を受賞している。ユダヤ系ロシア人)

コメント

ワシントンでの極東共和国の議員の写真にフリーメイソンと思わせる議員が二名いる。左側の人物は元左派社会革命党の党員で、ボルシェヴィキ派のちにロシア共産党)のボリス・エフセーヴィチ・スクヴィルスキーで、極東共和国の外相を務めている。大粛清の頃に逮捕されコムナルカで射殺されている。

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最後に

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