フランクファート「最終目的の有用性」

Frankfurt, Harry. G. "On the Usefulness of Final Ends"
Necessity, Volition, and Love (1999) 所収。

5節・9節のあたりの、一定の最終目的を採用し、それを目指して特定の活動パターンにコミットする、ということ自体が実は人生を有意味なものにしていて、内在的価値をもっている……というのが、この論文のメインの洞察。

もう少し丁寧に書くと下記。
行為や倫理に関する哲学の議論においては、それ自体で内在的な価値をもつ最終目的と、道具的価値をもつ、最終目的に向けられた手段としての活動、という対比があり、この価値の導出関係は一方向的である、という概念理解が前提されている。
しかしフランクファートによれば、手段と目的の価値導出はむしろ双方向的である。というのも、
①ある最終目的を採用することは、一定の活動パターン(行為・思考・感情のパターン)に参画することであり、
②そういった活動パターンに参画することは人生を有意味なものにするという点で、それ自体で内在的価値を持つ。そして、
③最終目的を採用することには、そうした内在的価値をもつ活動パターンを可能にするための手段としての、道具的価値がある。
上記①~③により、最終目的が道具的価値、その手段としての活動が内在的価値をもつ、と言えるような意味がある。

以下、各節の具体的な内容のメモ書き。
1
・行為論における〈手段ー目的〉概念。手段は道具的価値、目的(最終目的)は最終的〔terminal〕価値(それ自体での望ましさ)を持つ、とされる。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』に由来)
・しかし〈手段ー目的〉に関する上記の概念理解は、狭く、かつ融通の利かない〔rigid〕ものである。我々がいかに生きるべきかを考えるための概念として、〈手段ー目的〉という概念は、もっと広く、柔軟な〔supple〕ものであるべきである。

2
・アリストテレスのアプローチでは、手段と目的の関係は非対称的・一方向的である。すなわち、一方で、手段は目的との関係によって道具的価値を獲得する。他方で、目的はそれ自体で価値をもつのであり、手段との関係によって価値を獲得するわけではない。
・この特徴は、アリストテレスのアプローチが非人称的〔impersonal〕なものである〔≒人間・個人の視点に立ったものではない〕という事情に由来する。しかし、目的をもつのは行為者である。また、手段ー目的という概念は、我々の生において、より複雑な役割を担っている。

3
・(最終)目的はどのような機能を担うか。その前にまず、何らかの目的を持つことには、そもそもどのような意味/ポイントがあるか。
・目的を持つ理由①:まず前提として、目的を持たない人も利害〔interest〕や苦楽〔suffer / benefit〕は持っており、これは当人にとって重要なものである。これらの当人にとって重要〔important〕なことや、当人が気にかけている〔care〕ことに基づいて、行為を統御するためには、目的を持つ必要がある*。
・目的を持つ理由②:最終目的がないと、我々の活動は有用〔useful〕なものではなくなり、人生全体が空虚で、無意味なものになってしまう
[*注] "care"はFrankfurtにおける最重要概念。「大切にする・大事にする」と訳したほうがしっくりくることも多いが、今回は「気にかける」に統一しておく。

4
・人生が有意味であるのは、当人にとって重要な活動〔activity〕に参画する〔engage〕*時である。そして、ある活動が重要であるのは、その活動が、当人が気にかけているものに捧げられているときである。
・人生が有意味であるかどうかは、行為者の活動が成功するかどうかではなく、行為者がどのくらいその対象を気にかけているか、というその「程度」によって決まる。
[*注] "engage”は気持ち的には「コミット」と訳したいが、さすがに気が引けて、結果的に「参画」というぎこちない訳語に。

5
・ある最終目的を選ぶとき、その目的が持っている内在的・最終的な価値によってのみ選ぶわけではない。ある最終目的を追求することはどのようなことか、ということが、考慮事項として関係してくる。
ある最終目的を追求することは、一定の活動パターン/感情・思考・行為のネットワークに参画することであり、目的が違えばパターンも変わる。そして、ある目的を追求することが有意味かどうかは、その目的がそれ自体でもつ価値だけでなく、上述の活動パターンのあり方によっても決まる
・したがって、内在的価値において劣る目的を採用した方がより有意味な人生になる、という可能性もある。

6
・当人にとって何が重要なものであるかは、その人が何を気にかけているかという事情とは独立に決まる場合と、その事情に依存して決まる場合があるように思える。具体例:前者はビタミン、後者は友情。
・しかし、何も気にかけない行為者を想定した場合、その行為者にとって重要なものは何もない。ビタミンが当人にとって重要であるのは、当人が何かを〔たとえば、自分の健康?〕を気にかけているからである。したがって、あらゆる事例において、当人が何を気にかけているかが、当人にとって何が重要であるかを決定する
・なお、何かを気にかけることは、一定の活動/能動性を含意する。一定の感情的傾向を持つだけでは、何かを「気にかけている」とは言えない。

7
・何も気にかけない/何も当人にとって重要でないような、そういう行為者は、当然最終目的も持たず、したがって有意味な活動にも参画しない。この行為者は退屈しているだろう。
・退屈している人にとってあらゆる出来事は同質的なものになってゆく。退屈している人の心理活動/意識は止まり、消失へと近づく。退屈の回避は自己の保存・持続と結びついており、この意味で人間は、退屈の回避へと駆り立てられている。

8
・ある対象のもつ行為者にとっての重要性は、行為者が何を気にかけているか、というその対象にとって外的な性質によって決定される。しかし例外が一つある。それは行為者自身の重要性である。つまり、行為者自身がその行為者にとって重要であるのは、その行為者が自身を気にかけていることによってであるが、行為者が自身を気にかけているということは、行為者自身の内的な性質である。
・自らを気にかけない行為者、というのは現実的にはおそらく不可能。そうだとすれば、自身を気にかける/自身が自分にとって重要であるということは、人〔person〕という概念の本質的な特徴であると言える。
〔ハイデガーの現存在の定義ってどんな感じだったか。ちなみにハイデガーの述語「気遣い」の英訳はcareのはず、多分〕

9
・有意味な人生を送ることは、それ自体、我々にとって重要なことである。したがって、〔人生を有意味たらしめるものとしての〕有用な活動は、道具的価値だけでなく最終的価値も持つ道具的に価値のある活動に参画することは、それ自体で我々にとって重要である
・換言すれば、最終的価値をもつ最終目的を採用し、一定の活動に参画する、というそのこと自体が、最終的価値をもっている
・他方で、最終目的は、活動を有用なもの、ひいては最終的価値をもつものにするのに役立つ、という意味において道具的価値をもつ
・上述の意味において、手段ー目的関係を一方向的にとらえるアリストテレス的アプローチ〔1・2節参照〕には、不足がある。
最終目的の選択は、部分的には、その目標を追求するとはどのようなことか、その目標によって可能になる活動はどのようなものか、その活動にどのような複雑さや広がりがあるか、つまり最終目的がどのくらい有用か、に基づくべきである。

10
最終目的の選択という問題は、いかに生きるべきかという問題である。この問題は、この問いに答えが与えられてからでないとその問いの意味を理解することができず、その意味で体系的に不完全〔systematically inchoate〕である〔ここ、もっと言葉を尽くして書かれているが、議論追いきれず。〕
・重要性の概念も定義しようとすると循環する。〔この議論は、別論文"The Importance of What We Care About"でも提示されているもの。〕

11
・何を最終目的とするか、あるいはそもそも何を気にかけるべきかを判断するためには、その判断の前提となるものとして、少なくとも一部の〈気にかけることcare〉は、選択や決断に依存しない、意志的な制御下にないものでなくてはならない。言い換えれば、一部のケアについては、気にかけざるをえないのでなくてはならない。(これは、該当のケアが変化し得ないということを含意するわけではない。このケアも当然、様々な因果的要因によって変化しうる。)
・つまり、人間の意志の一部が固定されており、ある種の〈必然性〉をもつことが、いかに生きるべきかについて判断・推論するための不可避の前提となっている。
〔上記も、別論文"The Importance of What We Care About"や"Volitional Necessities"で提示されている議論。いずれもThe Importance of What We Care About (1988) に所収〕

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