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西田幾多郎の生命哲学③

「弁証法的一般者の自己限定として、種々なる種が生れると云うことができる。故に種は世界歴史的に自己自身を否定することによって却って生きるのである。歴史の進行は種の連続ではなくして、個性的進行でなければならない……」(8190)「個は内的に媒介せられるものでなければならない。その故に生きたものである。個は種的でなければならない。併し主体が環境を、環境が主体を限定し、弁証法的自己同一として、種が生きると云うには、種が個を媒介とすると云わなければならない」(8206)一連の議論をまとめてみよう。「行為的直観」とは、あくまでも「個物」が「個物」に対することによって、実在を制作する世界である。そうであるかぎり、「個物」は自己の内に亀裂をもち、そこにさまざまなものを「媒介」させる。身体がそこで記述に現れる。身体は行為するものであるかぎり歴史的である。そうした歴史には、種という概念が介在する。そこで種も記述されていく。だから種は、「個物」が存在するためには必要な「媒介者」として、実在をつくりあげる要素として描かれるだろう。しかし西田は、そこでもちろん種が、独立して存在するとは考えない。種もまた「生きた種」(8206)なのである。それもまた「個物」が果たす、「行為的直観」の場面に依拠してしか、その存在を語ることはできない。「個物」が、つねにあらたなものを創造するリアリティーに即してしか、そうした「媒介者」の意味も語れない。だから種もまた、そうした生成する現場そのものにおいて、それ自身が「個物」の「ポイエシス」に即応しながら、生成しつづけていくものにほかならない。身体もそうであるし、歴史もそうである。そうした「媒介者」は、今度は逆にそれ自身が、「個物」の働きのもつ生成としての力に触れあうものとして描かれなければならない。檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』


西田にとって「個物」とはどこまでも空間と時間を背負った実在であり、架空の虚構ではなかった。その個物が「媒介者」となってさまざまなものを生成する、あるいは生成のための動機をつくりだしているのである。それは身体と同義語なのだ。現代のバーチャルリアリティやそのほかのXRがいかに身体と無縁な、もしくは身体を無視した表現行為であるかを、西田はさきどって語っている。西田が「身体は行為するものであるかぎり歴史的である」というとき、身体が行為と同期していてそこに時間が介在していることを意味している、だから「歴史的」なのである。田邊元には時間概念があったのだろうか。なかったから戦後に「懺悔道の哲学」なんかを書かなければならないはめになってしまったのではないか。

田邊哲学における時間概念、歴史性の問題については再考が必要である。


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