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ソラリスの非-存在論

海が命を持った存在であるということについては、十分に頑固な逆説好きの人間であれば、まだ疑い続けることもできただろう。しかし、海が心理を持っているということは──「心理」という言葉で何を意味することができるにせよ──もはや否定できなくなっていた。自分の上に人間たちがいることを、海はあまりにもよく認知している。これはもう明白だった……。このことが一つ確認されただけでも、海が「それ自体として存在する世界」「即自的存在」であるなどと主張してきたソラリス学の拡張された一翼全体が抹消されることになった。その主張によれば、二次的な退化の結果、海はかつて存在していた感覚器官を失ってしまった。そして、二つの太陽の下で渦巻いている海の深淵が巨大な思考の流れを作り出し、その棲家、寝床となっているのだが、海は思考の流れを回転させるだけで、その中に閉じこもっていて、自分の外の現象や物体の存在については何も知ることがない、ということだったのだ。さらに私たちは、海が人間の体を模造、合成するという、人間にもできないことをする能力を持っていることを知った。それだけではない。海は身体の原子以下の構造に不可解な──しかし、海のふるまいが目指している目的と、きっと関係のある──変更を加え、身体を改良することさえできるのだ。

スタニスワフ・レム(沼野充義訳)『ソラリス』

そもそもソラリスとは存在なのか概念なのか、あるいはなにものかを作る創造者なのか、単なる受容体なのか…。圧倒的かつ絶対的な他者として人類の前に出現したソラリスは、レムの小説ではきわめて美麗で巧緻な表現によって「海」とされている。その全体的な流れ、飛沫、渦巻き、色彩、温度感覚などがまるで生き物のように蠢くそのさまがレムの筆力によって描かれている。だから、読者は最初からこれを「海」と思って接してしまうだろうし、現にタルコフスキーの映画においてもソラリスは「海」として映像化されている。思うに、絶対的他者を想像したり表象することは平易なことではない。だが、そうした他者はまさに「想像を絶する」存在として現れるのではないだろうか。まったく想像できない存在、それは存在ということができるのであろうか。想像の根源でもなく、想像の彼方でもない、ただ想像を絶するものとして「ある」というソラリスとはやはり簡単に存在ということはできないだろう。(実際、レヴィナスは「存在の彼方」という表現で慰霊することの一方向性を論じている、これについては別に論じる)逆説的(?)に言えば、ソラリスが存在であろうとなかろうと、それを存在と捉えたとして考える思考法がわれわれ人間にはあるようで、レムがそうした思考法に対しても疑問符を突きつけているのではないか。

たとえば、手塚治虫は「火の鳥」において、火の鳥から永遠の生命を与えられ、すでに意識だけの「神」となってしまったマサトは地球上で再び人類がその生を得ることを何億年も待っている。そこで登場するのがナメクジなのである。ナメクジは恐龍たちを滅ぼし、自分たちもその形状から二つの「民族」に分かれ戦争を始め、やがて絶滅する。手塚にはいつかは人間たちの楽園がやってくるという人間中心主義的な発想があった(医学部出身なのであるから、それを以て手塚を批判することはナンセンスの極みだ)。しかし、なかなか人類はあらわれない。もしかしたらマサトは見逃してしまっているのかもしれない。それほどに人類の制した世界は一瞬であったのかもしれない。

そこからソラリスの「存在論」を考えてみる。

そもそも神になったマサトが見聞きするさまざまな生き物は実在する。その実在の根拠とマサトの存在には関聯がないだろう。彼はなにもせず、ただ見えいるだけだ。声をかけられた一匹のナメクジが「あなたは、神様ですか」と問う場面があるが、だからといってマサトはナメクジたちの紛争に対して何もできない、ただ見るだけである。

穿った見方をして、このマサトが「ソラリス」のような存在であるということはできないだろうか。いや、「〜のような存在」といういいかた自体、すでに意味をなしていないのであって、この一匹のナメクジがマサトに気づいてそれを「神」と思っただけであって、むしろ眼に見えない、感知できない(だがその声は聞こえる)「存在なき存在」ゆえに「神としての存在性」が開示されるのである。だから、「ソラリス」は誰かがただの海ではないということを知ったのであり、その海がなんらかの「意識」を持っているゆえに「ソラリスという存在」が明確にされていて、マサトの場合とはもちろん異なっている。しかし、神=マサトにしてもソラリスにしても、その「存在の深部」までは不可知(それがあることすらわからない)であるという点においては共通している。

スタニスワフ・レムは医学部出身であり、そこからSF作家になった人である。だから「ソラリス」にも科学者としての視線がシャープに注がれている。そもそもソラリスが作りだした「幽体」はニュートリノ(中性微子)によって構成されていることがソラリス学の前提であり、なぜかそこに別の放射線(X線)をあてることで破壊させることが可能なのである。ソラリスが人間の叡智を超えた存在であるならば、たとえソラリス自体ではなくても、その生成物たる幽体が人間に理解可能な物質(超物質)によってできあがっているのは、あまりレム的ではないといえる。ただ、ニュートリノの存在がラザフォードによって予想されチャドウィックによって証明されたのは1932年のことであり、1961年に「ソラリス」が執筆されたという事情を考えると、当時のニュートリノは(いや、現在でもそうかもしれないが)、通俗的な科学をとてつもなく凌駕した存在(あるいは概念?)だったのかもしれない。しかし、その文脈で考慮しても、ソラリスは「科学を超えた存在」という認識でしかなく、やはり人間の知的想像(創造)の域を超えていない、つまりソラリスはコミュニケーションは不可能であっても、科学的な理解が可能な存在であり続けるのだ。

しかし、それでもなお問いたいのだ。ソラリスは「存在」なのか、と。ソラリスに関する膨大なアーカイヴである「ソラリス学」、そこに新たな情報を加えることは必ずしもソラリスに対する理解を深めるわけではなく、ソラリスという謎をさらに広げるだけのことでしかないのかもしれない。だが、人類は「ソラリス学」のページを増やし続けなければならないのである。レムはいう、「それゆえソラリス学とははるか昔に死んだ神話たちの遺児であり、もはや人間の口がはっきりと大声では言えない神秘的な憧憬の精華なのだ。そしてその巨大な建物の基礎の奥深くに隠された礎石になっているのは、〈贖罪〉の希望なのである……」と。ソラリスが未来を志向した存在であるかどうかはわからないが、ソラリスについて思考することは人類の過去への反省と憧憬について思いをめぐらすことに他ならなかった。ソラリスには時間観念はないだろうが、ソラリスを思考することは過去に向けられた人類の記憶の堆積を意味している。「ソラリスに時間観念はない」と記したが、ソラリスがつくりだした幽体は、自分がどうしてそこにいるのかわからないし、いつからいるのかもわからない、つまり時間感覚が欠如しているのである。(おそらく「そこにいる」という空間感覚も欠落している)

科学でなくても人文科学であっても、すべての学問的営為は関係性へと帰結する。なにかとなにかの関係を明らかにすることがあらゆる意味で「科学的」なのである。そこから考えると、ソラリスはなにも語りかけてこないし、働きかけてもこない、そもそもコミュニケーションをしたいという「意志」を感じることもできない。人間に興味がないのである。もちろん、クリスはかつて自殺した妻のハリーが幽体として出現した時に、疑念を持ち、殺意を持ち、やがては愛情を抱く。だからソラリスはクリスの心理に働きかけはしている、ということもできる。しかし、人間に興味がない存在であればソラリスでなくても、自然界のあらゆる森羅万象は人間には興味がない。彼らは人間と円滑なコミュニケーションをするために存在しているわけでは断じてない。人間が働きかけようと必死になっているだけだ。人間は自然界の森羅万象に働きかけようとする。その方法をあみだし、その理論を自然科学とか社会科学とか人文科学とかジャンルづけているに過ぎない。であるとすれば、ソラリスという存在とは呼べぬあるものに対して人類は働きかけようとする。向こうからレスポンスはない。たまたま人間がレスポンスの一種として幽体を考えているだけだ。「エイリアン」は人間を自分の種族の苗床とすべく攻撃してくる。「未知との遭遇」や「E.T.」のエイリアンたちは人間形態主義(anthropomorphism)よろしく人型のその形態が人類との交流を望んでいる。ヒューマノイド(ヒト型ロボット)であれば、「アンドリューNDR114」のように、本当の人間になることを希望し、人間のように寿命をむかえて事きれる。完璧なヒューマノイドよりも、そうした人間くさいロボットを、人間は好むのである。

小説「ソラリス」も映画「惑星ソラリス」も、そのような人間との交流(ないし征服)とは無縁に、ソラリスの海はただ揺蕩っている。考えてみれば、地球の海だってコミュニケーションは不可能なはずだ。地球の海は生命体ではないかもしれないが、あらゆる生命の「始まりの場所」であり、三木成夫が指摘したようにあらゆる生命体の体内に凝縮された体液は海水と同じ組成をしている、その意味では海は生命体とはいえぬまでも、「生命の原基」と呼んでもいいかもしれない。そこからあらゆる生命体が出現した海であるが、人間は海とのコミュニケーションの方法を知らない。海を利用し、支配する、その方法だけを知っているのだ。そのような一方的な関係づけをすることが科学とか技術とか呼ばれてきたのである。ハーバーマスは目的合理性ということばを使って、科学技術を方向づけた。目的合理性において科学技術の体系は絶対的な根拠を持っているとしており、ゆえにあらゆる政治行為の価値はまず目的合理性において科学的あるいは技術的に正当なものであるかどうかの判断抜きには成立せず、イデオロギーが何らかの制度を社会に確立するときに目的合理性に合致しているかどうかということは大きな影響を持つとした。つまり、科学技術的に妥当性のある世界は政治的にも合理的な世界なのである。

おそらくソラリスは、人間のそうした目的合理性を端から否定した存在だったといえる。いや、否定とか拒否という意志があったかすら疑わしい。あらゆる人間の欲望や希望や喜びの対極にソラリスはあったのではないだろうか。といっても、ソラリスに悪意があったわけではないだろう。小説を読む者や映画を観る者は、ソラリスに絶対的他者としての神性を見てしまうことが多いかもしれない。神のやることなのだから、人間には理解できなくても仕方がない、そんな消極的不可知論がまかり通ってしまうのだ。だが、登場人物たちは、自分たちが人間であるがゆえに解釈の可能な「神」をソラリスに見る。それは「欠陥を持った神」という存在だ。

ぼくが言っているのは、その不完全さが自分の作り手である人間の素朴さに由来するような、そんな神のことじゃない。不完全さをもっとも本質的な、内在的な特徴として持っているような神のことなんだ。それは全知全能さえも限られているような神であるはずなんだ。自分の仕事の未来について予見しても間違い、自分で作りだした現象の進展に自分でぞっとしてしまう。それは神とはいっても……不具と欠陥の神で、いつも自分にできる以上のことを望んでしまい、しかもすぐにはそのことが自覚できない。時計を組み立てておきながら、その時計が測るのは時間ではない。一定の目的のために制度やメカニズムを作っておきながら、作られた制度やメカニズムのほうが目的を超え、目的を裏切ってしまう。そして、この神は無限を作りだしたのだが、この無限というものがまた、神の力の尺度になるはずだったのに、逆に神の果てしない敗北を示すものになってしまった。

ハーバーマスがいう目的合理性すら実行できない、自身で目的を裏切ってしまう存在、それがソラリスであるとクリスはいう。そして「この神は物質の外には存在しないし、物質から解放されることもない」と付け加えている。人間であるクリスたちが科学技術の基本対象である「物質」へとソラリスを還元しようとしているのがわかる。レムが好きではなかった精神分析学的な見立てをすれば、彼らは自分たちの理解可能(あるいは理解不可能)な究極の「物質」を規定することで、自分たちを安心させ勇気づけさせたということもできるだろう。理解も意図も目的もわからない、だがソラリスは物質なのだ。さらにソラリスをこのようにいう、「あれはせいぜい、成長の途上で神になるチャンスを逃してしまったもの、といったところだろう。あまりに早く、自分の殻に閉じこもってしまったんだな。あの海はむしろ、宇宙の世捨て人、宇宙の隠者であって、宇宙の神ではないだろう……」と。ソラリスは孤独なのだ、だからハリーが自分の顔すら認識できなかったように未熟な存在であるといえるかもしれない。そしてクリスの説に耳を傾けていたスナウトは、もっと成熟した完全な神こそが新星とか超新星と呼ばれるものにちがいないと述べ、ソラリスはそうした神の祭壇のろうそくのようなものだと断じている。

「この海はきみの説に従えば、絶望する神の萌芽、発端なのかもしれない。そして、元気のいい子供らしさのほうが、まだ理性をはるかに凌駕しているのかもしれない。そうだとすると、おれたちのソラリス研究書を集めた図書館は、この赤ん坊のいろいろな反応を記録した巨大なカタログにすぎないんじゃないだろうか……」「一方、ぼくたちはしばらくの間、その赤ん坊のおもちゃだった」と、私が引き取った。

このあたりの神学論争は、廣松渉の対談形式の哲学書(たとえば「身心問題」)を読んでいるようで、スリリングでエキサイティングな部分であるが、ロシア語訳並びにその翻訳ではここは削除されていて、ポーランド語の原書あるいはそこからの翻訳(沼野充義)でなければ読むことができないのである。ソラリスを物象化、あるいは半-神格化(欠陥を持った神だから)することによって、彼らはこの物語を終えようとしている。レムの小説では単身ヘリコプターに乗ったクリスがソラリスの作った島へ上陸するのだが、タルコフスキーの映画では、クリスは地球の父と再会し、父の元に跪く、そしてそれがソラリスの作った島であることが引きのキャメラによって明らかにされるのだ。その表現の差異についての言及は避けるとしても、翻訳者の沼野は「愛を超えて——訳者解説」のなかで「レム独自の認識論的スタンスは、『欠陥を持った神』が戯れる宇宙を前にして、『残酷な奇跡』から目をそむけようとはせずに、違和感に身を貫かれながらも、あくまでも未知の他者に対して開かれた姿勢をとり続けることだった」と記している。未知の他者に対する開かれた態度=希望を持っていると読んでいいだろう。

しかし、本当にそう「ソラリス」をまとめてしまっていいのだろうか。人間が未知のものに対して希望や期待を持つのは、タルコフスキーの映画に登場する「ドン・キホーテ」のように,しごく当然の本性だろう。だが、その希望や期待を人間がどんな場合でも持つべきだというオプティミズムを主張するためにソラリスが利用されているのだとすれば、ソラリスの存在意義はずっと小さなものになってしまう。本当にそれでいいのだろうか。圧倒的な他者であるソラリスとのコミュニケーションの不可能性や困難さを訴えるのが本来の読解法なのではないだろうか。そうでなければ、希望や期待の大きさによってソラリスは敗退してしまうことになる。ソラリスという他者によって人びとが形而上学的な対話をくりひろげ、もちろん結論は出ないのであるが、自分たちなりの世界観でソラリスを理解し、それでも理解しきれない側面があることを認める。究極の物質としてソラリスを理解することは理念上は可能であるが、ソラリスの「(無)意識」については(そんなものがあるとするなら)それを物象化することはできないし、当時のソビエトはフロイト的な無意識を認めていなかった事情を考えれば、おそらくは唯物論的無意識のような奇妙な存在(概念)を想定して、ソラリス全体を物象化してしまったのであろう。完全に物象化されたソラリスについての形而上学的対話という組み合わせは別に奇妙なものではない。むしろ、物象化が進められるほど、思考はより哲学的なものになってゆくのであろう。それは、肉体について考えつめれば、その思考はより思弁的・精神的になると、土方巽の舞踏思想を評した種村季弘の言と一致している。

ソラリスは存在なのか、概念なのか、それは両方であるともいえるし、そうしたカテゴライズを拒否するようなあるものともいえるのである。「ソラリス」を読んだものだけが、あるいは「惑星ソラリス」を観た者だけが抱く普遍的な問いかけなのである。





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