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怡庵的 徒然なる日々 京都 洛北 冬の旅

京都の西本願寺さん前にある薫玉堂というお香の老舗から催事のご紹介のはがきをことあるごとに頂戴していた。

ご縁のきっかけは、香に使う銀葉(ぎんよう)が欲しくて、デパートの催事に顔を出したのが始めで。

買いもしないのに芳しい香木を幾種類も焚いて聞かせてもらった。どれが何などは分からずしまい。香席の隅っこで聞かせてもらって当たったらうれしいそんな程度だ。

香道では香は嗅ぐのではなく“聞く”と表現する。何とも奥ゆかしいことだ。

ただ、おはがきを頂いた時が怡庵にとって、1年の総決算とも言うべき時期に当たっていたので、さすがに心に余裕がなくてパスを決めたのだったが。

が、だ。

出町柳の「ふたば」さんがあの豆餅を出品するからというので、連れから同行を求められ(笑)。もともと物産展大好き人間の怡庵ゆえ、「ええい、ままよ」とばかり、前言を簡単に翻し、そそくさとついて行ったのだった。それも開店前から並ぶという。まあそのおかげでお茶の友にできたという次第。

豆餅とはうちのあたりでは豆大福のことで。連れ曰く、餅の口ざわり、漉し餡の甘さ、そして赤豌豆の塩加減が三位一体となって美味だと感心していた。

怡庵は、戦利品のように押し頂いてきた豆餅をうれしくいただきながら、この時期の京都を懐かしく思い出していた。

季(とき)は冬。

寒いというよりも想像では理解できない底冷えのする京都。

いつか行った知恩院さんの床の、それはそれは冷たかったことを足の裏が今でも覚えている。「京都 冬の旅」というキャンペーンももう随分前から行われてきた。普段お参りできない社寺を特別拝観にする企画を始めとしてあの手この手で観光客を呼んでいる。それでもほかの季節と比べて、寒いというのは旅にはあまり喜ばれないから、出足も鈍く敢えてこの時期に京都を訪れるのが好きだ。

大阪で用のある連れに親子でくっついて新幹線の車中の人となったことがあった。

車内放送でいつもの如く米原辺りが雪で遅延が見込まれるとあり、その時に京都も雪だと知ったのだった。

さてさて、雪景色が似合うのは何処だろうかと心はその放送だけで躍る。やがて遅延の原因、雪の関ヶ原から右手に見える伊吹山を越える辺りから一層わくわくが募り始める。

ただ、この時はまだ幼かった長男坊を連れていたので、無理は禁物でした。次男は連れが担当という具合で。

京都駅で長男と怡庵はホームに出て、連れと次男は新大阪に向かう。京都タワーを目前に本来なら市バスに乗るのだが、そこは幼い同行者のことを思いやって暖かいタクシーの客になり、「曼殊院へ」と告げる。

ぬくぬくの後部座席に座りながら、こんなに遠かったかと思う程、時間がかかった。目的地に近づくにつれ雪が深く残っていて、「どこまで行けるかわかりませんよ」と運転手さんに告げられる。内心大喜び。

「雪の京都」に憧れていた。

それでも参道の途中まで行け。さすがに勅使門まで車は入れず歩くことに。考えれば比叡山の近くになるのだからそんなものかも知れなかった。雪の深さに驚きながら用心深く階(きざはし) を上った。

洛北のこの修学院、一乗寺あたりが京都の中で好きな所の1つで。時雨れた風情がぴたっとくるのはこの辺りと鷹が峰の方だろうか。考えてみればこの辺りは都の北東に位置していて鬼門になるのだ。

いまだに訪れたことがない修学院離宮や赤山禅院も近くにある。目的の曼殊院は天台宗の門跡寺院で、こちらの黄不動は東山の青蓮院(東山にあるやはり門跡寺院でここも素敵なお寺)の青不動、高野山の赤不動と並んで三不動として有名だ。ただ、怡庵は拝観したことは残念ながらない。

さすがに門跡寺院だけあって華奢な建物が雅な装いを今に残していた。欄間に施された菊と桐の透かし彫りだけを見るだけでも訪れた喜びはあった。

また、目を外に転ずれば小堀遠州好みの枯山水の庭園がすっかり雪の装いの中にあった。こちらでも底冷えを足でひしひしと感じながらのひととき。幸いにほかに人も少なかった。

手をひかれてお参りしたわが息子が、何をどう感じたかをこの頃聞く機会があったが、「あまり記憶にない」とのことで。そりゃあそうだろう。いきなり連れ回されていたのだから。

さて、次はどこへと考えながら、この雪の中を歩いて少しばかり南にある詩仙堂を訪ねようと向かった。覚束ない足元だった、旅人にとってこんな好機はめったになく、幼い同行者の気を奮い立たせて轍が残る中、歩を進めた。
“ひとさん”からすれば、なんだか侘しい父子連れに見えただろう。手をつなぎあって、内容は忘れたが高揚した気分で話しながら歩いていたように思う。

行き交う人もなく、静かな時間だけがただ過ぎていく。道すがら、京都ではここだけという小茄子を白味噌で漬けた雲母漬(きららづけ)を提供し続ける穂野出の店先を見ながら、先を急いだ。

怡庵はこの雲母漬も好物の1つだが、子連れだったせいか通り過ぎた。寄ればよかったかな。ここら辺りが一乗寺になるらしい。

やがてふたたび山の方へと上がると、詩仙堂の入り口が見えてくる。

江戸時代初期、徳川氏の重臣だった石川丈山が隠棲し、住まいしたところとして名高く、雪の中にもかかわらずこちらは多くの方が訪れていた。

石川丈山の隠棲説にもいろいろ解釈があって。どうも宮中を始め幕府にとって都合の悪い“不穏な動き”を監視したのではないかというものもある。考えれば、曼殊院は門跡寺院で比叡山との関係もあって注意を怠ってはいけない寺だったかも知れない。

また、鷹が峰の本阿弥光悦一族も同じような役目を負っていたといわれる。

洛北の石川丈山、北山の本阿弥光悦。そして洛中にあっては京都所司代の板倉親子。伏見には伏見奉行として小堀遠州が活躍していた時代。お茶の世界での交流だけでなく、何があってもおかしくない時代。そればかりか、北の政所の甥にあたる木下長嘯子も東山に隠棲していたそんな頃。

さて、そんな裏事情を考えながら。こちらも開け放たれた建物は風通しがよく寒かったが、広い座敷で居ずまいを正して風情のある庭を、まるで一幅の水墨画を目前に見るように眺めたものだった。

この時に詩仙堂の有名な鹿威し(ししおどし)が聞こえていたか覚えがない。普段なら美しい音を聞かせてくれるのだが。きっと水が凍ってしまっていたのだろう。こちらでは有料で抹茶の接待があり、とてもうれしくいただいた。お替りがほしいと言った生意気な同行者は今でもこちらの記憶は鮮明に残っているようだ。

その後は、雪が映えるだろうと言って銀閣まで足を延ばしたのだが、庭を散策している途中でなんと突然吹雪いた。

もう目の前斜めに激しく降る雪だけで何も見えない状態で、こんなうれしいことってあるんだと思ったものだ。感謝しても仕切れない。同行者は突然の雪に驚きとそして寒さに相当参っていたようだが。

参っていた要因の中には空腹もあっただろう。

この時、空腹を満たしてくれたのは、京都大学農学部すぐ近くの路地の奥まったところにあったナチュラルレストランの「スジャータ」というカレーライス屋さん。

ベジタリアン向けといった感じで、静かな店内で2種類のカレーと手作りの見るからに全粒粉のチャパティを頂いた。ナンはよく供されるが、チャパティは珍しかった。とても美味しかった。豆カレーが記憶に残っている。お店の方が「寒いやろ、ストーブの近くにおいで」と子どもにとても優しく接してくれたのも覚えている。同行者からはここのカレーの話題もよく出てき、「ぼくがカレー好きなのはこのお店で食べたから」とまで言う。

幼い息子との“珍道中”は、この後四条の「鍵善良房」さんに立ち寄って善哉、葛切りを楽しみ、まだ続いていく。

当時の京都駅北口の階段のところで連れと次男と合流した時の次男の仏頂面が忘れられない。それを見て取った長男が「おやじといれば旨いものを食べさせてくれるだろうと思ってついて行ったんだ」という。

普段は隠して旅人に見せない素顔をそしてこころを冬の京都は見せてくれる。まだまだ知らないところが多くて、雪の大原や嵯峨野もいいものだろう。

コロナ禍で自由に旅もままならない昨今、悔しくて仕方がないがこんな過去の旅の話でも何かしら味わっていただけるのではと思って上げてみることにした。

では、ごきげんよう。

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