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ヘーゲルによるスピノザ哲学の講義

『哲学史講義』ヘーゲル、長谷川宏訳、河出書房新社、1993

 個人的にスピノザを初めて知ったのはシドニー・ルメット監督、ロッド・スタイガー主演の映画『質屋』(The Pawnbroker,1964)だったと思います。ジェノサイドで妻子を殺されたポーランド出身のユダヤ人教授がNYで質屋に身をやつしつつもスピノザの本を読んでいるあたりでした(あやふやですが、DVDしか出ていないので、Blu-rayが出たら買って確かめてみようかな、と思います)。

 その後も何回かトライしてみたんですが、どうも肌合いが合わないし、翻訳も難しいし、概念がユニークすぎる感じがして、ここまで放っておいたんです(同じように激ムズだったヘーゲルなどは、十分理解できないにしてもガリガリと読んでいったんですが)。

 ということで画期的だと言われている岩波の新訳でスピノザ『エチカ』をゆるゆると読んでいるんですが、3部から読めというアドバイスに基づき3~5部はわりとさくさく読めたものの、1~2部があまりにも辛いので、ヘーゲルがどんなことを語っていたかなと思って長谷川宏訳『哲学史講義』の三巻、スコラ哲学以降の宗教改革、デカルトあたりから読み返しみました。

 ヘーゲルは《パウルス教授がイエナでスピノザの作品を刊行しましたが、わたしもその編集にくわわって、原文とフランス語訳とを対照する仕事をうけもちました》とスピノザの著作にも関わっています(p.242)し、自信たっぷりに《スピノザの哲学はデカルト哲学の完成体です》(下巻、p.273)と講義しています。

『エチカ』の訳注でもデカルト、ホッブス、スピノザは神学に基礎を置かない哲学を創造するにあたって、スコラ哲学が依拠したアリストテレスも否定するため四元素を認めないために、変状、変様という概念を重視したのかな、みたいなことを考えたりしたのですが(『エチカ』p.308)、ヘーゲルの哲学史講義の「近代の哲学」の「はじめに」で、ルターは教父やアリストテレスといった権威をひきあいにだすかわりに、人びとの常識に呼びかけた、なんていうヘーゲルの評価も立ち上がってきました(p.156)。

 新スピノザ全集の『エチカ』一部「神について」の変状、変様の違いについての訳註20で、デカルト派についての研究を紹介する中で、彼らはアリストテレス的な四元素を認めなかったから…みたいなことが書かれていたのも思い出して、なるほどな、と。

 この「近代の哲学」の「はじめに」では《近代の勇気とは、各人が自分流の行動をとるのではなく、他人とのつながりに信頼を置き、そのつながりに労をもってむくいることにあります》(p.165)という素敵なアフォリズムも印象的でした。

[実体について]

 スピノザでは「実体」という概念が重要なのですが、《実体というカテゴリーは、経験主義から出発して抽象への道をたどった知性の結論ともいうべきもので、それがスピノザのうちに見いだされます》という説明がされています(p.209)。しかし、「実体」の《内容が完全無欠の真理をあらわしているかどうかは、べつな問題です。幾何学の命題ではそういう問題は生じないが、哲学的考察の場合には、それこそが肝心な点です》とも。

 《スピノザは一つの実体から二つの属性がどのように生じるかを、スピノザは説明しないし、属性がなぜ二つしかないかの証明もしません》(p.255)が、それは同じ内容が、ある場合には思考の形式をとり、ある場合には存在の形式をとるという意味であり、思考という属性では知性界、延長では自然界になる、と考え、《思考と自然を同一視し》《神なくしてはなにものもありえない。神は必然であり自由でもある》(p.257)、というのが中心思想だ、と。

[精神と身体]

 スピノザの体系によると《実体は絶対的なものであり、個人は、実体の一様相として、身体もさまざまな動きや外部の事物からうける影響などを意識》(p.260)します。これをブーレが簡潔に要約しているとして《魂は、肉体の外にある一切の他なるものを、肉体のうちに感覚する。しかも、この感覚は、肉体がうけとめるさまざまな性質を媒介にしてしか生じない》と引用します(p.262)。

 スピノザは実体、属性(思考と延長)、様相の三つを定義し、《普遍的な実体から、特殊な思考と延長を経て、個別の状態変化へとおりていきます》(p.263)が、それは人間の意識の自由を破棄したものだった、と。

 ここらあたりで、前半に書かれているスピノザが自然を神とみなす無神論者だと非難されることについて《スピノザが対比するのは神と自然ではなく、思考と延長です。そして、神は両者を統一する絶対的実体であって、その実体のうちで、世界ないし自然は埋没し消滅していくのです》(p.243)として、《スピノザの体系は、思想にまで高められた絶対的な汎神論ないし一神論です。スピノザのいう絶対的な実体は、自然界のごとき有限なものではない。延長と思考を一体化したものとしてとらえる思考ないし直感こそが、スピノザ哲学の根本をなすのです》(p.246)という説明が浮かび上がってきます。また、《東洋的な直感がスピノザによってはじめて西洋の地で表現を得たといえる》としています(p.243)。

 スピノザは数学的証明にこだわったのですが、それ《宗教的権威らかめざめた自立した知が、かがやかしい成功例をしめす数学的形式に目をうばわれ》たためだった、とも(p.265)。

[道徳論]

 以下、長めの引用とします。

......Quote......

スピノザは感情を論じます。知性や意思は有限な様相です。 ―「人間が自由だと思いこむのは、自分をかりたてる行動の原因を知らないからにすぎない。」 「意思決定と観念とはおなじことである。」―「あらゆるものは自分の存在を維持しようとつとめる。この努力が生存そのものであり、そして生存には時間の長短のちがいがあるにすぎない。」「この努力が、精神と肉体の双方に同時に関係するとき、 欲望が生じる。」 ―「感情とは混乱した観念である。だから、感情を正確に知れば知るほど、それは制御しやすくなる。」 ―混乱した不十分な観念たる感情が、人間の行動を左右するとき、人間は奴隷の状態にある。感情の波だちのもっともはげしいものが、よろこびとかなしみである。われわれが部分としてふるまうかぎり。われわれは受動的な不自由のなかにある。

......End of Quote(p.267)......

 こうしたスピノザの主張に対して、ヘーゲルは主体性の思想から自己意識の契機がないとか、肉体を否定できていないなどと講義を続けるのですが、それは各自がご覧ください。

 ということで、3〜5部は読んだけど、1〜2部の「神について」「精神の本性と起源について」はいいかな、と思っていたけど、もう少しだけ付き合うことにします、というか、あとは2部の30頁ほどを残しているだけですので、週末にも読み切ってしまおうかな、と思っています。

 スピノザ全集の初回配本『3 エチカ』も3刷6千部と、学術書では異例の売れ行きを見せているそうですが、新しいスピノザ全集は、何を書いているのかわからないで読んでた方の多かったヘーゲルを初めて日本語に定着させた長谷川宏訳のような役割を果たすんじゃないかと思います。

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