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『自由の命運 国家、社会、そして狭い回廊』

『自由の命運 国家、社会、そして狭い回廊 上下』ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン、櫻井祐子(訳)

 原題は『The Narrow Corridor 狭い回廊』(原著2018年) 。ジムで筋トレ~有酸素運動をやっている間にAudibleで聴きました。

 同じように聴いた『国家はなぜ衰退するのか』(原著2012年)の続編のような作品で、紙の本では上下巻700ページを使い、成功している数少ない国家はいかに「The Narrow Corridor 狭い回廊」を通り、そこに留まる努力を続けてきたかを描きます。

 持続的経済成長が可能となるには政治・経済制度が包括的でなければならず、収奪的制度では必ず成長が止まるというのが『国家はなぜ衰退するのか』の結論でした。『自由の命運』では、包括的制度と共に自由の価値を高く評価。強い国家と強い社会が拮抗する中で自由が生まれて定着し、成功するという仮説を古今東西の歴史的事例を参照しながら証明しようとしています。

 自由とは「国家の力と社会の力が均衡した狭い回廊」に入るために必要十分条件であり、「狭い回廊」にいったん入ったとしても、そこに留まるためには国家と社会が互いの力を高め合う「赤の女王効果」を発揮し続けなければならない、とも続けます。『国家はなぜ衰退するのか』で語られた包括的制度セットは、その実現も難しいのですが、維持することも困難であると強調している感じ。

 『国家はなぜ衰退するのか』では中国のこれ以上の成功はあり得ないという予測が立てられ、当時は驚かれたものの、10年たつと、ほぼその予想に沿った展開をみせていますが、今回はインドとトルコ、サウジアラビアについても、ほぼ成功しないと予測しています。

[リヴァイアサン]

 考察の前提はホッブスの『リヴァイアサン』。国家が機能するには、法と秩序の維持、紛争の解決、司法の執行など暴力の独占のほか、社会サービスの提供、金融機関などに対する適切な監督を行うための官僚制度が必要です。

 こうした機能を持たず部族間の争いが絶えず、経済の機能不全からくる生活水準の低さなどの問題を抱える国々は「不在のリヴァイアサン(absent leviathan)」と定義します。

 反対に強力な国家機構を育てながら、権力に対する市民社会のチェックが全くできていない国々はイノベーションの欠如、人権侵害、極度の所得格差などで苦むロシアと中国のように「専横のリヴァイアサン(despotic leviathan)」になると定義。

 さらに、官僚機構は持っているものの、機能不全を起こしているラテンアメリカ諸国は「張り子のリヴァイアサン(paper leviathan)」と呼んでいます。「不在のリヴァイアサン」の例としてあげられるレバノンは建国時の宗教間協約が、権力を個々の宗教共同体にとどめた結果、国家権力が極端に弱くなりました。レバノンでは宗教単位で別れた社会とその構成員が国家を全く信用しておらず、インフラ整備はおろか、ほとんど選挙すら行われていないとのこと。

 このほか、出発点が似ている中米の2か国を例にとり、過去の強制労働のあったグアテマラがなぜ専制主義国家となり、民主制度を実現しているコスタリカと違う道を歩いたのかなどの分析は見事だと感じます。

[赤の女王]

 このあと、社会的動員が国家の力と均衡するために重要だと強調され、古代ギリシャのアテナイではソロンの改革による債務奴隷制の廃止、クレイステネスによる権力者の陶片追放制の導入によって、社会の力が強くなったと説明されています。

 リヴァイアサンが国家権力を表すのに対し、社会権力を表す用語として採用されたのがキャロルの『鏡の国のアリス』に出てくる「赤の女王」。アリスが必死になって走らないと赤の女王と同じ場所にとどまることができないという意味から、社会が国家と並行して競争する必要があるという意味で使われています。

 そして、赤の女王がリヴァイアサンと並行して社会機能を高め、国家権力を適切に制御する社会を「足枷のリヴァイアサン(shackled leviathan)」と呼んで、自由のある理想的な状態であると定義します。国家と社会が「赤い女王」のように並行して走り続ければ、互いの能力も高め合うことができる、と。

 ちなみに「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)」という赤の女王の言葉はよく進化論の本で引用されています。他の生物種との絶えざる競争の中で生物種が生き残るためには、持続的に進化していかなくてはならない、みたいな感じで。『鏡の国のアリス』ではさらに「ほかの場所に行きたいなら2倍の速さで駆けなくちゃ」とも赤の女王は告げていたな、なんてことも思い出しました。

[狭い回廊]

 しかし、国家の能力と権力が発達し、人権と自由が守られている状態は「狭い回廊」です。そこに入る道は狭いだけでなく、そこに留まるにも努力が必要だとしていて、ちょっとニュアンスは違いますがマタイの「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」という言葉を思い出しました。

 比較的「良い」米国、欧州、日本でさえ様々な課題に直面しているのですが、いまでもほとんどの国が自国民をこっぴどく扱っている話を読むと落胆するばかり。

 著者たちは「自由」の概念をジョン・ロックに依拠しています。自由とは、「人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意思に頼ったりすることなく、自然の方の範囲内で自分の行動を律し、自分の所有物や人を適切だと思うように処分する完全な自由を持っていること」として西ヨーロッパで可能になった政治参加の伝統としてゲルマンの部族社会の政治のあり方が高く評価されていす。

 旧ソ連時代の外相だったシュワルナゼが治めるようになったジョージアは、専横的成長さえできなかった国家になってしまった例として取り上げられています。旧ソ連から独立したのはいいけど、国際的な支援を得るためには、世界に知られた人物を担ぎ上げなければならないという消極的理由で大統領になったシュワルナゼは、普通の専制的君主に比べて弱い立場だったため、権力を奪われないために有力者を賄賂で懐柔する必要があり、それが経済成長への資金拠出を止めてしまったという失敗例はため息が出ます。

[中国、インド、トルコ]

 本書によると「狭い回廊」の外では自由と繁栄は実現不可能なのですが、そうしたいずれは成長が止まる「専横のリヴァイアサン」の典型は中国。

 春秋時代は「不在のリヴァイアサン」だった中国ですが、秦の出現で「専横のリヴァイアサン」となり、それが現在まで続き、市民の政治参加はほとんど行われてきませんでした。さらに秦では度量衡の統一が専制の象徴として実行されましたが、清時代になると統一度量衡を施行しようとさえしませんでした。そうなると、社会には相変わらず自由はなく、平等な成功機会もほとんどないので、産業革命も経済の隆盛も起きなかった、と。清政権は「専制的成長」を管理して平和と繁栄を実現できましたが、公共サービスは提供できませんでしたし、政治的自由は中国史の中でほとんど考えられていませんでした。

 トルコはムスタファ・ケマルによって狭い回廊にいったんは入ることができましたが、UE加入プロセスの挫折、二度にわたるクーデターの失敗でエルドアンの独裁体制が確立してしまい、もはや戻ることは困難という見立て。

 カースト制度という見えない「規範の檻」に縛られたインドでは、市民の政治参加の歴史はあったものの、社会は分断されて国家を監視することができない、と。

 あとはアルゼンチンに関して、国家であるように振る舞ってはいるが、まったく機能していない、と「張り子のリヴァイアサン」の典型としているのには驚きました。ペロンによって情実で採用された公務員があまりも多く、全く経済成長にカネが回っていかない、という評価も新鮮でしたが、新大統領はどうしていくんでしょうか。

 ダロン・アセモグル&サイモン・ジョンソンの近著『技術革新と不平等の1000年史』鬼澤忍・塩原通緒(訳)、早川書房は、自由がなぜ重要かは、創造的破壊とイノベーションはそこからしか生まれないからだ、というこれまでの二作の結論を、技術史からひもとく内容になっているようで、これも読んでみようと思います。

[目次]上巻
第1章 歴史はどのようにして終わるのか?
第2章 赤の女王
第3章 力への意志
第4章 回廊の外の経済
第5章 善政の寓意
第6章 ヨーロッパのハサミ
第7章 天命

[目次]下巻
第8章 壊れた赤の女王
第9章 悪魔は細部に宿る
第10章 ファーガソンはどうなってしまったのか?
第11章 張り子のリヴァイアサン
第12章 ワッハーブの子どもたち
第13章 制御不能な赤の女王
第14章 回廊のなかへ
第15章 リヴァイアサンとともに生きる

出典の根拠などは以下が素晴らしく詳しいです
https://sites.google.com/site/michihito7ando/lectures/ando_seminar/narrow-corridor#h.crq0xr6of7zs

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