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『エチカ』とペトロとパウロ

『エチカ』やっと読み終わりました。1部から順に読んでいたら、おそらく挫折していたと思いますが、國分先生のアドバイスやライプニッツの手になる『エチカ』からの抜き書きが第三部から第五部に及んでいることなどを考えて、三部から読んで本当によかったと思います。 

 さて、全体をまとめる前に、気になったところを少し。

 スピノザは第二部、第三部、第四部でペトロとパウロについて触れています。反対にイエスについては何も語っていません。これは近世哲学の始まりでは、まだタブーだったからか…というあたりについては、あまり詳しくないのでわかりません。

 『エチカ』の第二部の定理一七系では、Aという人間が死んだとしても、Bという人間が生きているなら、BのうちにはAの表象像が出現し得ることを証明しました。直後の備考で、スピノザはペトロとパウロに触れています。パウロの中にあるペテロの観念は、ペテロ自身が生きていた時より、パウロの身体が持続する限り、ペテロが現実的に存在する、と。
 仕組みはこうです。パウロがペテロを知覚すると、パウロの「身体」(感覚器官)にペテロの本性が刻印され、それに対応して、パウロの「精神」には、ペテロの身体の観念が形成されます。しかし、パウロの「身体」にあるペテロの「本性」とは、あくまでもパウロの身体である脳に生じた変状です。それは、パウロの脳にできた“痕跡”なのであり、パウロの身体の一部となる可塑性を持つ、といってもいいかもしれません。それは、ペテロの本性よりも、パウロの身体の状態をより多く示している、と。ペテロの「観念」は、彼が死んだ後も、パウロの中に生きつづけ、パウロは眼前にいるかのように、ペテロを観想することができる、と。ならば、イエスについての感想…というと神が全てだと言っているので、三位一体的にはどうなんでしょうかね。
 『エチカ』第二部《経験を疑うことは、人間身体がわれわれの感じるとおりに存在していることを示したあとではもはや許されないからである(この部の定理一三のあとにある系を見よ)。さらにいまの系、そしてこの部の定理一六の系二から、たとえばペトロ自身の精神の本質を構成するペトロの観念と、他の人間たとえばパウロの中にあるペトロの観念とはどこが違うのかということが明瞭に理解される。すなわち前者はペトロ自身の身体の本質を直接に説明する観念であり、ペトロが存在するあいだしか現実存在を含まない。それに対し後者はペトロの本性よりもパウロの身体の状態をより多く示す観念であり、それゆえパウロの精神は彼の身体のそうした状態が持続しているあいだ、たとえペトロが存在していなくてもみずからに現前するものとして観想するであろう。このあとわれわれは、その観念が外部の物体をあたかもわれわれに現前するかのように提示する身体の変状を「事物の像」と呼ぶことにする》(p.80)。

 『エチカ』は第三部から人間の感情論が展開されます。そこでもペトロに言及され、ペテロは悲しむ原因となりうることがあり、それはペテロが憎むのと類似している、としています。
 《定理四八 愛と憎しみたとえばペトロに対するそれは、前者の含む喜び、後者の含む悲しみが別の原因の観念に結びつけられれば破壊される。またこのいずれの感情も、その原因はペトロだけではなかったのだとわれわれが表象する限りで、緩和される。証明 愛および憎しみの定義――この部の定理一三の備考にあるのを見よ―だけから明白である。というのも、喜びがペトロへの愛と呼ばれ、悲しみがペトロに対する憎しみと呼ばれるのは、ペトロがそうした感情の原因であると見なされるというただこのことのゆえなのだから。したがって、このことが完全に、あるいは部分的に除去されれば、ペトロに対する感情もまた完全に、あるいは部分的に緩和される。証明終わり。》(p.161)。

「第4部人間の隷属あるいは感情の力について」の定理三四は感情に関して述べています。この定理は、人間が受動的な感情にとらわれている限り、互いに相反しうるというものです。この中でペトロがパウロを悲しませる原因となることも提示されています。これは、ペトロがパウロの憎む対象に似ているか、またはパウロ自身が愛している対象を独占している可能性があると述べられています。その結果、パウロはペトロを憎むようになり、ペトロもパウロを憎み返すことになり、相互に害悪をもたらそうと努める状況が生じるとされています。備考の部分によれば、ペトロとパウロが同じ対象を愛しているからこそ、互いに害となる可能性があるとしています。ペトロは対象を所有していると思い込んでおり、一方のパウロはその対象を失っていると思い込んでいる場合、後者は悲しみ、前者は喜びを感じ、互いに相反する感情が生まれる、と。
『エチカ』第四部 定理三四 人間たちは受動としての感情にとらわれる限り、互いに相反しうる。証明ある人間、たとえばペトロはパウロを悲しくさせる原因でありうる。それは彼がどこかパウロの憎む事物に似ているためかもしれないし(第三部理一六により)、あるいは彼がパウロ自身も愛しているある事物を独り占めしている(第三部理およびその備考を見よ)、あるいはそのほかの何らかの理由(その主なものは第三部定理五五の備考を見よ)によるかもしれない。そこから(諸感情の定義七により)パウロはペトロを憎むようになり、したがってまた容易に(第三部定理四〇およびその備考により)ペトロはパウロを憎み返すことになり、こうして(第三部定理三九により)互いが互いに害悪をもたらそうと努めることになる。すなわち(この部の定理三〇により)互いに相反することになる。ところで、悲しみの感情は常に受動である(第三部定理五九により)。ゆえに人間たちは受動としての感情にとらわれる限り、互いに相反しうる。証明終わり。備考パウロは自分の愛するものをペトロが所有していると表象するがゆえにペトロを憎む、と私は言った。一見するとそこから、二人は同じものを愛し、したがってまた本性において一致することから互いの害となる、という帰結が出てくるように思えるかもしれない。したがって、もしそうならこの部の定理三〇および三一は虚偽だということになるであろう。しかし事柄を公平に吟味すれば、不整合はまったくないことがわかる。なぜなら、この二人が互いにとって不快なものとなるのは、両者が本性において一致するーすなわち両者が同じものを愛するー限りにおいてではなく、むしろ両者が互いに不一致である限りにおいてだからである。というのも、両者は同じものを愛するというまさにそのことから両者の愛は助長される(第三部定理三)中略。愛する事物についてペトロは現に所有しているものとしてその観念を持ち、パウロは反対に喪失しているものとしてその観念を持つ。そこから後者は悲しみに、前者は喜びに変状され、その限りで互いに相反することになるのである。われわれは同じ仕方で、憎しみその他の原因についても、それは人間たちが本性において不一致であるということのみに依存し、一致するということには依存しないと容易に示すことができる。(p.221-222)

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