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『エチカ』スピノザ、上野修訳、岩波書店

 以下は『エチカ』スピノザ、上野修訳、岩波書店の感想と、印象に残ったところの引用です。

 1-2部で神が全てだとくり込んでしまえば、後に残るのは人間の主体性だけであり、そうした人間たちがつくる共同社会も有益であるという肯定感なのかな、と。そして、人間が完全に肯定された存在ならば、実は人間は基本的に感情に隷属しているのであり、それまで重要視されていなかった感情論などを細かく検討していったのが3部以降なのかな、と。

 そんなスピノザのリアリズムがつまった言葉は《誰も他人が自分と同等でなければその徳をねたみはしない》(p.169)ではないかな、と。

 エチカ3部の個人的なまとめは以下。《精神のもろもろの決意はもろもろの欲求そのものにほかならず》《精神の決意と欲求は身体の欲求と本性上同時、というかむしろ同じ一つの事物》であり《自身としてあり続けようとする努力は、その事物の現実的な本性にほかならな》ず《欲求は人間の本質そのもの》で《(喜び、悲しみ、欲望という)三つの感情以外ににはどんな基本感情も認めない》。

 続く4部も肯定感にあふれています。《人間たちが最高に良いものとして感情から欲求するようなものは、たいてい一人しか所有できない》p.226なんていうあたりや《適度に美味しい食べ物と飲み物、良い香り、緑の美しさ、装飾、音楽、スポーツ、演劇といった他人に危害を加えることなく各人が利用しうるもので気分を一心し、元気を回復することは知者にふさわしい》p.236あたりの全肯定感も素晴らしい。

 貨幣が全事物を要約したので、民衆は《どんな類いの喜びも、原因のように金の観念が伴わずには表象できない》p.265なんてあたりは資本主義も肯定している感じ。

 しかし、全ての結語となる《すべての高貴なものは、稀であるとともに難しいのである》はやや苦味を感じるのですが。

訳者によるパラフレーズ(p.344-5)
 「実体」はその定義からして、ある属性によって他のものなしに考えられ、他のものなしに存在しうる(思惟と延長のように)。言いかえれば、同類を持たぬ比類なき存在が、属性ごとに、属性の数だけ考えられる。さていま、無限に多くの属性の反復重畳からなる実体を考えて「神」と名づけると、それは極大の事象性ないし実在性を持った絶対的な意味での比類なき存在者でなければなるまい。属性は複数の実体で共有することはできないので、ほかに実体はない。それは唯一無比であって、もしこの実体が存在していないのなら何も存在していないであろう。こうして外を持たない絶対的な存在のドメイン、すなわち「神ないし自然」が確定される。その外は不可能なのだから、およそありうる事物は定義により、すべてその実体の「様態」でなければならない(第一部「神について」)。
 いまデカルトに倣って思惟と延長がそうした属性の二つだとすると、この実体は思惟実体であると同時に延長実体である、言いかえれば同じものの異なる表現であることになるであろう。したがってまた延長様態と思惟様態も、やはり同じものの異なる表現でなければならない(この同一性、すなわち思惟と対象の一致が真理ということである)。したがって、もし延長様態(無限宇宙)のある部分が身体であり、思惟様態(無限知性)のそれに一致する部分が精神だとすれば、そこに心身合一としての人間を一個の真理として考えることができる。精神は無限知性の一部、一個の身体の観念である。精神が持ちうる認識は、この観念を起点とし身体の変状の観念を経由する神の局所的な思惟として理解される。そのあるものは十全であり、そのあるものは局所性ゆえに非十全である(第二部「精神の本性と起源について」)。
 さて、すべての事物は絶対的ドメイン上でいま言ったような仕方で存在し、同じように-程度の差はあれ-体と魂を持っている。その存在肯定を神の力能の一定の表現と考えれば、すべての事物はこの肯定を、それ自身であり続けようとするみずからの努力(コナトゥス)として生きていることになる。人間が意識している欲望はこの努力であり、それが人間に一切を行わせる人間の現実的本質なのである。自己を肯定するこの力能の増大と減少は、それぞれ喜びの感情と悲しみの感情に相当する。他のすべての感情はそこからの派生として定義できるであろう。いわゆる能動と受動も、人間の現実的本質を経由する事態の産出が因果的に十全か、局所性ゆえに非十全か、ということで定義できる《第三部「感情の起源と本性について」)。
 精神の能動は十全な思惟の産出に存する。精神と身体のふるまいは同じ一つのコナトゥスから決定されるのだから、意志ではどうにもならない感情も認識されることによって受動であることをやめるであろう。徳は能動によるこうした自己肯定に存する。それに役立つものはよい、妨げるものは悪い。その限りで、努力を同じくする他者は大事だし、共同社会は有益である(第四部「人間の隷属、あるいは感情の力について」)。
 ところで、生じることはすべて絶対的ドメインにおける必然的な事態なのだから、ものごとを十全に考えようとすればその認識は必ず神の認識を含む。これが「永遠の相のもとに見る」ということである。そのときわれわれの知性は、神の絶対的な肯定、ないし知的愛の一部になっており、それ自身が永遠なる部分となっているであろう。この絶対的な満足ないし平安が、求められていた自由、至福、救済である(第五部「知性の力能、あるいは人間の自由について」)。

エチカ1部「神について」
《神は意思の自由から働くのではない》
《意思はその他の自然的なものと同様、神の本性には属さない。むしろ意思は神の本性に対して、運動と静止、および神的本性の必然性から出てきてある一定の仕方で存在し働くように決定されるとわれわれが示した他のすべてのものと同様の関係を持つ》
《神の完全性だけから、神は他の違った決裁を下すことなど決してできず、一度たりともできはしなかった》
《私は神の本性とその諸特性を説明した。すなわち神は必然的に存在すること、唯一であること、みずからの本性の必然性のみからあり、かつ活動すること、すべての事物の自由原因であり、またどのようにしそうなのかということ。すべてのものは神の中にあり、神なしにはあることも考えられることもできないというふうに神に依存していること。そして最後に、すべてのものは神からあらかじめ決定されていたということ。しかもそれは意志の自由、言いかえれば絶対的な恣意から決定されたのではなく、神の絶対的な本性ないし無限の力能から決定されていたのだということ、こうしたことである。》

エチカ2部「精神の本性と起源について」
《思惟は神の属性である。言いかえれば、神は思惟する事物である》
《思惟実体と延長実体は同じ一つの実体》
《事物それ自体は、実は神が無限に多くの属性から成り立つ限りで、その神を原因とする》
《もし人間身体がある外部の物体の本性を含む仕方で変状されるなら、人間精神は、身体がこの外部物体の存在あるいは現前を排除するような変状に変状されるまでは、その物体を現実態において存在するものとして、もしくはみずからに現前するものとして観想するであろう。》
《経験を疑うことは、人間身体がわれわれの感じるとおりに存在していることを示したあとではもはや許されない》
《(記憶とは)人間身体の外にある諸事物の本性を含むもろもろの観念の、ある種の連結にほかならない》
《身体の観念と身体、すなわち精神と身体は同じ一つの個体であり、それがあるときは思惟の属性のもとで考えられ、あるときは延長の属性のもとで考えられる》
《すべての人間に共通するある種の観念ないし概念が与えられている》
《各人は各人の身体の傾向に応じて事物の普遍的な像を形成する》
《精神の中には絶対的な意思、言いかえれば自由な意思はない》

エチカ3部「感情の起源と本性について」
《精神と肉体は同じ一つの事物であり、それが思惟属性のもとで考えられたり、延長属性のもとで考えられたりするのである》
《身体が不活発なら同時に精神も思考に適さない》
《人間たちは自分は自由な存在だと信じているが、それは彼らが自分のなすことを意識し、しかも自分が決定されている諸原因について知らないからであり、また精神のもろもろの決意はもろもろの欲求そのものにほかならず、そのため身体の態勢がさまざまに異なるのに応じてことなる》
《精神の決意と欲求は身体の欲求と本性上同時、というかむしろ同じ一つの事物》
《自身としてあり続けようとする努力は、その事物の現実的な本性にほかならない》
《欲求は人間の本質そのもの》
《私は以上三つの感情以外にはどんな基本感情も認めない》
《人間は自分自身や愛する事物は過大評価し、反対に自分の憎む事物は過小評価する》
《自分の愛するものや憎むものをだれにも認めさせようとするこの努力は、実は「名誉心」》
《人は愛する事物が他のだれかと、自分が独り占めしていたものと同じあるいはそれ以上に強い親密な関係によって結合するさまを表象すると、その愛する事物に対する憎しみに変状され、かつそのだれかをねたむであろう》
《愛する女性が他人に身を任せるものを表象する人は、自分の欲求が抑制されることで悲しくなるだけでなく、愛する事物の像をその他人の恥部と分泌物に結びつけざるをえなくなり、そのため愛する事物を忌避するであろう》
《もし憎まれる正当な理由があると表象するなら、その場合は恥に変状される》
《もし愛される正当な理由があると信じるなら、その場合は誇りに感じるであろう》
《定理四八 愛と憎しみたとえばペトロに対するそれは、前者の含む喜び、後者の含む悲しみが別の原因の観念に結びつけられれば破壊される。またこのいずれの感情も、その原因はペトロだけではなかったのだとわれわれが表象する限りで、緩和される。
 証明 愛および憎しみの定義-この部の定理一三の備考にあるのを見よ-だけから明白である。というのも、喜びがペトロへの愛と呼ばれ、悲しみがペトロに対する憎しみと呼ばれるのは、ペトロがそうした感情の原因であると見なされるというただこのことのゆえなのだから。したがって、このことが完全に、あるいは部分的に除去されれば、ペトロに対する感情もまた完全に、あるいは部分的に緩和される。証明終わり》
《「後悔」とは原因であるかのように自己の観念が伴う悲しみ、「自己満足」とは原因であるかのように自己の観念が伴う喜びである。そしてこれらの感情は、人間が自分たちを自由な存在と信じているだけにきわめて激しい。》
《(自己満足の)喜びは人間が自身の徳ないしみずからの活動力能を観想するたびに繰り返されるために、だれもが自分の成し遂げたことを語り、自分の精神的強さ、身体的強さを誇示したがることになり、このために人間たちは互いにとって不快な存在となる》
《誰も他人が自分と同等でなければその徳をねたみはしない》
《欲望は各人の本性ないし本質そのものである。ゆえに各個体の欲望は他の個体の欲望と、一方の本性ないし本質が他方の本質と異なるだけ違っている》
《「欲望」(cupiditas)は、人間の本質そのもの、すなわち与えられた何らかの変状から何かをなすように決定されると考えられる限りで、人間の本質そのものである》
《「驚き」(admiratio)は、ある事物の特異な表象が他の表象との連関を欠き、そのために精神がそこに釘付けになってしまう表象作用である》
《恐れなき期待はなく、期待なき恐れもない》
《買いかぶりは愛の、見くびりは悲しみの、結果ないし特性である》

エチカ4部「人間の隷属、あるいは感情の力について」
《その人の本性がその人の活動力能》p.196
《個物がそれ自身であることを維持する力能、したがってまた人間がそれ自身としてあることを維持する力能は、神ないし自然の力能そのもの》p.201
《われわれはわれわれ自身としてあることを維持する助けになるもの、またはその妨げとなるものを、それぞれよい、悪いと呼ぶ》p.203
《理性は自然に反することは何ひとつ要求しない。それゆえ理性は各人が自分を愛すること、自分の利益を求め、それも真に有益であるような利益を求めること、そして人間を実際により大きな完全性へと導くあらゆるものを欲求すること、要するに、各人ができるかぎり自身としてあることの維持に努めることを要求する》p.210-
《徳の基礎は自身が自信としてあることの維持に努める努力そのものであること、そして幸せは人間が自身としてあることを維持しうることに存する》p.211
《自殺する人々は心において無能であり、自身の本性に矛盾する外部の諸原因によってすっかり征服されてしまう》p.211
《各人は自身の利益を追求するよう義務づけられるという原理は不敬虔の基礎》というのは逆で、徳と敬虔の基礎 p.212
《われわれが悪いと呼ぶのは、悲しみの原因となるもの》p.218
《人間たちは受動としての感情にとらわれる限りで、本性において異なりうる》p.222
《とはいえ、人間たちが理性の導きから生きるということは稀にしか起こらず、むしろ彼らに多くのねたみ深く、互いに不快な存在となるようにできている》p.223
《人間たちが最高に良いものとして感情から欲求するようなものは、たいてい一人しか所有できない》p.226
《法律、ならびに自己を維持する権力によって強固にされた社会は「国家」》p.228
《不服従は国家の権利のみによって処罰され、服従は市民の義務と見なされる》 p.229
《快活は過度になりえず、むしろ常に良い。反対に憂鬱は常に悪い》p.232
《適度に美味しい食べ物と飲み物、良い香り、緑の美しさ、装飾、音楽、スポーツ、演劇といった他人に危害を加えることなく各人が利用しうるもので気分を一心し、元気を回復することは知者にふさわしい》p.236
《期待と恐れの感情は、悲しみなしに与えられることはない》p.237
《自己満足はわれわれが望みうる最高のものである》p.240
《謙虚とは、人間が自身の無能を感想することから生じる悲しみのことである》p.241
《惨めな者の慰めは不幸な仲間がいてくれたこと》p.244
虚栄の支配者が名声の維持にやっきになるのは《民衆は移り気で無定見なので、名声は維持されなければただちに消え失せるから》p.245
《迷信家たちは徳を教えるよりも悪徳を非難することに長け、人間たちを理性によって導くかわりに恐れで抑え込む》p.251
《自由な人間は何よりも死については考えない》p.254
強い人は《怒り、ねたみ、嘲笑、慢心、その他これに類する真なる認識の障害の除去に努める》p.259
《自身としてあることを維持し理性的な生を享楽するのに有益であるとわれわれが判断するものは、それが何であろうと、われわれの利益のために逃さず捉え、どのように利用してもよい》p.261
《人間たちは(理性の指示から生きる者は稀なので)多種多様であり、そのくせねたみ深く、憐れみよりは復讐心に傾いている》p.262
《人間たちは施しによっても征服される》p.263
貨幣が全事物を要約したので、民衆は《どんな類いの喜びも、原因のように金の観念が伴わずには表象できない》p.265

エチカ5部「知性の力能、あるいは人間の自由について」
《神は自身を無限の知的愛で愛する。》
《すべての高貴なものは、稀であるとともに難しいのである》

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