見出し画像

李禹煥 - 僕の好きな藝術家たち vol.12

好きな藝術家について書きたいように書いてみるシリーズ。その藝術家についてのバイオグラフィとか美術史的意義とか作品一覧とかはインターネットで他のページを参照してください。


先日直島に行った時、例に漏れず僕も草間彌生さんのカボチャを観たのだけれど、僕にとってそれは雷門やマーライオンのように、とりあえず見ておく観光客向けシグニチャにしか思えない。(草間彌生さんのファンにはまったく申し訳ないけれど。)

心惹かれる作品、そうではない作品、何が違うのだろうと考えてみても、何か明確なロジックがあるわけでもない。

しかしこのシリーズのエントリで取り上げているアーティストたちの作品は、ひと目みた瞬間、心や魂を鷲掴みにされるような衝撃を与えてくれた。

李禹煥の作品もまた、そんな風に僕の心を恐ろしい力で掴んだもので、それは2023年1月兵庫県立美術館でのことだった。

ガラスの上に大きな石がある。ガラスは罅び割れている。

同じようにガラスに石を落としても、罅はその都度形を変える。同じものは二度と作れない。ただ一回限りの有り様としてのインスタレーション。
これはポロックの吹き流し作品などにも共通した事態だと思うけれど、作家の意図を再現するのではなく、作家のコントロールできない事態を孕んだ作品。そういったものに強く惹かれる。
(ただしポロックはかなり細かくコントロールしていたらしいけれど、それでも十全に思うとおりに線を引けたわけではないだろうと思う。)

何故このようになったのか。そこに理由はなく、ただ石とガラスが出会う瞬間、これはこのようになった。その刹那性、ダンディズム。李禹煥は東洋的と形容されることに対して非常に警戒をしているけれど、それでもやはりこの刹那さには、東洋的無常観が無縁とは思えない。作者すら予期しえない形が生み出される瞬間。そこにアートの起源がある。

人と人の出会いもまたそんな風に予見できないものだし、人生すべてがそんな風にして成り立っているんじゃないか。李禹煥の作品を前にしてそんな思索に耽る。とにかく観る者に何かを考えさせずにはいられない豊饒さが李の作品にはある。恐ろしく寡黙な作品なのに。寡黙だからなんだろうな。

李禹煥の芸術観については拙記事
『出会いを求めて―現代美術の始源【新版】』李禹煥
もご参照ください。


思いの向くままに書き溜めた「僕の好きな藝術家たち」もこれで12篇となりました。現時点での僕におけるベストダズン。いったん区切りをつけてマガジンにまとめました。
https://note.com/icchan0000/m/m3be9a288d215

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?