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米田知子 - 僕の好きな藝術家たち vol.7

好きな藝術家について書きたいように書いてみるシリーズ。その藝術家についてのバイオグラフィとか美術史的意義とか作品一覧とかはインターネットで他のページを参照してください。


写真を鑑賞するということの意味。どのような態度で何を感じ取れば良いのか、よく分からない。

もちろん、藝術鑑賞にルールなどないのだから、好きなように観れば良いのだけれど、だから、より精確に言えば、僕には写真を鑑賞するという行為は感動をもたらさない…もちろん、杉本博司の「海景」シリーズのような例外はあるけれど。

いや、杉本博司の写真を好きだと思えるようになったのは、米田知子を観たからだと、今なら分かる。

単に美しさやスタイリッシュさだけが写真の魅力ではないことを、米田知子が教えてくれた。

米田の展覧会「暗(やみ)なきところで逢えれば We shall meet in the place where there is no darkness」が地元の美術館で開催された知らないアーティストだったけれど近くなので立ち寄ってみた。

展示されている写真はどれも雰囲気が良くて色も綺麗で、眼鏡のシリーズなどは構図が面白くて、それなりに愉しんで会場を回った。まぁそれでも、現代アートの作品たちのような細胞がざわめき立つような何かを感じることはなかった。

そのキャプションに気づくまでは。

一般的に藝術作品を展示する際には、学芸員などのテキストが添えられる。しかし「唯だ作品のみ」を至上の鑑賞態度と考える僕は、あまり真面目にキャプションを読まない。

もちろん、鑑賞や理解に有益な情報だとは思うのだけれど、テキストを読んで分かったような気になってしまう自分の浅はかさが怖いのだ、文字という伝達手段の暴力的なほどの力強さの前では。

だからこの展覧会でもあまりキャプションを読まずに観ていたのだけれど、趣のある古い日本家屋の室内を撮った作品たちのキャプションにこう書いてあることに気づいた。

「蒋介石政権時代の参謀総長であった王叔銘将軍の家(齋東街・台北)」

米田が被写体に選んだのは、スタイリッシュでモダンな任意の部屋ではなく、日本の近代が歴史に残した爪痕としての、それだった。

近代日本のアジア侵略という歴史的事実を踏まえてこれらの作品を観ないと、大きく見損なう。

唯だ作品のみ、では分からない、辿り着けないものもあるのだ。単なるトリビア的な知識を超えて、米田の作品とキャプションは、不可分な関係性だった。

この展覧会のために我が街に来た米田は、美術館での作家・黒川創との対談で、展示におけるキャプションの意味について、こんな風に語った。

どうしてもキャプションがあるとそっちに目が奪われるというのはあって、作者としてはジレンマを覚えるのだけれど、キャプションとセットでこそ伝わるテーマが、自分の写真作品なのだ

(記憶による大意)

まさに、米田の作品は、キャプションによって限定されるコンテクストがあって初めて、作品としての本質が伝わるものだ。

唯だ美的なものを現象せしめればよいという藝術態度とは違って、米田には明らかに近代日本批判というポリティクスがある。

そういった政治性を藝術から排除すべきという立場も当然あり得ることは認めるけれど、米田の作品の魅力は、政治と藝術という、繰り返されてきたアポリアについて、どちらかがどちらかに従属するのではない有り様を、少なくともその可能性を、作品として定立させているところにある。

ストレートに政治的主張を埋め込むようなものではない米田の作品は、写真として美しく、そしてそれ以上の何かを伝えるメディアとして機能している。

報道写真でも藝術作品でも、どちらにも収まりきらないものとして、米田は厳しい隘路を進んでいるように感じた。

今でも、写真を観るのは苦手なままだけれど、米田の写真集は今も手元に残している。美しくそして厳しい近代批評としての作品、それは、生半な態度では産まれてこないだろう。

特に最近の日本社会では、政治的なものが忌避され続け、選挙の投票率などを見ても、無関心を通り越して何か悪い事のように見做されているように感じる。そんな閉塞的な社会の中で、俗情と結託しない米田の営為は、貴重なものだと思う。

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