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リストラされた話でもしてみる

#転職体験記 #リストラ

通告は突然

2018年の春ごろのある日、事業部員全員が会議室に集められた。初めて足を踏み入れる会議室ではすでに電話会議が接続されていた。
会が始まってすぐに、顔の見えない本社の人間から日本を含む各国の事業部閉鎖が告げられた。
他拠点からは「おぉ」とどよめきが上がったことを覚えている。日本拠点のメンバーは英語をよく理解していなかったから、バイリンガルの事業部長が通訳をしてくれたと思う。我々は一歩遅れて事態を把握した。

まったく突然、リストラを告げられた。

約3ヶ月後、各国の事業部を閉鎖すること、異動や再雇用はないことが説明された。
続いて再就職支援サービスの営業からサービスの説明があった。同業他社の社員から転職の説明があった。
こういった他社の人間が同席していたことからも、当事者以外が水面下でよほど周到な準備をしてきたのだろう。

我々は本当にピエロだった。

リストラ後のそれぞれの動き出し

私はすぐに動き出した。リストラ通告を受けた帰りの電車ではいくつかの転職エージェントに登録をした。履歴書、職務経歴書もすぐに作成して送付した。
怒りや焦燥を抑えるためには、動いていた方がよかった。
ちなみに会社が用意した再就職支援サービスは使わなかった。会社に足して不信感しかなかったからだ。

私がすぐに会社に失望し、動き出した一方、多くの先輩たちの行動はまちまちで、少なくとも素早さは感じなかった。
不当解雇ということで弁護士へ相談しにいく者や、会社に残れるよう交渉したりするメンバーもいた。
私は当時35歳くらいだったが、それでもリストラされたメンバーの中では若い方だった。家族もいなかったから他の先輩方より深刻さは薄かったはずだ。より深刻なはずの先輩方は、新しいチャレンジに踏み切れないものなんだと感じた。

日々の変化

営業からのお客様への説明が始まった。
業務が減るかと思ったが、一時的に忙しくなったと記憶している。
しばらくして、一社、また一社と毎日あった取引が終了していった。
もちろん計画していた改善プロジェクトやベンダーとの交渉ごとも全てストップした。

我々は転職活動も平行して行わなければならなかった。
面接などの転職活動については、業務に優先してよいとみんなで取り決めた。半日、一日とポツポツと人が不在になることが増えていった。

事業部ないの雰囲気は朗らかだった。
もともと男性がほとんで、部活のノリのような部署だったというのもあるが、自虐していなければやりきれなかったのかも知れない。
転職活動の手応えなんかをお互いヘラヘラと話し合ったりしながら、日常の業務は完璧にこなした。
特にサボタージュしたり、パフォーマンスを落とすことがないのは、生真面目な日本人らしい。

他部署との関係

一方で他部署との関係は冷え込んだ。
もともと業務上ではあまり接点がなかったが、輪をかけてよそよそしくなった。

特に人事担当者との軋轢は深刻だった。
彼女は社交的で業務以外でも我々とコミュニケーションをが多い人だった。私も「犬友」としてよくペットの自慢や躾について情報交換をしていた間柄だった。

リストラを受けた以降、矢面に立たされた彼女は日々憔悴していった。だからといって同情を向ける人はいなかった。「そっちが被害者ヅラするな」という思いがあったのだと思う。そんなに嫌なら我々と一緒にやめればよい。

リストラをうけた我々の事業部の中に、彼女と非常に中のよい同僚がいた。
その同僚とエレベーターに同乗したとき、何気なく「人事の彼女もたいへんだよね」と言ってみたら、「私は彼女を許してないの」と言われた。
その同僚は外国人で、ネガティブな感情なんてどこかに置いてきたのかと思うほど、天真爛漫で、いつもニコニコしている人だったから、その言いように非常に驚いた記憶がある。

リストラされるなどという状況は、人間関係、キャリアを狂わせ、精神的に暗い影を落とすものだ。懸命に積み上げてきたものを放棄させられ、自分たちは必要ないと言われたようなものだから当然だろう。

それぞれの転職活動

転職活動は難航した。私だけではなく皆そうだった。
今の仕事が特殊であって、いわゆるつぶしが全く効かない職種だった。
はっきり言って現職の職歴は足手まといだった。
私は多少ITの知見があったから、それを全面に出して就活をしていた。他のメンバーだと、前職、前々職の経歴を引っ提げて転職活動をしなければならなかった。

また「リストラをされた人間」ということもビハインドに感じていた。いま思えば完全な不可抗力であるので、恥じる必要は全くないが、当時は後ろめたい、恥ずかしい気持ちで転職活動をしていた。
「転職の動機は?」と聞かれて、「リストラされて」と返答する勇気がなかった。

幸い私は同程度の待遇で転職先がきまった。他のメンバーも転職先がきまっていく人がいたが、必ずしも現状以上というわけではなかっただろう。田舎に変えるものもいた。
みなバラバラになる時間が刻々と迫る中、転職先が決まっていない先輩も多くいた。

事業所の閉鎖

会社側のとの交渉もほとんど意味はなかった。退職金の上乗せといったものも応じられなかったと記憶している。もっと社歴の長い先輩たちには別の何かがあったかもしれないがよくはわからない。

業務は計画的にシュリンクしていき。事業所の掃除が一通り終わるとやることがなくなった。だらだらと時間を潰すような日が1, 2週間はあっただろう。有給は買い取りだったような気がするから、有給を消化するような人はいなかったように思う。

みんな最後まで出社していた。最終日に特別なことはなかったと思う。お偉いさんが挨拶にきたかもしれないが、特に記憶にない。
他部署の人への挨拶もなかったと思う。定時になったらいつも通りみんなで退社した。あとは打ち上げという感じ飲みにいって、その会社でのキャリアは終了した。

性格的にドライなところがある私は、それ以降、他のメンバーに会うこと今日までなかった。仲の良い仲間も多くいたが、もう会うことはないかも知れない。最近はグループLINEに連絡をすることもほとんどなくなった。

寂しいとは思わないし、みんなで会ったからといって、当時の悔しい気持ちを想起するようなこともないだろう。なんだかんだで会えば楽しい思い出話もできるだろうが、なんとなくそれをしていないのだ。本当に性格的な問題だ。

リストラされたことのある人事になった

リストラ担当の彼女を見ていれば、人事の仕事は死んでもやりたくないと思っていた。しかし、紆余曲折あって次の職場では人事の仕事をやることになった。

もしもリストラの業務命令が下ったら、ボードから順にリストアップして、自分も辞めるだろうと思う。幸いそういった命令が下されたことはない。

しかし人事にいると「退職しないかな」と思う人とよく出会う。それは明らかにパフォーマンスや労務上の理由、他者とハレーションを起こしやすいといったパーソナリティの理由がほとんどだ。
だからといって、ひとまず事業所ごと「リストラ」というような経営判断をした当時のあの職場によい思い入れがあるはずはない。

リストラなど実行するのもごめんだし、よい経験だったと思えるようなプラスの材料な良い。ここでnoteの記事が一つ増えた程度の価値があるだけだ。

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