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大人数よりもふたりで行くご飯が好きなのは

「この人は自分に興味がないんだな」というのが、嫌でもわかってしまう瞬間がある。初めてそれを強く感じたのは、大学生1年生のときだったと思う。入学したての頃、新入生と先輩たちと男女5〜6人で行ったファミレス。目の前に座った男性の先輩は、わたしの隣に座る女性にばかり話しかけ、質問し、その場は盛り上がっていた。自分がいなくても変わらないだろう空気感が悲しくて、存在感を出そうと合いの手をうったり、うまいこと言ってみようとするも、むしろ空回りしてるみたいで恥ずかしくなる。たわいもない会話に笑いながらも、自分の馴染めなさに泣きたかった。美人だったり可愛かったり面白かったり、自分には敵わないと思う女の子と行く合コンもこんな感じなんだろうなと、合コンに行ったことがない人間なりに思った。

自分は距離を縮めたいと思っているのに、その相手に興味を持たれず、まるでいないかのように振る舞われるのは、なかなかのダメージだ。そういう場面に何度か出会ううち、相手が自分を見ているか、見ていないかに敏感になった。相手が自分に興味を持ってくれているのかどうかが、なんとなくわかる。「あなたのこと好きじゃないです」とか「興味ないです」とハッキリ言われずとも、目線や話し方や表情や、なにかがそう言っている。そんなときは自分から引けばいいのだと、いろいろな人と出会うなかで習得した。

逆に、この人は自分のことを見てくれているというのも、なんとなくわかる。会話がいかに盛り上がったかや、相手が自分に好意を抱いているのかとは関係なく伝わるそれは、敬意に近いようにも思う。自分に対する好意がなくてもよくて、“見てくれている”のが伝われば、それだけでうれしい。

20代後半にもなると、大学生のときに行ったファミレスで受けたようなダメージを負うことはほぼなくなった。わたしに興味がない人に無理して好かれようというある意味傲慢な(?)気持ちはなくなったし、そういう人とは仲良くする必要もないと諦めがついた。ただ、あのファミレスで感じた疎外感とみじめな気持ちは残っていて、なぜか今になってふと思い出したりする。気の知れた人たちみんなでワイワイ楽しむご飯も大好きだけど、ふたりないし3人で行くご飯のほうが安心できるのは、そういう苦い思い出にあるのかもしれない。

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