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ろくでもなくて憎めないひとを思い出した父の日

昨日は父の日だったらしい。スーパーのポップだとか、ニュースで見かけて知った。わたしは父も祖父も亡くなってしまったから、「いつもありがとう」という人もいなくて、自分には関係ないんだなあと、他人事みたいに思った。

でも考えてみたら、生きていたときは生きていたときで「父に感謝なんかできるかよ」という関係性だったから、父の日にはあまり縁がない人生。小学校低学年くらいまでは、「おとうさんいつもありがとう」みたいは手紙を書いていたはずだけれど。それ以降はさっぱりだった。


父の日にわざわざ連絡をとるようなことはしてなかったけど、父の誕生日には連絡をしていた。父がわたしの誕生日に毎年スマホでメッセージをくれていたから、わたしも誕生日にはメッセージを送った。

社会人になって実家を出る前、一緒に住んでいたときも会話はほとんどなかったから、直接おめでとうと言ってもらった記憶はない。かわりに、「誕生日おめでとう」のメッセージがスマホに残っている。家を出た後も、ときに1日くらい遅れたこともあったけど、それでも誕生日前後には連絡をくれていた。

父が亡くなってから、いろいろあったけどそれでも好きだったなあとか、あのひとを美化してしまっている気がしてちょっと気持ちわるい。

変わらず父のことは嫌いだし、許すつもりはないけれど、それでも憎めないひとだったなあということばかり思い出してしまう。


2019年の夏頃、父はもう何度目かわからない入院をしていた。そのときは、初めてお医者さんに「いつ何が起きてもおかしくない」とまで言われた。一時期は意識障害もあって、ベッドの上で訳の分からないことばかり言っていて、もう二度ともとに戻らないんじゃないかと思ったくらいだった。でも何日後かして、父は会話できるまでに回復した。

母とふたりで病院へ会いにいき、父の顔を見るなり、わたしは泣いた。その頃のわたしは、病院で父に会うたびに、情けないような悲しいような、話せて嬉しいような、自分でもよくわからない感情になって泣いていた。

ちなみにその後、父は驚異的な回復力で退院するのだが、そのときは「今日が最後になるかもしれない」と本気で思っていた。

それで母が「最期にわたしに言い残したこととか、言いたいことはないの?わたしは何十年と連れ添った仲だから、ありがとうと思ってるよ」と涙ながらに言ったときの父の返しが、今も忘れられない。

父は大まじめに、「これからもよろしく」と言い放ったのだった。ずいぶん前に別居して離婚もしている元妻、わたしの母に向かって。

家族に甘えて、あれこれしてもらってばっかり、言ってしまえば迷惑かけてばっかり。そんな父が離婚されてもなお言う「これからもよろしく」があまりに父すぎて、母とふたりで泣きながら笑った。父は、まだまだ生きる気満々だった。

「わたしに言い残したことは?」と続けてわたしが聞くと、「大好き」って言われた。きもって思って顔が引きつった。でも嬉しかった、少し。

帰り間際に、「元気になったら、家族4人でご飯にいこう。何食べたいか考えておいて」と母が言う。もしそれができたらすごい奇跡で、嬉しいよなあと思って、また泣いた。父は自分の病気と本気で向き合う気がなくて、そんな日は来るわけがなかった。お酒を飲んでないときの父としかまともにとり合わないと決めていたから。それでも、家族で外食というたったそれだけのことを心から願った。

それから父は回復して退院し、でもまたお酒を飲み過ぎて入退院を繰り返し、去年の年明けに突然しんでしまった。結局、家族4人での外食は実現しなかった。


親子関係は決していいとは言えないし、家族にしてきたひどいことは許さないし、本当に嫌い。でも、だからといって憎みきれない。変な人だった。

そんな風に思えるのは、2年ほど距離を置けたことや、断酒してくれて、まともな父と8ヵ月間を過ごせたことが大きい。うれしくて幸せで、一生続いてほしい8ヵ月だった。あれがなかったら、危うく手をかけてしまう日があったかもしれないくらい、本当に無理だった。

そんな父のおかげで、というか父のせいで、わたしは嫌いと好きの気持ちが同時に存在することもあるのだと知った。

父なりの愛もわたしなりの愛も、その言葉から想像するような綺麗なものじゃなくて、自分のことばっかりで、ひどくわかりにくかった。自分でも、愛してたとか愛されてたとか、いまだによくわからずにいる。誰にもわかってもらいたくないとも思う。

ただ毎年のように誕生日を祝うメッセージをくれたことは、地味に嬉しかった。



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