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【日記】PTA

『PTA』
この単語を聞くだけで嫌悪感や拒絶反応を示してしまう人も多いのではないだろうか…。
私もその一人だ。

この『PTA』に関しては世間でも、各学校でも色々と議論がなされていると思うので、ありとあらゆる意見があることと思う。
私の住む近辺の学校では、実際にPTAが廃止されたところもあったり、一度廃止したが復活せざるを得なくなったというところもあったり…様々である。

私の子の通う学校では、今もPTAが存在しており、子ども一人につき一度は必ずPTA役員をやる形らしい。選ばれ方はネット抽選で、一応辞退したい旨も選べるが、仕事の有無や家族構成などは全く関係なく、過去に役員をやったことがある方だけが辞退の理由として認められるようだった。

ウチの子は今年度小学校に上がり、私にとっても右も左も分からない状態だが、私はその抽選にて今年度の役員の一人に選ばれ、4月からPTA活動をしてきた。

まずここで、簡単に私がどんなタイプの人間かお話しておくと、
・プライバシー保護に関してはかなり疎い
・アナログの方が好み
・デジタルには馴染めずにいる
・学校の広報誌は意外と楽しみにしている
・人付き合いはかなり苦手

…と、まぁ残念なタイプの人間である笑

そんな私でも考えついたことは、共働き夫婦が増えている現状では、抽選で平等に選ばれたとはいえ、時間的にPTA活動が実際に出来る人とそうでない人は分かれてしまって、結局特定の人がやることになるんだろうな…ということだった。

先程も言ったが、私にとってはPTA活動はもとより、この学校自体が初めてなので、学校生活や行事の流れもよく分かっていない。
だから、PTAが必要かどうかについては、どうもこうも言えた立場ではないのだが…
知らない人と絡むことが多い(しかもコロナ禍で連絡はデジタルが多い)し、仕事や家事の間の時間を割いて作業をしなければならないし…
ということは目に見えていたので、本音を言えば必要かもしれないが、やりたいとは思えなかった。

ただ、実際にやってみて良かったと思うことは、
いつものように生活していたら繋がることはなったであろう先輩ママさんや、同じ学年の子を持つママさん、近くに住むママさんとの繋がりができたことだ。
これは人付き合いが苦手な私にとっては、無理矢理作られたようなものではあるが、カナリ有益だった。

また、学校や先生についていち早く覚えられたことも、学校に関して一年目の私には大変有益だった。
学校の先生の名前と顔、おおよその性格、学校の敷地内の様子(門の名前や各教室、体育館、階段の位置など)、学校行事についての情報を知られたのは今後もカナリ大きいと思う。

だが、その有益なもの以上に、予想だにしなかった苦痛を味わうこととなった。
同じタイミングで役員になった方の中に、法律に詳しそう?な方がいらしたのだが、
その方の特徴なのか、法律関係を扱う方特有なのか…言葉選びが特殊で大変に攻撃的な物言いをする方だった。

まずはじめに役員に選ばれた方で集まり、まとめ役を決めたのだが、自らやりたいという人はなかなかおらず、クジで決めることとなった。
結果、私はそのまとめ役(計4人)の中の一人にもなった。
その時、攻撃的な彼女は全く微動だにしなかったのだが、いざまとめ役達が動き出すと、まとめ役に向かって広報誌の違法性を主張し、PTA活動や存在の否定する内容の連絡を幾度となく繰り返した。
その矛先は、いちPTA役員の私達ではなく、その上の執行部という役割を担う方々に直接言ってもらえれば良かったのだと思うのだが、
それを促すとだんだん話が噛み合わなくなり、こちらの言葉尻を拾っては、相手の怒りがヒートアップしてしまい、大変なことになっていった。

結局、私達まとめ役では背負いきれない内容なので、執行部の方も巻き込み、何とかその方を刺激しないように、しかし各々の仕事や家事の合間を縫ってまとめ役が時間を割き、作業を進めるといった心身ともに大変な時期を過ごした。
(まだ作業は現在進行中で、まとめ役に関しては引き継ぎ作業もあるので、年度をまたいで1・2ヶ月くらいは動かなければならないのだけれど…)


PTA活動の在り方や内容など様々な意見があって然るべきだし、時代に合っていないなら変えていかなければならないのも分かる。

だが、相手も人間。
モノは言いようではないだろうか?
初対面で全く知らない人に、いきなり攻撃的な物言いをされたにも関わらず、こちらから心を開いてしっかり話を聞いてあげようといった姿勢をとれる人が一体どれだけいらっしゃるだろうか?
このストレスフルな現代、そんな聖母のような方はいらっしゃるのだろうか?いや、いないだろう。

真の意味で賢い人なら、自分の意を通す為にどのように動けば人を動かすことが出来るのかということまで頭が回りそうなモノだが…。

『言葉は凶器にもなりうる』
それをこの歳になって、実際に体験・経験し、痛感することになるとは思わなかった。

歳をとって意固地になったり、普段の生活で心に余裕がなく、優しくできない時なんてことは、誰しもあるだろう。
人には人の数だけ考え方や感じ方があり、中には相容れないものも必ずあるだろう。
しかし、どれだけ気に入らなくとも、その考えに至るまでには、それ相応の筋道だった理由があるかもしれないし、経験・体験があるかもしれない。
それは初対面では把握しきれないが、相容れないからと言って壁を作り、攻撃するのではなく、
無作為に選ばれた同じ目的を遂行するメンバーとして、可能な限り歩み寄り、お互い様々な面で擦り合わせてベストな落とし所を見つけていくしかないと思う。

変革を望むのならば、踏むべき段階を一つ一つ踏んで、それなりの場所に言うべきで、
時期が早過ぎて、変革しきっていない組織の中に組み込まれてしまったのならば、その中でお互いが気持ち良く過ごせるベストな行動を考えて欲しい。

私も変革を否定するわけではない。
良い方向に変わるのならば大歓迎だ。

しかし、そこにはやはり
元のもの形態への『理解』や『敬意』のようなものがあって欲しいと私は思ってしまう。
元のもの形態への『嫌悪』により壊される、変えられるというのは悲しいな…と思ってしまうのは私だけだろうか。

何だか愚痴っぽくなってしまって反省しているが…
人間の嫌な部分が見えてしまった気がして心から残念に思えてしまった。

反面教師にしたい。


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