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自分はどんな繋がりの中に生きているか〜羽黒山の翁杉と植物たちが教えてくれたこと〜

こんにちは。明日美です。

今日は、ふと以前行った、山形・羽黒山での出来事を書いておきたいと思います。

2022年9月、山形は羽黒山にある羽黒神社にお詣りに出かけた。二度目のお詣りだった。

羽黒神社には、それはそれは美しい五重塔が建っている。

羽黒神社の五重塔

こちらもまた楽しみだったのだけれど、その手前におわす「翁杉」に逢うのがとても楽しみだった。
推定年齢1000年以上と言われるその大きな大きな、真っすぐにそびえたつ姿は、自然と手を合わせたくなる。

2016年撮影の翁杉♡


大きな木といえば、以前、自分の命を救ってもらったこともあり、長らく心の支えとなってくれている敬愛する存在で、出先に巨木の案内板があると嬉しくなる。
悠久の時を超え、静かに静かにその大地に根を下ろしてきた存在が醸し出すそれは、一言では言い表すことができない。大きな抱擁力、自然の厳しさを知る物云わぬ姿。そして、こんな風に生きられたらなと、思ってしまったりするのだ。
有無を言わさず、かっこいいのだ。私にとって。

そんな翁杉との二度目の邂逅は、6年ぶり。また逢えたことが嬉しかった。

そして、此度は、全く違う世界を見せてもらった。

美しい石段

翁杉にご挨拶をして帰る道すがら。苔類や地衣類、背丈の小さな植物たちが生い茂る真ん中に続く石段。小さな植物たちの愛らしさを観ながら、はたと気づく。



「あの翁杉が生きているのは、この小さな植物たちがいるからなんだな」

ひいては、この山全体の生態系も全てがあるから。
あの翁杉は、そんな豊かで色とりどりの命たちの象徴のような存在だったんだな。

そう思うと、なんだかもっともっと嬉しくなって、この山にいることがありがたくて、泣きそうになった。それをまた、神社として、この土地を長らく守ってきた先人たちや、土地に住まう人たちのおかげで、大切なことを思い出し、感謝できることがまたありがたい。ありがたいの連鎖は、一度起きると止まらない。

そして、先日、ご紹介した書籍「大地の5億年」に繋がってくる。
土は、動植物たちの遺体と、砂、粘土の混合物を差しているのだそうだ。
その土壌の生成には、数百年から数百万年かかる。

そして、土壌ができたのが、地球上に植物が登場してからなので、この5億年の話なのだそうだ。もう壮大過ぎて、それだけで興奮してしまう。
そんな想像もつかないほど、気が遠くなるほどたくさんの命の上で、今もこうして私たちは生活している。普段、アスファルトを踏んでいたって、アスファルトを剥がせば土がある。

いのちの上に立っている。

土を観れば、その土地がどんな歴史をたどってきたかがわかるのだそうだ。いくつか好きな話をここに書いておく。

石炭の話も驚いた。
(正確に記載できないので、詳しくは本書を参照してください)

◆大陸にシダ植物の高さ40m近くの「樹木」が繁茂するようになったのだが、樹木の持つ成分が不味くて、それらを上手に分解できる微生物たちがいなかった。そのため、食べ残しが、泥炭土の層を分厚くしていき、これが現代の「石炭」の層になったのだとか。きのこの誕生が、その石炭紀を終わらせたらしい。

◆樹木が育つことで、地上だけでなく、土壌にも大量の二酸化炭素が固定される。つまり、樹木を切るということは、豊かな土壌の流出、損失にもつながるということ。

◆木を部分伐採せず、皆伐すると、木陰や落ち葉で守られていたはずの土壌が流出したり、生態系が崩れたり、土の損失に繋がる。
土の問題と経済は密接に繋がっている。

◆甘いお茶の栽培には、たくさんの窒素肥料が必要。そのため、土壌が過度に酸性化しやすく、土から流れ出て、近隣の水質を汚染する可能性を内包しているということ。(自分の好きな茶の湯とも切って切り離せないお話)

というか、書き切れない。端から端まで面白かった(笑)

この一冊が、世界との繋がり方、視点を変えてくれたことは言うまでもない。

羽黒山で出逢った大きな木と小さな小さな植物たち。そしてそれらを生かす大きな山。

裡に浮かんだのは「孤独」についてだった。
ひとり飯、ひとりカラオケ、ひとり美術館、ひとり旅。結構なんでも大丈夫な人間だけれど、「孤独」というのは、時に人間の生活を蝕むことがある。私も、以前は、それが怖かった一人である。
他の存在に、自分の存在価値を大きく委ねている時期は特に怖いものだ。

けれど、最近思うのだ。
土一つ取っても、水のことを考えても、これだけ命に囲まれていて、孤独になれる瞬間なんて本当にあるのだろうか?

この今、呼吸をした瞬間も、他のいのちと交流の中にある。生死を超えて、大きな命に包まれている。すぐに忘れてしまうような、聞こえなくなってしまうような、繊細な交流。

茶の湯は、道具や場、空間、花、人、掛け軸、全てがお茶を一緒に点ててくれることを教えてくれた。

どれだけの存在との繋がりの中に、生かされているかに気づいたとき、一人で生きよう、ひとりで生きていると、「自立」をはき違えてきた自分にゾッとして、赤面したことがある。自分が立っている基盤を知らない者に、「自立」なぞ無かったのだ。立っている気になっていただけだった。

孤独や分断は、人間が自ら「自然」との繋がりを忘れたときに、深まっていくものなのかもしれないな、なんてことも思う。自分が一番身近な自然なのに。

そして、孤独や分断が悪いことなのでもない。
大きないのちの中に包まれた孤独であることや、大きないのちの中で、私たちは分断され、だからこそ、お互いを感じ、体験することができている。これって、実はすごく大切なことなのではないだろうか。

またこの感覚が変わる時があるのかもしれないけれど、自分を知れば知るほど、孤独や分断すらもすでに包み込まれていて、その恩恵を享受していることに気づいていくのではないかと思う。
それは孤独や分断との和解。

今まで使っていた言葉が更新されていく。きっと、言葉それ自体にも階層があるのだと思う。

自分がどんな繋がりの中に生きているのかを想像する時間と余裕。
いのりの瞬間を大切にしたいなと思う今日この頃である。

読んでくださってありがとう。
今日も素敵な一日を🌈🌈

明日美


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