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アナモルフォーシス

 あらすじ

 喪服の女性ふたりと、しがない文筆家の僕。
 仕事上の知人であっただけの彼女らから聞かされた「赤塚弥生」という女性の名前だが、ふたりの話を聞くにつれて段々と僕の中に鮮明な像を結び始める。
 凛として毒があり、争いを好むような爛々とした眼に映った切ない祈り。仕事、恋愛、結婚、すべての選択に裏に潜む弱さと強さ。ひとりの女性の生きる姿をふたりの人間の視線から切り取ったとき、それは人の記憶にどのような傷を残すのか。


 例えば事実とは違うことを他者に話したとして、それを繰り返し反芻するうちにあたかも本当に起きたことのように感じる場合がある。
 脳が勘違いを起こして記憶を書き換え、実際の出来事を誤認してしまうのだ。たとえば別れた恋人との甘いひと時や、幼少期に出会った不思議な現象も、冷静になって考えてみればそれに当たるということがままある。人によってはそれを虚構だとか妄言だとかいうかもしれないが、僕はそれを密かに形成記憶と呼んでいて、もちろん虚構や妄言と言った言葉とは違ったニュアンスで捉えている。

 作家とライターの合いの子のような仕事をしている。割合としてはライター業の方が八割を占めるが、自分にはいいバランスのような気がしていた。僕はいわゆる言葉を愛する文筆家ではなかった。大学を出てからすぐに書き始めて、三十に差し掛かろうという頃にようやく自覚したので、思えばずいぶん時間を要してしまった。しかし気がつけば早かったし、仕事に対してもいくらか気が楽になった。気が楽になるのと同時期くらいに、コンスタントに仕事も入ってくるようになり、それなりに満足の行く稼ぎに届いたのがやっと最近のことだった。
 馴染みの喫茶店で打ち合わせを終えたあと、近くの公園を散歩していると雑木林を抜けた先に小さな東屋を見つけた。ささやくような木漏れ日しか差さない薄暗い小路から、ぱっと視界が開けたかと思うとそれが急にあらわれた。四隅の柱は表面が砂のように白茶けて年季を感じるが、もたれかかるように屋根を這う弦から垂れ下がるのは立派な藤の花だった。二脚の木のベンチとテーブルに薄紫色の影ができている。こんなところがあったのかと近づいていくと、先客がいた。
 女性ふたりがベンチに腰掛けて話し込んでいる。ヒールの低い黒のパンプスに、ひとりは膝を覆う丈のフォーマルなワンピース、もうひとりはパンツスーツで、いずれも生地の色は真っ黒だった。黒尽くめの女性たちの首には、共に真珠のネックレスが下がっていた。
 近づくにつれ、ふたりのうちの片方が知り合いだと気がつく。仕事で知り合った三十なかばの同年代の女性で、話上手な親しみやすい人だったと記憶していた。同時に、相手に距離を測らせるのが上手い人であることも。
 のろのろと逡巡しているうちに、声をかけてきたのは意外にも彼女のほうだった。深津さんですよね、という確信を含んだ問いに続けて、〇〇社の沖田です、と頭を下げた。喪服に似合わないビジネス的な挨拶に、僕に恥をかかせまいとする気遣いが透けていた。先日はお世話様です、と答えると、彼女はわずかにほっとした様子で、お散歩ですか、と尋ねた。
 そのあと、どうして彼女たちの話を聴くことになったのかは、実のところ僕自身にもよくわかっていない。取るに足らない偶然が思いがけず本流へと繋がっていったような気もするし、彼女が巧みに導いたような気もする。相手は誰でもよかったのかもしれないが、少なくとも僕はふたりの話の傍聴役になれたことを、とても光栄に思っている。
 沖田さんは穏やかな顔で言った。
「赤塚弥生を知っていますか?」

 沖田さんともうひとりの女性、古渡さんは第一に、その人のことを偏屈だと言った。
「気難しい人だったよね」
 沖田さんが口火を切ると、古渡さんもうんうんと首肯する。
「それに頑固でもあった」
「他人の言うことは聞かない、我が強い」
「たとえ自分が間違っていても認めないし、口が上手いから簡単に丸め込まれちゃって」
「言葉にはしなくても、あたしはあんたらとは違うのよって思ってるのが透けて見えるのよ。あの人に比べたら最近の若い子なんてよほど素直なもんよ」
 僕は面食らった。あいだに相槌を挟む隙もない。喪服の艶に目を取られているうちに、沖田さんはいつの間にか友人の顔をしていた。
「そういえばあの人、この公園が嫌いだったわね」
「そうそう。もう少し奥へ行ったところにほら、小さなバラ園があるでしょう。行ったことあります? 茨のトンネルを抜けると傾斜沿いに花壇が並んでいるところがあるんです。周囲を林で囲まれていて、思いの外幻想的なんですよ。なのにあの人、それを見てなんて言ったと思います?」
 急に会話のテンポに混ぜられ、ほんの少し尻込みする。普通なら綺麗、とか、夢のような、と言うのだろうけど。
「『地獄みたいなところだな』って言ったんですよ。考えられます? 綺麗ね、って人が言ったあとに平然とそういうこと口にするんですから。それが赤塚弥生って女なのよ」
 沖田さんが少し口調を崩して言うので、きっとその時の彼女を真似たのだろうとわかった。古渡さんは隣でけらけら笑う。
「日立のネモフィラも、巾着田の曼珠沙華も、誘ったけど弥生は来なかったでしょう。そもそも花が好きじゃなかったのよ。植物全般との相性悪そうだもの」
「確かに、か弱い生き物に対して『そんな脆弱でどうする』とか言いそう」
「ふふ、目に浮かぶ。でも彼女の嫌いだった場所で彼女について話すなんて、私たちも大概よ」
「それもそうね。所詮は悪友だったってことよ」
 ふたりが顔を見合わせて笑い出す。穏やかな日だったが、時折そよぐほどの風が吹くと頭上に広がる木々がざあざあと葉を揺らす。火花のように散った木漏れ日に真珠のネックレスがきらめいていた。
「そうそう、断ったといえば、やっぱりあれでしょう」
「私の結婚式ね」
「え、古渡さんの結婚式に出席しなかったんですか」
 僕ははじめて相槌や返事以外の言葉を彼女たちに投げた。沖田さんの笑い声がわかりやすく柔らかくなる。
「違いますよ、出席はしたんですけどね。彼女にスピーチを頼んでたんですよ、友人代表のやつ。人一倍口が悪いだけあって、話も上手だったんですよね。何気ない言葉でも人を惹きつけるというか」
「そうそう、遠巻きにされがちなタイプだけど、なんだかんだと誰も無視できないような佇まいのある人。だからね、別に私のことを良く言ってほしいとかじゃなくて、単に聞いてみたかったんです、ああいう場で弥生がなにを言うのか」

「今の時代、誰しもにとって結婚が人生の転機とはならないでしょうけど、二十三の私にとって、それはそれは大きな決断だったように思います。
 深津さんは………じゃあ私たちとそう変わらない歳でしょうけど、新卒で勤めた会社はそれなりに苦労して入ったところだったんです。世代的にね、仕方がなかったとは思うけど、同級生にも未だに苦労している人は少なくないわ。
 相手は大学時代から付き合っていた二つ年上の、とてもしっかりした人でした。お洒落じゃないけど身綺麗で、いつも将来のことを考えて行動できて、決して不正解を出さないような人。たった二つしか変わらないのに、私しょっちゅう叱られていました。でもそういう重心の低いところに憧れていたし、彼も私を放っておけないようなところがあったから、悪くはない組み合わせだったんでしょうね。
 結婚が決まって、ひとまずは麻美に、沖田に報告しました。本当は弥生と三人の時に言うのがいいんだろうとは思いましたけど、実はちょっとね、怖かったんです。「早すぎる」って言われるんじゃないかって。
 ええ、何にだって口を出しましたよ、彼女は。女同士だって他人の恋人に意見するのは躊躇われるのに、恋愛どころか親兄弟や思想に至るまで、間違っていると思ったら言わずにはいられないんですよ。こと結婚については…彼女は早くから写真家として活躍していた人でしたから、意見が食い違うことなんて容易に想像がつきました。
 それから婚約して、式の日取りが決まって、いよいよ友人たちに報告しなければいけない段に、ようやく弥生との約束を取りつけました。
 勤めていたビルからオフィス街へ降りて約束したカフェに着くと、弥生はすでにオープンテラスの隅の席を陣取ってコーヒーを飲んでいました。お昼ご飯はと聞くと、すぐに戻るからと私にだけ食事を勧めて、自分は見るからに痩せ過ぎた身体にカフェインばかり流し込んでいました。
 席に着くなり、私はすぐに言いました。尻込みしてずるずる引き伸ばすのが嫌だったんでしょうね。
「私、結婚するの」
 彼女の伏せた顔から覗く目が一瞬、強い光を籠めたのがわかりました。友人でも不意に身動きが取れなくなるような眼差し。私は息を詰めたまま手元のトレイを見つめていました。
 その日はどんよりと湿気た曇り空に、やけにギラギラした鉄色の高層ビルが突き刺さるように伸びていたのをよく覚えています。吹き抜ける風は生温さと肌寒さを交互に連れてきて、トレイの上のカフェラテが時々カタカタ揺れる。それを見ていたら、途方もなく遠くまで来てしまったような気になったことも。
 弥生は大した間を置かずに、でも彼女にしてはたっぷりとした余白を取ってから言いました。
「そう、おめでとう。式はやるの?」
「ん…来年の六月くらいにって思ってる」
「覚えておく」
 彼女はきっぱりとした口調で返事をしたあと、黒い革の手帳にさらさらと何かを書き込みました。学生の時から大事に使っているという手帳は彼女の手によく馴染んでいました。
「ねぇ、弥生。友人代表のスピーチを頼めないかな」
 ほとんどなんの考えもなしに言うと、それがわかっていたみたいに彼女は低い声で「無理ね」と答えました。
 その場では引き下がりましたけどね、あとになって考えれば考えるほど、やっぱり彼女に引き受けてもらえないかっていう気持ちが湧いてくるんです。それから二度、弥生にその話をしましたけど、いずれも答えはNO。花嫁たっての希望なのよって言ったら「あたしは花嫁の結婚式に行くんじゃない、あんたの結婚式に行くんだ」なんて屁理屈。…ふふ、そうね、代打を引き受けてくれた麻美には感謝してる、愛してるわ。
 それから六月の半ば、入籍して式を挙げて、信じられないくらいたくさんの人に祝われて。ああいうことって確かに人生で何度とない経験だった。小さな悩みや不安なんてかき消してしまいそうなほどの祝福が私達に降り注いでいたけど、本当に麻薬みたいなもので、それで解決なんてしないし、ましてやこれからの生活に対する担保にもならない。
 …えぇ、彼とは三年前に離婚したんです。お互いに試行錯誤はしてみたし、それがすべて無駄だったとは思わないけど、結果的にはそういうことに。
 結婚してからずっと住んでいた家を出る日、その日は朝から雨が降っていました。玄関の扉を開けると、荒い風に煽られた雨がひさしの内側をひどく濡らしていた。目の前の下り坂を排水溝に行きつかなかった雨が川になって流れていく。灰色の傘を握る彼に「玄関まででいいから」と言って遠ざけ、私は白いミュールの踵を汚しながら数年親しんだ場所から遠ざかった。
 そんなタイミング、珍しく弥生から連絡が来たんです。話の流れで引っ越したことを言ったら、近々訪ねてもいいかって。
 槍でも降るのかと思っちゃった。弥生がわざわざ人を訪ねてくるなんて滅多にあることじゃないんですよ。前の家に招待したときだって、実際に足を運ばせるまで一苦労だったんですから。
 初夏の暑さを濡らす六月のなかば、弥生は約束の時間よりも少し遅れて私の家のインターホンを鳴らしました。相変わらず全身真っ黒な服でやってきた彼女は、肩にかけた大きなボストンバッグを邪魔臭そうに抱えながら狭い廊下に入ってきました。
 リビングに荷物を置くなり、弥生は断りもなく奥のドアを開けました。はじめはびっくりしましたよ。ワンルームに毛が生えたような部屋の中を、弥生はまるで自分の家みたいにずんずん歩いていくんです。時々じっと何かを見つめたり天井を仰いだりしながら、ね。ちょっと驚いたけど見られて困るものも特になかったから、私は黙って弥生の後ろをついていきました。彼女はいつもの不機嫌そうな口調で玄関に置いてある棚がああだ、キッチンは水回りはこうだってあれこれダメ出ししながら、部屋の中を隅々まで見て回りました。
 …そういえばベッドの向きを変えなさいって言われたわね。今思い出した。
 ベッドがね、横になったときに足を向ける方向がちょうど扉とぶつかる位置にあったんですけど、それがよくないって。お陰で新しい家を探すときも、この間取りだとベッドがこの方向になるから、ってつい考えてた。
 そういうことってあるのよね。いつ誰が何のために言ったのかまるで思い出せないのに、なぜかいつまでたっても覚えていること。自分の体の一部になったみたいに、いつどんなときも自然と考えられてしまうこと。誰かとしたきらきらした会話も、人生を左右したと思うような大事な思い出も、いずれは全部忘れてそういうどうでもいいことばかり覚えてるおばあちゃんになるのかもしれないわね。
 私が珈琲でもって言うと、弥生はボストンバックの中から長細い紙袋を取り出しました。開けてみると中身は高そうなシャンパン。くれるのかって聞いたら、今開けて頂戴って。真っ昼間からなにごとよって思うじゃない。でも日の高いうちからお酒を飲むなんて学生の時以来してなかったから、私も楽しくなっちゃって。キッチンから栓抜きを取り出してきてコルクを抜きました。何かつまむものをと言ったけど、彼女は「いいから早く」って私の分のグラスを持って待っていました。
 席についてダイニングの真ん中で琥珀色のガラスを軽くぶつけると、繊細な悲鳴に胸が高鳴りました。
「乾杯の挨拶でもしてくれるのかと思ったわ」
「そういえばそんなことも言ってたわね」
 ギギ、とダイニングの足が鳴く。立ち上がった彼女は益々細く、針金のように曲線の少ない身体から手足がすらりと伸びていました。
「ただいまご紹介に預かりました、赤塚弥生と申します。本日はこのような場を設けて頂き、誠にありがとうございます」
「このような場って?」
「離婚したあなたに言葉を送る場よ」
 まさかもう酔ってるの、なんて口を挟む隙もなかった。長い間奏のあとの息継ぎみたいな呼吸を置いて、彼女が言いました。弥生から発せられるキッパリとした声は、彼女と同じように強い芯があった。この細い身体から、華奢な喉から、どうやってこんな声が出るのだろう。聞いたところでわからないし、弥生自身にもわかっていないのかもしれないと、なぜかそう思いました。
 外はまだ明るくて、梅雨時期の晴れ間の匂いがして。いくらか殺風景だけど、ひと月住んだ家はすっかり私に馴染んでおっとりとしていました。しかし同時に、この家を「自分の家」と称するのに躊躇う気持ちもまだあったんです。お気に入りの喫茶店にいる時のような、子供の頃に神社の裏に作った秘密基地にいるような、そういう気持ちが胸の中を流れていた。
 話が終わると弥生は大げさに息をついて椅子に腰をおろしました。「ありがとう」なんていうのは彼女が望んでいない気がして、
「前はあんなに冷たく振った癖に」
 わざとらしく責めてみせると、弥生はわずかに顔を反らしました。
「嫌だったわけではないわよ。でもあの時は麻美の方がいいと思ったから。実際とても盛り上がったでしょう」
「そりゃいいスピーチだったけど」
「私の話すことは、どうしてもひとりで歩く人のためのものになってしまう。結婚したくらいであなたの自我が薄れるとは思ってないけど、でも『ふたりの門出』にはふさわしくはないでしょう」
 弥生はグラスに入った琥珀色をするすると飲み干しました。ほのかに赤らんだ首筋に対して顔がひどく青白く、痩せ過ぎた顎がさらに尖って見えました。
 彼女の強さは、頑強で、何物にも曲げられない鋭さだと不意に思いました。その言葉は無意識に人を揺さぶる。私はおつまみを出すのを口実に席を立ちました。弥生は私を、以前と変わらない私だと思っている。そのことに喜びよりも先に、ひどく安堵しました。
 ひとり暮らしの家にお洒落なシャンパンに合うものが置いてあるはずもなくて、冷蔵庫から出したのはぺらぺらの生ハムと、チーズにわさびと刻み海苔。昼間のシャンパンにはしゃぎながらする他愛もないお喋り。夏のように照りつける陽射しが床に窓の形を落とす。
 「七月よりも六月の方が暑い一年も少なくないらしい」と弥生が話すのを聞いたとき、私はそれほど驚きませんでした。あの日も朝から蒸した匂いの立ち込めた、こんな六月でしたから。抱えきれないほどの祝福が降り注いだあの日、白い衣装の中はどろどろに汗をかいていました。オブラートみたいに重ね過ぎたパニエがふくらはぎに重くて、あげたベールを手繰り寄せられるような現実感。途方もなく遠いところまで運ばれてきてしまった感覚がまた私を襲いました。
 彼の望むように部屋を整える生活は、少しずつ私の何かを薄めていく気がしました。もともと綺麗好きな人だから、リビングや水回りさえほとんど汚れはしない。やることはさほど多くないのに、一日中家の中を探るような目で見てしまう。来る日も来る日も自分の粗を探し回る。そうするように教えられた。…離婚できたのは偶然で、そして幸運だったのかもしれません。
「そうだ、まだ何も決まってないんだけど、今度麻美と三人で金沢に行こうって話してて」
「それ、私を乗り気にさせられる話?」
 左側だけ角度をつけた口角が私を試す。息を巻いた私は、集めたパンフレットを机の上に広げました。風情のある景色に貼られたビビッドな付箋を「台無し!」とゲラゲラ笑いながら、弥生は使い古された手帳を取り出しました。
 数年に一度中身だけ取り替えて、カバーはずっと同じものを使っていると、いつか聞いたことがありました。彼女は意外にも何でも書き留めるタイプの人で、くだらないことも、大事なことも、今やほとんど無駄になったことですら、彼女は時々切なくなるほど覚えていました。
 すっかり瓶の中身を飲み干しても、外は夕暮れ時にも早いくらいでした。傾きかけた西陽の黄色だけが時間の感覚を呼び起こすけど、気持ちとしてはこれからのことなんてどうにでもなるって信じられるような、そういういい気分でした。お酒の力は偉大ね。
 すっかり赤らんだ顔の弥生をぼんやり眺めていると、彼女がね、不意に言ったんです。
「あの出窓、素敵ね」
 言葉をこぼした横顔を透かして、眩しい窓の縁を見る。薄灰色のポットに植わった観葉植物が艷やかに葉を伸ばしている。
 明日は朝から富山へ出張だという弥生は、大きなボストンバッグの中に携帯も財布も何もかも詰め込んで肩に掛けた。ポリシーなのか性分なのか、彼女は決して小さな鞄を持ちませんでした。
 山吹色の光が弥生の頬の上を滑る。まつ毛の先まで逆光に包まれて、彼女の輪郭が夕暮れの空気に融け出していた。眩しくて目を細めた先で、弥生の視線とぶつかる気配だけをとらえる。
「前の家に、よく似てるわね」
 瞬きをする間に胸を突かれたみたいだった。彼女の言葉は、まったく自覚のないところに投げ込まれた石のように大きな波紋を作って、いつまでもさざめき続けた。
 窓の前を横切って短い廊下へ出ると、弥生はひらひらと手を振った。「ベッドの位置、変えなさいよ」とだけ言い残して。
 彼女を見送った後、しばらくのあいだ呆然としていました。まだ外が明るいのが心底救いで、残り時間を数えるみたいに怯えていた。カウントダウンは喜びのときと、絶望のときしか生まれないものなのね。
 それからどれくらいが経ったか、歩き回る力をようやく手繰り寄せて私はリビングへ戻りました。気力を振り絞って狭い部屋をのろのろと徘徊すると、気づいたんです。あの出窓だけじゃなかったって。そんなはずはないと必死になればなるほど、キッチンも寝室も、こだわりなく買ったと思っていたものでさえも。みんな真似事だった。これまでの数ヶ月間の暮らしが嘘だったみたいに、冬の雨に引き摺り込まれていく。
 新居へ向かう途中の小さな橋の欄干で、私は足を止めました。雨は激しさを増して、川の水面をばたばたと打つ。自分の声さえも聞こえなくなるような風が吹き荒ぶ。夏は子供たちが足をつけて遊ぶ美しい川辺が、今は凶暴に泡立ち、曇天よりも暗い色をしている。傘を持つ右手が冷たく、白い靴の踵が汚れて痩せていく。
 雨に煙る河川敷を見下ろしながら、出てきた家のことを思いました。住む場所も、部屋の用途も、家具も小物を、ほとんどを彼が決めた家。私はあの家の一部だった。
 本当に偶然だったんです。懐かしさの面影を残すオフィス街の一角で彼を見つけたのは。一緒にいたのは同年代くらいの、凛とした感じの人だった。捉えたのはほんの数秒のことで、追いかけていくことだってできたけど、私はそのまま近くのデパートで買い物をして、帰りのバスに揺られながら考えました。これが、彼が見せる生涯で一度きりの隙かもしれないって。凪いだままの気持ちを振り絞るようにして憤ったわ。そうしなければもうこの先怒りの感情を持つことすらできなくなるんじゃないかって、そのことがとても恐ろしかった。恐ろしいと思えた。
 あの家を出ていくことが私の目標であり、終わりだったんだわ。そのあとのことなんて想像もできなかった。自分がどんな人間かを忘れてしまったら、どれだけ嫌悪していても知っている生き方しかできないのよ。
 胸のざわめきのままに両サイドのカーテンを引くと、瞬間的な暗転がまつ毛の先を横切った。そのあいだに乱暴に解けた薄布が陶器を引き摺り、派手な音を立てて落ちた。感じた衝撃以上にそれは粉々に砕けて、床を汚していた。自分でやったくせに酷く苛立つ。土足で踏み入られたような気分を抱えたまま、それでもまだ私は呆然としていた。
 でも、波はいつか引いていくものですね。
 しばらくして元夫から連絡がありました。「入院することになった」って。聞けば、そんなに大した病気じゃありませんでした。嘘か本当かは共通の友人に聞いたらすぐにわかったわ。入院は本当で、大した病気じゃないのも本当で、彼は本当のことしか言わなかった。相変わらず正しいままの人だった。
 お大事にねって返したら、お見舞いに来てくれないかって。でも、行きませんでした。行ったところで仕方ないもの。
 ….ちょっと麻美、勝手に言わないでよ」

 からかうように沖田さんが口を挟んだ。躊躇う古渡さんを「良いでしょ、教えてよ」とせっつくと、満更でもない様子で古渡さんが咳払いをした。
「いえね、理由もなく断るのも返って気を配るみたいだと思って。『病院嫌いだから』って、元夫に」
「言ったんですか」
「言ったんですよ、歯医者も眼科もドタキャンしたことなんてないくせに。こんなにおっとりしてみせて、この人も結構頑固だから」
「いいでしょ。それにもう時効みたいなものなんだから」
「三年で? 早くない?」
「円満離婚にとって三年は時効よ」
と古渡さんが躊躇いなく言う。
「嘘だったって、種明かしをしなかったらそれが真実なのよ」
 世間話をするのと変わらない調子で会話が流れていく。こういう話はかえって男同士のほうが湿っぽいものかもしれない。
 この辺りで一番大きな公園だけあって、東屋の道沿いはランニングする人や自転車で駆けるこどもたち、車椅子の女の子と歩調を合わせて歩く老人など、様々な人が通り過ぎていく。
 僕はふたりの視線を追った。向かい合うように座った沖田さんたちの目は、会話に夢中なようでいて、時々余白を挟むように僕に微笑んだり、木々のざわめきを見ていた。
 喪服姿の女性たちの手入れされた髪だけが静かに揺れる。柔らかく広がるスカートも、可愛らしく左右に振れる耳飾りも、華やぐ色もないが、不思議とくっきりした輪郭があった。
 古渡さんの話を聞き終え、手持ち無沙汰になった僕は両手を何度か組み替えた。
「深津さん、たしかお煙草吸われましたよね。私たちに遠慮せずどうぞ」
 そう言われてようやく自分が欲しているものを思い出した。沖田さんの言葉に甘えて、東屋のテーブルから少し離れて煙草を取り出す。
 今朝までは存在すら知らなかった女性が、僕の中で段々と象を結びはじめている。左右から当てられた照明に浮かび上がる光と影のように、彼女たちの話が段々と深さを増していく予感がした。火をつけた煙草を口に咥えて、足の先まで煙を吸い込んで吐き出した。
「あの人もよく吸っていました。一日にどれくらい吸うのかって聞いたら、今は一箱くらいだって言って。世間的には多いのだろうけど、結局それが弥生にとって多いのか少ないのかはわかりませんでした。ハッキリしているようで曖昧なのよね」
「麻美に怒られたくなかったんじゃない? 弥生が不摂生してるとすぐ怒るから」
「だって放っておくとすぐ薬や液体にばっかり頼るんだから」
「ふふ、でも怒られたくなくて曖昧にするって、そういうのがあの人の憎めないところだったのよね」
 テーブルに腰掛けたふたりの顔に木漏れ日が落ちる。掻き回すようにちらちらと動く光の粒に、沖田さんが目を伏せ、そしてゆっくりと話し始める。

「五年前の夏、一度だけ弥生と仕事で一緒になったことがありました。業界としては無関係ではないし、彼女が順調に有名になっていけばいずれはって思ってはいたけど、まさかたった二十八でその時が来るなんて考えもしていなくて、正直心底驚きました。
 仕事がはじまる少し前、弥生とふたりで中目黒のバーに行ったことがありました。知り合いの一回り年上の女性が教えてくれた店は、奥に広めのテーブル席が三つあって、お酒だけではなく料理も美味しい店でした。
 オイルのよく効いたショートパスタと、オリーブをつまみに飲んでいると、突然しぼるように部屋の明度が落ちた。薄暗い足元がほとんど闇に覆われたかと思うと、今度は店の奥に柔らかい光が灯る。
「ハッピーバースデー、トゥーユー、ハッピーバースデー、トゥーユー、ハッピーバースデー、ディア……」
 店員らしき黒服の男が揺らめく光をテーブルの上に乗せる。目の前の女性のつるりとした二の腕が発光するように浮かび上がった。弥生と顔を見合わせ、音を立てないようにオリーブをかじった。
「あの歌って、大事な人のためならギリギリ耐えられる長さの羞恥よね」
 午後零時過ぎを回り、思いのほか早く奥が空席になると、弥生は眉根を寄せた顔でこぼした。無意識にバーカウンターに置いた重めのグラスが小気味のいい音を響かせる。
「まさかそれ、誕生日の歌のことじゃないでしょうね」
 沈黙に喉を鳴らした弥生の唇が濡れている。意外にも彼女はさほど酒が強くなかった。
「呆れた。あんなの物心つかないうちから何千回って歌わされているし、ほとんど息をするようなものじゃない」
「そう? 私はこれで足りるわ」
 弥生が私の目の前にぱっと手のひらをかざした。長い指にペンダントライトの光が遮られ、視界がすっと狭まる。大きく開かれた五本の指の爪に血色はなく、やけに不健康そうな乳白色だった。瞬間的に息を詰める。
 弥生曰く、彼女には記憶のない時期がないらしいんです。幼児期健忘ってあるじゃないですか、大体三歳くらいまでのことは成長すると忘れてしまうってやつ。でも弥生は大体生後半年くらいからの出来事を今でも記憶しているって言っていました。それより前になると、周囲の記憶と自分の記憶の擦り合わせができないから確定的ではない、とも。
 弥生はオリーブを弄ぶようにピックで突いた。彼女が油っぽいと言って食べないから、私ばかりがショートパスタを口に運ぶ。
「じゃあバースデーソングが駄目なら、真っ白なクリームとカラフルなロウソクを前に愛のかたまりでも歌えばいいわけ?」
「悪くないわね、生々しくて」
 カラカラ笑う彼女の声が低く響く。皮肉でも冗談でも、弥生にはどこ吹く風で、まるで達観した反抗期みたいだと言うと、誤魔化しではない微笑みが口の端に滲んだ。
 十代の終わりと共に許されなくなることがある仮定するなら、同じような断崖が二十代の終わりにも訪れていた気がしている。あの頃だって窮屈はいくらでもあったけど、それでもまだ許されていたように思うんです。弥生がいたら「他人の許しがなんだ」って怒るでしょうけど、まだ世間的に受容されないものは多いし、存在を認められもしないものはもっと多い。朝起きて、仕事をして、食べて、寝て、日々の繰り返しの裏には当然普通であることが想定されてしまう。その枠から外れられる人がどれだけいるんでしょうね。
 それから打ち合わせや現場で彼女と頻繁に顔を合わせるようになった。他の関係者も混ざって、普段は無機質なオフィスがぐらぐらと動き出す気配に満ちていた。
「じゃあ、終わったら駅前ね。店がわからなければ連絡して。俺、迎えに行くから」
 公然の場で渡された連絡先を、苦笑いで受け取ってスーツのポケットにしまう。伊田は私の反応を気にする様子もなく、また別の女性スタッフに声をかけている。不用になった愛想笑いを脱いで周囲を見渡すが、彼の行動にあえて眉を顰める人はいない。私も溶け込むようにその場を離れた。
 冗談みたいな調子で連絡先を手渡してきたその人は、会社の雑用に入っている若い子とさほど変わらない風貌に見えた。流行りの服を着て、流行りの髪型をしているな、というくらいの印象。モデルという職業柄顔は整っていたし、引き締まった首元から肩にかけてのラインは確かに綺麗だったけど、一度ついた「年下の男の子」というイメージを覆すほどの暴力的な魅力ではなかった。それが伊田という男に対する最初の印象だった。
 夜、別の関係者と店を訪れると、中はほとんど知らない顔で席が埋まっていた。その大半が若い女の子だ。むせ返るほどの香水の匂いに巻かれながら、一杯だけ酒を注文し、果たすべき義理だけ果たして店を出た。伊田は口先だけで名残を惜しみ、次の瞬間には別の人と視線を絡めていた。正直、一回くらい引っ叩いてやろうと思ったわ。
 でもスクリーンの前に彼が立つたびに、それは急に襲ってくる。あれは威圧にも似た確かな存在感だ。それだけはやはり圧倒的なのだと思った。
 伊田はいつもどおり機嫌良さそうに衣装のジャケットを羽織り、バランスの良い筋張った腕が見えるように軽く袖をまくると、小気味よくシャッターが切られ始めた。それに合わせて照明も強くなり、眩しいくらいのコントラストが彼を浮かび上がらせる。段々と加速する規則的な音の波が、彼をなぞるように形どっていく。
「その顔やめなさい。頬骨が綺麗に見えない」
 ふつり、と刃を立てるように弥生の声を聞いた。撮影が開始されてはじめて伊田から視線を外す。仕事であっても、彼女はいつも通り不機嫌そうだった。
 あの人、声が本当によく通るんですよね。細すぎる身体から出る音なんて大きいはずがないのに、響く、から、反応する、までが驚くほど早い。声が発されたときにはもう、その意味まですべて頭の中に叩きつけられているみたいに。その分くだらないことでよく衝突もしていましたけど、あれはそんなことで直すべきものじゃない。。
 彼女の声を合図にするみたいに、決して相容れないように見えたふたつの鋭さが、牙を削り合いながら噛み合っていく気がしました。売名行為のためにスキャンダルを撒き散らしているとまで言われていた若い男の子が、そのときは被写体以外の何物でもなかった。
 それからしばらくして使うスタジオが代官山に変わると、弥生を誘って中目黒のバーへよく足を運ぶようになった。
 夜が深まると弥生は、骨の色が透けてしまったような白い指に煙草の巻紙を挟む。その頃の彼女はもうすっかり愛煙家でした。学生の頃は絶対に吸わないと言っていた癖に、しかし妙に似合うその仕草に、サラリーマンの男が図々しく隣に座ってきたこともあったんですよ。そう、ナンパよナンパ。すぐに追っ払ってやったけど。
「麻美、あなた、また別れたの」
 弥生が呆れたように言った。しかし酒に酔った頬がわずかに楽しそうに見えて、私は一息にグラスに残った液体を飲み干す。お恥ずかしながら仕事の忙しさに追われて、付き合っていくらも経たない恋人と別れたばかりの頃だったんです。
「だって鬱陶しかったのよ。私のこと『自分がいなきゃ駄目なんだから』とか、かと思えば喧嘩になると『駄目なところがあるなら直すから』とか。上手くいかなくなるとどちらかに何かが欠けているんだっていう、その発想が嫌い」
「じゃあ自分は完璧だと?」
「そんな訳ないでしょ。でもわざわざ恋人の欠点を指さす必要ってある? そばにいてあげる、なんて結局自分が気持ちよくなって悦に入ってるだけじゃない」
 カウンターの奥に並べられたボトルが背後の照明に照らされて影を落とす。アルコールの透明な濁りで揺れた視界の端はうす甘くぼやけている。酢のキツいピクルスを口に放り込むと刺激に一瞬脳が焼けた。
「あなた、そういうとこあるわね」
「そういうとこって、なに」
「他人の幼さを許せないところ」
 一度言葉を切ってから、弥生が言う。
「良く言えば、意図的に努力して大人になったところね」
 その夜の彼女は妙に機嫌が良かった。先日久しぶりの休みに切ってきたという髪はいつも以上に短く、ショートカットと呼ぶのすらぎこちない長さだった。先程サラリーマン風の男が褒めた項が白く瞬いて、なにか見てはいけないものを見ているような気分になった。
「これ以上短くなるの」
「ならないわよ。悟りでも開くなら別だけど」
 クッ、と控えめに声を漏らし、弥生はグラスをぐっと傾けた。急勾配から落ちてくる氷が彼女の唇に触れる。襟足の髪が肌に沿って覆いかぶさる。弥生は髪を短くするほど端正になる女だった。
「開けばいいじゃない。あんた、男の趣味悪いし」
「ちょっと、これ以上飲むのやめなさい」
「そういえば弥生、この間の飲み会にも顔出してなかったよね。いつもそうなの?」
「は、あんなやつの誘いに乗る気が知れないわ」
 ほら水、と差し出されたグラスに口をつけると、一気に酔いを自覚した。酔っているな、と意識の切れ端で理解しながら、同時に彼女の言葉を拾っていた。それが白い靄の中をてんてんと弾む鞠のように、弾力を持って跳ね返ってくる。
 誰かと言い争うときの彼女の爛々とした目は、この人は本能的に他人とぶつかるのが好きなのだろうと思わせるほど活力に満ちていました。熱を上げるほど饒舌になるのも、まるで口論を楽しんでいるようだった。しかし自ら火種を作るような性格ではなく、嫌いなものは視界の隅にも入れないという徹底ぶりだったから、そのときの彼女の発言はどこか引っかかったんです。
 見るからに作り慣れた風の伊田の笑顔を思い出す。透明な球体のような、やけに空っぽな笑顔。仕事や人付き合いに疲れた中年のそれと違って、若い子の空洞は敬虔な信者のようだ。
 どれだけ太陽の照りつける日も、弥生は全身黒尽くめで現れた。暑いでしょうと顎だけで示すと、無言で頷く彼女の首筋に汗が滴り、ハイネックのサマーニットに吸い込まれる。その日は日陰すら熱気に暴かれてしまいそうな野外での撮影だった。
「そういえば前に、出張で行ったグアムで沈没した戦車を見たのよ」
と機材を触る手を止めずに弥生が言った。私は黙って続きの言葉を待っていたけど、蝉の鳴き声と遠くを行き交う自動車のクラクション以外なにも聞こえることはなかった。ちらりと彼女に目をやると、機材を触っていると思っていた弥生の目はモデルのしなりのある背中を捉えていた。
 彼女の考えていることなんてわかった試しがないけれど、彼女の無意識になら多少の覚えがあった私は、じっと黙り込んだ。外気の暑さとは違う、じくじくとした火種のような熱が腹の底から湧き出していた。
 異性にはわからない、同性同士だけが知っている姿ってあるじゃないですか。パッと見は物腰柔らかで素敵に見えても、妙に同性から評判が良くないっていうようなこと。そういう人と付き合うと、大抵は痛い目を見ると相場が決まっている。でも彼女が選ぶのはいつも、同性どころか女から見たってやめておけばいいのにって思うような、そういう男の人ばかりでした。傲慢とも言えるほど人付き合いを選り好みするくせに、弥生はいつもそう。見ているこちらのほうが苛立ってしまうんです。
 今にして思えば、彼女と私たちとでは人を愛する基準がまるで違ったのでしょうけど、そのときは到底理解も納得もできなかった。気を抜いたら、どうしてあんな男、と口を滑らせてしまいそうで、適当な理由をつけて私は弥生のそばを離れました。
 殺人的な灼熱の中でも撮影ははじまる。ぬるいペットボトルすら汗をかく中、伊田だけがどこ吹く風で、短い休憩のあいだも水すら飲まずに日陰で肌を休めるだけ。なにもせず突っ立っている私のほうがよっぽど汗だくだった。
 午後の早いうちに撮影が終わって、夕立が降り出す前に伊田への取材に移った。冷房の効いた室内に戻ってようやくペットボトルの水に口をつけた伊田があっけんらかんとして訊いた。
「話すのって、嘘でもいいんですか」
 端で待機していた私以上に、同僚が口を半開きにして唖然とする。
「金持ちは自分を金持ちだって言わないじゃないですか。それって、本当のことを言っても面白くないからだと思うんですよね。俺が毎日考えてることとか、やってることとか、知りたいって人もいるだろうけど、そんなの聞いたところでがっかりするだけですよ。だったらちょっとくらい脚色してでも面白いって思ってもらえるのがいいでしょう」
 ね、と同意を求める目が、なぜか私を見た。否定も肯定もせずにいると、伊田は空っぽの笑顔を浮かべながら、書くか書かないか迷うような話をペラペラと喋りはじめた。
 取材のあと、はじめて話したときぶりに伊田から飲みに誘われた。今度はふたりきりで、と言う伊田の均整のとれた肩口にまばたきが止まる。どうして、と疑問をぶつけるより先に、弥生は、と咄嗟に口にしていた。
 伊田は誰にでも魅力的に映る横顔で「俺、女の人は優しい方が好きなんだよね」と言った。その表情で、相手が私である必要はまるでないことがすぐにわかった。ビルの四階にあるスタジオの窓にはネオンの多い夜景が揺れている。容赦なく暮れていった夜に星は数えるほどもない。二十歳を超えた頃から、改まって空を見上げるのはいつもこんなときばかりだ。
 伊田の日焼けしていない首筋に、いつか中目黒のバーで見た弥生の白い項を思い出す。ろくに手入れもされていない真っ黒な髪の下で、産毛を薄く光らせた項。乳白色の細い指先。華奢な身体を貫くような声がわんわんと反響する。
 ことごとくひどい男ばかり好む弥生が選んだのは、またしてもこんな最低な男だった。売名のためなら伊田は相手が誰だって構わないのだ。それでも弥生のことを選びはしなかった。それが答えなんじゃないだろうか。
 もう男なんて好きになるのはやめなさい、と言ってやりたかった。頭ごなしに怒鳴りつけて、彼女が折れるまで何時間だって叫んでやりたかった。自分だけが信じられるものを持っている男は、それを簡単に壊してしまえそうなあんたを決して選びはしない。その項に噛みつけるような、そんな男はどこにもいやしないのだ。
 蒸し暑さの中を通り過ぎる夜気に頬を撫でられる。夏を越えたら、予定していた撮影のほとんどが終わっていた。
 次の日、別の仕事先から直接スタジオに顔を出すと、中のあまりの静寂に戸惑った。空調の回る音だけがやけにうるさく、時折聞こえてくる声は明らかな怒気を含んでいる。
 周囲が固唾を呑んで見守る渦中にいたのは、伊田と弥生のふたりだった。見るからに苛立っているのは明らかに伊田の方で、いつも機嫌良さそうに三日月形をしていた唇をひどく歪めている。
「僕はもうどうでも良いんです、そういうの」
 低く唸る声が響く。周囲を見やると困惑の色が強く、吐き捨てられた「そういうの」の正体がふたりの間にしか通用していないのだと気づく。
 弥生の口があざ笑うかのように開く。
「心中でもするつもり?」
「それも悪くないですね」
「は、くだらない」
 弥生の声は質量を持って叩きつけるように響いた。伊田の表情からひび割れる音すら聞こえてきそうなほど重い険悪が充満し、一気に膨れ上がる。しかし先に口を開いたのは弥生だった。
「そんなくだらないことに私を巻き込むな。与えられた役目があると自覚しているなら、最後まで責任を持って演じなさい。それが嫌なら、」
 言いかけたところで伊田が大きく舌打ちし、スタジオを出ていった。
 表の通用口を抜けるとき、扉のそばに立っていた私の手に彼の手が掠めた。熱に牙を向いた表情とは裏腹に、それは驚くほど冷たかった。夏でも冷え性の人はいるが、そういうのとは別の類の冷たさだと思った。努めて体温を上げないように生活しているみたいなストイックな匂い。明日を生き残れるのは身をかがめて門をくぐれた者だけという風通しの悪い世界だ。彼らも、生まれた時から汗をかかなかったわけではない。それなら伊田の妙に空っぽな笑顔だって、生来のものではないと不意に気付く。
 言葉を切った弥生を見やると、やるせなく細めた目をすっと閉じて、そのまま動かなくなった。
 その一度の諍い以来、撮影は滞りなく進んだ。伊田は少し不機嫌そうに現れたけど、カメラを前にすれば自然と空気が変わって彼を包み込む。まるで鎧だな、と思う。
 珍しく撮影が押した夜、仕事が終わってぼんやりし始めたスタジオに突然明かりが灯った。オレンジ色の光が筋になって四方へ影を落とす。白い部屋に生まれたシルエットは自ら動き出すみたいに生々しく、伊田の前へするすると身を寄せた。
 口々に掲げられる言葉と伊田の整った笑顔。安っぽいシャッターの音は誰かが携帯で写真を撮る音だった。「おめでとう」と言いながら誰かがレンズを向けると、ホールのケーキに刺さったロウソクに伊田が顔を寄せた。まだ若い顔つきの半分が暗く陰る。歳下らしい仕草と表情に強く安堵するのは誰への罪悪感なんだろうか。あたりを探しても弥生はどこにもいない。
 雰囲気を壊さないよう静かにスタジオの外に出ると、線香花火を散らしたような夜景が窓の向こうに広がっていた。陽炎のように揺れて見えるのは、風が出てきたせいだろうか。
 弥生は狭いロビーのソファに深く腰掛けて外を眺めていた。ぐったりしているかと思いきや目の淵がはっきりと鋭いのに、私はなぜか悔しくなってどかどかと彼女の隣に座った。
「あのとき、なんて言いかけたの」
 私の問いに傾げられた首筋は潔く空気にさらされている。あれからしばらく経つのに、不摂生のせいなのか彼女の髪は伸びるのが遅い。少しの間を置いてから弥生は「あぁ、」と声を漏らした。
「それが嫌なら、殺すつもりで抵抗しなさいって言おうと思ってた」
 スタジオと廊下とを隔てる壁に背中をつけると、彼を祝う歌が忍び込むように聞こえていた。私が「物騒ね」と言うと「世間の方がよっぽど物騒でしょうよ」と相変わらず不機嫌そうにした声が廊下を抜けて玄関のガラス戸を叩いた。
 茶色い革張りのソファに手のひらをつけると、皮膚にひやりとした冷たさが溶け込む。晩夏も終えて、季節はいつの間にか秋へと変わろうとしていた。隣に座る弥生が身じろぎをすると、形の良い後頭部に沿っていた髪がざらついた壁紙に引っかかって、またさらさらと零れた。
 なぜ写真なのか、と聞いたことがある。あれは大学を卒業する間近のことだった。
 穴の空いたパーテーションから手際よくアクリルパネルを外していく彼女を、少し離れた場所から見ていた。弥生の影響で時々足を運ぶようになったレンタルギャラリーは、天井から下がるスポットライトの明暗がやけにはっきりしている。
 共同でギャラリーを借りた知人たちと折り合いが悪いことは以前から聞いていた。それがどうして彼女の作品だけを早朝の回廊から取り外さなければいけなくなったのか私にはわからなかったけれど、手を貸して頂戴という弥生の連絡にふたつ返事で了承した。
 努めてどうでもいい雑談を交わす合間、長いこと疑問に思っていたことを彼女に尋ねた。それまでは気楽に聞くのも野暮な気がして、もしくは察することのできない自分が馬鹿に思えて聞けなかった。なぜ写真なのか、人の何倍も記憶力のいい彼女がどうして物を残す気になったのか。
「あなたは勘違いしている。記憶力がいいことと、再現性に長けていることはまったく別の事柄なのよ。例えば誰かと同じ場所へ出掛けていったって、まったく同じことを覚えているわけではないように、経験を共有した者同士でも話が食い違うことなんてことは頻繁に起こるし、ましてや口で『あのとき彼はとても悲しそうだった』と言葉で説明しても他人の記憶はそう簡単に蘇らない。私だけが知っているということが私には大きな意味を持つけど、他人にとってはそれは掃いて捨てるほどの価値もないから。だから、撮るのよ」
「それって、要は覚えの悪い馬鹿どもに見せつけるためってこと?」
 身も蓋もない、と言いながら弥生は積み重なったパネルの中から一枚取り出し、私の方へと放った。家に置ききれないからあげるわ、と言って寄越したのは、私が彼女の写真の中で一番美しいと思った冬の早朝の写真だった。
 彼女の声が身体の中を駆け抜けていく。壁一枚を隔てた賑やかさを気遣って潜めた声は、今にも震え出しそうだと思ったけれど、それはきっと私の都合良く解釈したに過ぎない。わかっているのに、胸が詰まる。
 弥生を挟んで反対側のソファの上に、彼女がいつも持ち歩いている革の手帳が無造作に投げてあった。今夜、どんな言葉があの中に綴られるのだろう。どうして誰も彼女を理解しないのだろう。星が強く明滅する。やるせなくて、私は固く目をつむった。

 それからのことはあまり詳細に言えませんけど、私達のやっていたことは世に出ることなく終わりました。メインモデルに不祥事があって駄目になったんです。いつの時代もそうなんでしょうけど、良いものよりも悪いものの方が手が届きやすい頃合いがあるんですよね。同情は、できませんけど」
 強い風に吹かれて沖田さんの言葉が途切れた。
 何年か前に、芸能界での大規模な薬物所持の摘発があった。特に若者を中心に当時人気を博していた名前がいくつも出てきて戸惑ったのを覚えている。怒り以上に、自分よりも若い世代の子が、と切ない気持ちがふつふつと湧いた。彼女が言ったように、安易に同情していいことではないけれど。
「そのことに対して弥生はなにも言わなかった。彼女らしいとは思うけど、私はそれが寂しかった」
 沖田さんの目線が空に垂れ下がった紫色をなぞる。昼下がりだったのが、いつの間にか夕方のほうに近くなっていた。
 僕は黙った。なにを言うべきかと頭の中を探りたい衝動と、なにも言うべきでないという気持ちが同時に起こったためだった。やはり僕なんかが聞いてよかったのだろうかというところへ着地したところで、古渡さんがふっと微笑んで言った。
「そういえば私達、一度も弥生のお見舞いに行かなかったわね」
 その声に呼応するように沖田さんもパッと口角を上げる。
「そうそう。十年以上も友達やってたのに、薄情よね」
「でも行ったら行ったで、あなたたちも暇ね、なんて悪態ついたかもしれないわね」
「『私の決めたことに文句つけるつもり?』ってね。それじゃあ心配して来たこっちが馬鹿みたいじゃない。そういう女よ、弥生は」
 交わされた会話のあとを飾るように、黄色い西陽が木々の間から差し込む。弦で覆われた東屋の中はほの暗く、逆光に翳った女性たちの横顔が夜との境目のようだった。真珠のネックレスだけが発光したように白い。
「貴重なお時間を頂いてしまってすみません。でも聞いてくださって、ありがとうございました」
 沖田さんが喪服に折り目正しいお辞儀をする。遠くのほうでクビキリギスの鳴く声がかすかに聞こえた。こちらこそ不躾に、と頭を下げると、沖田さんは柔らかく笑って言った。
「いいえ、本当に感謝しているんです。聞いてくれる人がいてはじめて、できる話もありますから」
 ふたりと別れたあと、僕はもと来た道の途中に喫煙所を見つけて一本だけ煙草に火をつけた。不思議と煙草の苦味と余韻が薄くて、結局すぐに火を消して帰路についた。

 沖田さんたちと話をしたあとで、比較的顔の広い知人の何人かに赤塚弥生を知っているかと尋ねた。名前くらいは、という人がほとんどだったが、不思議と彼女にまつわる噂話はするすると舌を滑り出た。典型的な天才肌だと言う人もいれば、病的な神経質で、いつもなにかに怯えるように黒革の手帳を抱えていたと話す人もいて、聞けば聞くほど自分の中に他人の感情があるみたいに動揺していた。これほどなにかに感情移入することはなかったのに、と驚きながらその後も尋ねて回っていると、やがて彼女に会ったことがあるという人に行き当たった。僕が彼女について教えてくれないかと言うと、彼は得意げに彼女の最期の話をはじめた。病院のベッドの上、唯一の肉親であるものの長年不仲だった姉に手を握られて亡くなったと言ったのは、ゴシップを専門にする年配のライターだった。その人に「あんたも知り合いなのか」と聞かれたが、僕はすぐに首を振った。
 しばらくして、沖田さんの勤めている会社と連絡を取り合うことがあった。応対してくれた男性に彼女のことを聞くと、結婚と同時に別の部署へ移動したと言った。もう打ち合わせで顔を合わせることもない。


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