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He’s Just a Friend

「友達を取られた」中学の同級生からそう言われたことがあった。
面と向かって言われたわけではない。しかも、それを聞いたのは高校に入ってからで、別の同級生から「K(友達の名前)を取られたって言ってたよ」と人づてに聞いたのだった。

「取られた……?」意味がよくわからなかった。直接聞いたわけではないからニュアンスはわからないが、「取られた」というよりは「盗られた」とでも言いたげな言葉のトゲに、思い当たるふしもなくただモヤモヤするばかりだった。

確かにKは中学のとき親しくした友人ではあったが、他の同級生と同様に友達として普通に接していただけだった。友達になるのに人数制限があるわけでもないし、誰かと友達になるには他の誰かと友達をやめなければいけないわけでもない。友達なんて独占して所有するようなものではなく、ただの関係性を表す言葉だと思っていたし、自分の中学時代も特定の人とだけ深く付き合っていたつもりもなかったから、自分ではなく他の誰かと間違えているとか、なにか勘違いでもしているんじゃないかとも思っていた。

それにしても、「友達」というのはわりと曖昧な言葉ではある。気軽に使えそうな言葉ではあるけれど、実際に「友達」と呼べる人となるとその数はさほど多くはない。「友達」と呼ぶ照れくささのようなものもあるからか、「知人」とか「知り合い」と呼んでしまうことの方が多い気もする。同じように「友達」を意味する言葉でも、英語の「Friend」は年齢が離れていてもある程度親しければ誰にでも使えるのに対し、「友達」というのは同年代のごく親しい友人のみに限定され、使用できる範囲が圧倒的に狭いようにも思う。

そんなふうに考えると、彼が言っていた「友達を取られた」というときの「友達」とは、親友のポジションのことなんだろうなと何となく想像はつく。確かに親友ともなれば更に範囲は限定されるし、人数の制限だってあるのかもしれない。

中学入学当初、座席は出席番号順になっていたから、最初に仲良くなっていくのは話が合うとか性格云々とかはあまり関係なく、席が近く話す機会も多いからというのが仲良くなる単純な理由でもあった。自分はKと座席が離れていたから初めはそれほど話すこともなく、彼は自分の方が先に仲良くなったのにという気持ちから「友達を取られた」と言ったのかもしれなかった。

人の心はどうしたって移り変わっていくものだし、友達という関係性もまた変わっていく。
学校での活動範囲が広くなれば、出席番号が近い者同士だけであった関係も次第に行動をともにするのは趣味や話の合う友達になっていくし、部活に参加するようになれば、多くの時間をともに過ごすのは部活の友達だったりもする。

自分もKも、「Kを取られた」と言った友人もそれぞれ違う部活だったから、よく一緒に遊ぶのは部活の友達が中心だった。それでも、授業の合間の休み時間等によく話すようになったのは、漫画にしてもゲームにしても話が合うKだった。お互いの家に行って遊ぶようなことはなかったけれど、本の貸し借りをしたり何でも話せる関係ではあった。

ただ、今でもなぜなのかよくわからないが、自分が風邪を引いて学校を休んだ日、Kは給食のカチカチのパンと連絡事項が印刷されたプリントとともに、頼んでもいない『AKIRA』のアニメ映画のビデオを貸してくれた。確かに頭がクラクラするほどの圧倒的な世界観、緻密な作画に驚きはしたが、なぜこれを病人に見せようと思ったのか? という根本的な疑問だけは残った。

たぶん、自分ではそうは思っていなかったけれど、他の人から見れば自分はKの親友のポジションに収まっているように見えたのだろう。

高校を卒業してから数年後、中学の同窓会での集まりがあったとき、「友達を取られた」ことの真相についてよっぽど聞いてみようかとも思ったが、彼はそんな素振りをまるで見せなかったから(といっても、「友達を取られた」ことを気にする素振りがどんなものなのか知らないが)、そのことについては聞けずじまいだった。みんな昔の話より今どうしているか、近況を報告するばかりだったし、過去のことにこだわっているのはむしろ自分の方じゃないかという気もして、そんな話は一切できなかった。

学生の頃の記憶は、たいして意味を持たないような些細なものであっても良い思い出に変えてしまう力がある。もちろんイヤな記憶はイヤなままではあるけれど、それでも尖った部分の角が丸くなっていくような感覚になるのは、青春というものが二度とは体験できないものであると気づくからなのだろうか。

人生のわりと早い段階に青春時代が訪れるのは、人生における最大のバグではないかと思ったりもする。人生の何たるかを知らず、青春の価値も知らないまま無邪気に青春時代を送り、その本当の価値や輝きに気づくのはずっと後になってからというのが何とももどかしい。

当時はただの友達だと思っていたKも、自分にとってただの友達ではなかったのではないか。心を許せて何でも話せる友達、それを人は親友と呼ぶのではないだろうかと今になって思う。

友達がいつまで友達なのか、友達と親友の境目はどこからなのか、いまだにわからないし、連絡先も交換しておらず、学校を卒業すれば連絡も途絶えてしまう親友というものがあって良いのかもわからない。
ただ、ひとつだけ言えることがあるとすれば、もしどこかでばったりKと出会うことがあれば、まだ友達のままいつでもあの頃の続きから始められそうな、そんな気はしている。

トッド・ラングレンの『Can We Still Be Friends』を聴いていて、中学のときのKのこと、「友達を取られた」と言われたことを何となく思い出していた。



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