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連載イチロー部屋のイッピン82. 鈴木一朗の写真

ユニフォームが“SUZUKI 51”。

サインは2009年10月7日

オリックス・ブルーウェーブの二軍打撃コーチとなった河村健一郎は、‘92年1月の自主トレで、まだ高校生だった鈴木一朗の「木のバットのしなりを利用して、ヘッドが遅れぎみに入ってきてボールをとらえる」スイングを、初めて目にして鳥肌がたったという。そして、鈴木一朗の研ぎ澄まされた反射神経を鈍らせないために300打席以上が必要だと、根来広光二軍監督に一番バッターに固定するように進言する。

鈴木一朗には、「セカンドの頭より左に打て」「(ボール)を線で引っ張ってきて、面でとらえる」「インハイは見逃せ、三振でもいい」などをシンプルな言葉で教えた。

‘93年7月5日。鈴木一朗は、一軍の打撃フォーム改善指令を拒絶して二軍落ちする。時間ができた河村打撃コーチは、長所をさらに伸ばすために「もっと大きく、ゆっくりタイミングをとってみよう」ということで、もう一つ小さな動きを加える。そして生まれていたのが“振り子打法”だったという。

“振り子打法”のベースボールカード


‘94年に新しく監督になった仰木彬は、「鈴木一朗は、球界の代表するスターになる」と確信し、登録名を「イチロー」に変えた。

イチローは、二人との出会いを「運が良かった」語っている。

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