「旅する家」とはなにか? 5

5 アートプロジェクトに至る美術史 1近代以前〜2近代

「西洋美術史」について、まず今回は世界大戦が始まるまでの時代の流れを、ざっくりと紹介しましょう。以前も述べたように、革命が起こる近代までの「芸術」は、その文明や社会の中で一番大きな力を持ったシステムに、活用されるためのツールになっていました。

美術の始まりは洞窟壁画と呼ばれていますが、ラスコーなどの壁画がなど有名で、歴史の教科書にも出てきたりしますね。この頃もちろん「芸術」なんて概念はないですから、あとからそう分類したにすぎませんが、この頃の「芸術」は、狩猟がうまくいくように、また子供が元気に生まれるようにと、動物や人間の身体をモチーフにした「表現」などがあり、自分たちの力だけではどうにもならない自然への祈りや、呪い(まじない)の意味で行われていました。

その後文明が生まれると、「うちの王様はこんな風に戦争で勝ったぞ!」「こっちの王様は神様と交流があるんだぜ!」などというような、 権力者の偉大さを表すために「芸術」が使われるようになりました。

さらに宗教が力を持つとその布教のために使われるようになり、特に大きな力を持ったキリスト教を広めるための「芸術」が、たくさん作られました。文字がわからない人のために、神様の物語や世界観を伝えるには、絵画や建造物(教会)などの「表現」が非常に役に立ちました。

そして、絶対王政が始まると王族、彼らが没落すると貴族を楽しませるために作品が作られます。王族には歴史の風景や神話のようなドラマチックな作品、貴族には優雅な生活を描いたオシャレでロマンティックな作品がウケがよく、作品の依頼者である彼らの要望にあった作品を、おかかえの芸術家が作るようになっていきました。

このように18世紀に市民革命が起こるまでは、美術はその文化や社会の中で最も力を持っていたシステムに活用されるために使われており、芸術家が自由に表現するという事はなかなかありませんでした。

そこで市民革命が起こり、階級や宗教にとらわれない「個人」という概念が西洋で生まれました。さらに産業革命が起こり、合理主義、進歩主義に伴う影響で、世の中の事を合理的にどんどん進歩させて行けば、きっと理想的な社会になるという価値観が広がったこともあり、芸術家たちは自分個人の価値観に基づいて、様々な手法で発展的な新しい表現を生み出そうとしました。

これまでのように王侯貴族の要望に合わせたセレブな暮らしや神話を描くのではなく、一般人の目の前にある現実をありのまま表そうとした「写実主義」がまず生まれます。ミレーの「落穂拾い」なんかが有名ですが、このような何の変哲もない日々の生活を題材に、ありのままを書くというのはこれまでにない切り口でした。

しかし、カメラの出現によってそのような写実絵画の存在が危うくなります。なにせ写真は、本当に現実をそのまま写してしまうので、写実的な絵を描く意味がここで薄れてきます。

そこで、では絵にしかできないことはなんだろうか?という、芸術家たちの探求が始まり、目の前のものをそのまま描くのがリアルなのではなく、表現者の心に映ったものこそがリアルな表現だと、写実にとらわれず作者の主観的な表現を打ち出したモネなどの「印象派」が生まれました。彼らの絵は、形や色をモチーフそのままに描くのではなく、自分が感じた姿に近づけて書くことに重点を置きました。

それぞれの芸術家が自由な主観で描くスタイルが誕生した影響は大きく、現実の色彩にとらわれなず、もっともっと自由な色合いでの表現を試みたマティスなどの「フォービズム(野獣派)」や、同じように形態も既存の概念にから逸脱しようとしたピカソらの「キュビズム」が次々に生まれます。そして色と形を写生から解き放ったその2つの流れは、表現者の内面にある色彩と形態を直接表す「抽象芸術」を生みだし、目の前の世界にとらわれず、自分たちの心の中にある、色や形をどうしたらできるだけ新鮮に、そのままに表せるのかということが重要になっていきます。

このように、階級制度から解き放たれ、個人となった表現者たちが、近代的合理主義精神に基づき、主観、色彩、形態など絵画画面の視覚的な要素を発展させて行ったのがこの時代=「近代美術」の特徴です。


参考リンク

落穂ひろい

印象派

マティス



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