「旅する家」とは何か? 6

6 アートプロジェクトに至る美術史について 3現代

市民革命からの、合理的で進歩的な「芸術」の発展は、、ここで大戦という大きな転機を迎えます。それぞれの社会が理想を目指し、合理的に進歩していった先に行き着いたのは、皮肉にも戦争でした。悲惨な世界大戦が世界を覆うことで、近代を牽引してきた合理主義や進歩主義に陰りがさしてきました。そこで、芸術の世界でも今までの価値感に疑問を投げかけ、近代を乗り越えるための芸術が生まれ始めます。

そもそも芸術とは何か?何が芸術なのか?ちゃぶ台返しのように、今までの芸術の規範をひっくり返し、破壊的な否定と問いかけを行う「ダダイズム」が生まれました。有名なのは、マルセル・デュシャンの「泉」という、男性用小便器にサインをいれただけの作品で、これは出品自由な展覧会に出されたものですが、美術の世界に大きなスキャンダルを巻き起こしました。

「自分で何かを作るのではなく、既製品をそのまま使っているから、これは作品じゃない!」「いや、どの便器にしようか選んだり、サインがしてあって手が入ってるじゃないか!」「いや、その程度じゃダメだ!」「じゃあどこまでが『作る』なの?」など、様々な議論が巻き起こったことでしょう。

展覧会=芸術の枠組みに入ってしまえば、どんなものでも芸術であり得るのか?という、作者の問いかけがそこにあり、作品それ自体が美しいという観点ではなく(多分そこも意識してあえて便器というモチーフ)、この作品がこの時代、この場所にある意味によって起こる、これまでの常識への見事なカウンターパンチを近代美術に打ち込んだのでした。

また、作者が意図や意味を持って表現することを否定して、ランダムな事象の出会いや、無意識や不条理な世界を、現実を超える現実=超現実として、表現を見出そうとした「シュルレアリスム(超現実主義)」も生まれます。ダリなどが有名ですね。

人間が考えて世の中をよくしようとした結果が戦争であるなら、いっそ考えの及ばない、偶然や無意識の事柄に興味を向けたほうが面白いのでは?と、白昼夢のような現実ではあり得ない世界をモチーフにした作品や、適当に切った紙を適当に組み合わせて作品化するコラージュ、何も考えずに即興的に作品を生み出す方法などが編み出されます。この流れは、この時代に心理学が新しい学問として台頭してきたことも関係しています。

(ちなみに、ウルトラ怪獣のダダはこのダダイズムに由来しています。また、るシュルレアリスムの詩人であるブルトンも、同じく怪獣の名前になっています。これは怪獣を造型した成田亨さんが、この時代の運動に深く関わりをもっているからで、もしかしたら時代を破壊して問い直すこれらの運動のエネルギーに怪獣的なパワーを感じていたのかもしれません。)

さらに、王侯貴族の時代から離れたとはいえ、まだまだ高尚であった芸術を、あえて大量消費社会の大衆文化と融合させて、その地位の転換を行おうという「ポップアート」が生まれます。アンディーウォーホールの「キャンベルスープ」や、「マリリンモンロー」「バナナ」の版画作品なんかは、Tシャツの柄になっているほどなので、皆さんもどこかで見たことがあるのではないでしょうか。

テレビ放送、タレント、スーパーマーケットなどのモチーフという、モチーフを「芸術」に持ち込んで、今まで文化人やセレブだけが楽しむものを、普通の人も楽しめるようにしちゃえ!というのがこの「ポップアート」で、この時代の「芸術」の中では、他に比べて見ただけで楽しい!オシャレ!とわかりやすいので、先ほどのTシャツのように図像として使われて、一般的に広く流通したりしています。もちろん「芸術」としての価値も高く、もとの版画自体の値段は数千万単位の値がつきます。その落差自体が、「ポップアート」の作家たちが生み出したかった価値転換なのです。

世界大戦、そして近代への反省や反動が起こるとともに、再び様々な芸術運動が生まれ、これまでの「近代美術」に対して「現代美術」と呼ばれるようになります。近代の常識や価値観を覆すのが大きな目的なので、「現代美術」では物質的、視覚的な手法や技術よりも、構造的、意味的な価値転換が、表現の中で需要な位置を占めるようになります。

要するに、表現として目に見える物よりも、そこにどんな「意図」や「意味」があるのかということが、「芸術」として重要視されるようになってきたのです。それがさらに突き詰められて生まれたのが「コンセプチュアルアート(概念芸術)」と呼ばれる、概念自体を作品とする美術です。作品の色彩や形態、またはそもそも作品が物質であることを大きな問題とせずに、ある運動自体、またはその目的や意味、そこに至る過程すら作品としてしまうのがこの「コンセプチュアルアート」です。

「コンセプチュアルアート」の例を一つあげるなら、ジョセフコスースの「1つの、そして3つの椅子」という作品があります。これは、1:木製の折りたたみ椅子、2:その椅子を実物大の写真にしたもの、3:辞書の「椅子」という項目の記述、という3つの要素が並べて展示された作品です。この作品では、実物の椅子(実体)、その写真(イメージ)、そして椅子を定義する物(言語)の3つを観客に提示することで、あなたは「椅子」という概念をどうやって認知していますか?ということを問いかけています。「椅子」が「椅子」であるためには、椅子らしい形が重要なのでしょうか?それとも座ることができるという機能が重要でしょうか?はたまた、辞書に書いてあるような椅子としての定義が重要なのでしょうか?この作品では、椅子の美しさではなく、観客に物の捉え方について意識させること自体が目的となっているのです。

こうなってくると、「〜とはなんぞや?」という、ちょっと謎かけや、とんち、禅問答のようですね。物自体の美しさのような、直接的な感情、感動をもたらすものではなく、ある考え方の「公式」のような物を、「表現」として見せるのが「コンセプチャルアート」です。

ジョンレノンの奥さんのオノヨーコさんも、このような作品で有名で、彼女に至っては物ではなく「言葉」で作品を作ることも多いです。ベトナム戦争のころに、「War is over (If you want)」(戦争は終わる あなたが望むなら)という言葉をポスター看板などにして、様々な場所に掲示し、言葉が想像させる世界と、それが現実になる願い自体を作品にしました。


参考リンク

デュシャン

シュールレアリスム

ウォーホール

一つ、そして3つの椅子





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