「旅する家」とは何か3

3 アートプロジェクトとは? 

「旅する家」が「芸術」と見なされ、「美術史」の中で分類されるならば、「アートプロジェクト」という分野に入るでしょう。

「アートプロジェクト」とは、特に最近日本各地でやたらと行われている活動ですが、ものすごくざっくり言えば「実際の社会の中でどうやって芸術が行えるか?」ということを試す活動のことです。

長い間、芸術は「美術館やギャラリーなどの限られた場所で/芸術家が作った作品を/ある程度裕福で教養のある人が見る」というような、限られた世界の中で楽しまれていたところがあるのですが、それを「いろんな場所で/様々な人が関わった表現を/多様な鑑賞者が楽しむ」という物に変化させているのが「アートプロジェクト」という試みです。

「ヒタチオオタ・アーティスト・イン・レジデンス」や、「ヒタチオオタ芸術会議」、来年始まる「茨城県北芸術祭」も、「アートプロジェクト」の一端です。日本の「アートプロジェクト」の特徴は、「芸術」を通して、地域や社会、またそこに住む人々が持っている力を、「表現」としてどうやって引き出すかという事が目的になる傾向が強い事です。(ここでも、地域の潜在能力を引き出すために「眼差しの表現」的な手法が多く使われる事があります。)

「アートプロジェクト」には、「旅する家」の様に、アーティストや地域の個人が中心となる、数人、数十人単位の小さなものから、地方自治体が絡んで、何百何千人が、地域一帯で関わる大掛かりなものまで様々な形態があります。

また、小さな「アートプロジェクト」をある地域に点在させて、展覧会のようにまとめてみせる枠組みを作る事自体も「アートプロジェクト」と言います。参加している作家それぞれが小中規模の「アートプロジェクト」を行っていて、さらにそれぞれの活動を総括してみせる「ヒタチオオタ・アーティスト・イン・レジデンス」や「茨城県北芸術祭」もこういったかたちですね。

ちょっとややこしいので、アーティストなどが起こす単一の「アートプロジェクト」を「小さなアートプロジェクト」、「複数の『小さなアートプロジェクト』を同時多発的に地域に起こす事で、地域全体に芸術の刺激を波及させるプロジェクト」を「大きなアートプロジェクト」とでも名付けて区別しておきましょう。

例えば、僕が今住んでいる茨城県取手市には、日本のアートプロジェクトの中でも屈指の歴史を持つ、(と言っても15年ほどですが)「取手アートプロジェクト」という「大きなアートプロジェクト」があります。初期の形態からはだいぶ様変わりしましたが、最近では団地をテーマに、数人のアーティストを呼んで各自が「小さなアートプロジェクト」を行っています。

そこで行われている「小さなアートプロジェクト」の例としては、団地の一室を架空のホテルに仕立て上げ、住人が有志でホテルマンとなって、お客様をおもてなしする北澤潤さんの「サンセルフホテル」。鼻笛が吹けるとか、関節技に詳しいとか、割と些細な住人の「得意な事」を貯金のように預けて、誰もがその貯金した得意=「ちょとく」を引き出せるという、深澤孝史さんの「とくいの銀行」などがあって、時代とともにその存在価値が変容してきた、「団地」ならではの人のつながり、住み方をみんなで考え、あたらしいあり方を表現するようなプロジェクトがあります。

「団地をもう一度考える」という大枠のテーマを設定し、市などの協力を経て、各アーティストにそれぞれの「小さなアートプロジェクト」を行ってもらうというのが、「取手アートプロジェクト」の「大きなアートプロジェクト」です。(やっぱりややこしいですね・・・)

このような「アートプロジェクト」の目的は、「社会の中で芸術に何ができるのか?」を試すことなので、必ずしも万人にとって心地よいことばかりを起こすためにあるのではありません。「こんな社会で本当に大丈夫?」と疑問を投げかけたり、「こんな社会ダメだよ!」と批判するような活動も中にはありますが、日本ではそのようなアプローチが、正面を切って行われるのはあまり好まれないのが実情のようです。

さて、なぜこのような活動が生まれたのか、それを説明するには、先ほどからちらほら話に出てきている「美術史」を紐解かねばなりません。

ただ、次回から話す美術史は、あくまで「アートプロジェクト」へのつながりを説明するためだけに書いたもので、かなり無理やりな解釈と省略で書かれているのでご注意ください。


参照リンク

ヒタチオオタ・アーティスト・イン・レジデンス

ヒタチオオタ芸術会議

茨城県北芸術祭

取手アートプロジェクト

サンセルフホテル

とくいの銀行


追記 質問があったので、想像する範囲で答えたいと思います。
Q:大きなアートプロジェクトは「地域起こし」と言う枠に取り込まれがちですが、佐藤さんはどう考えますか?芸術家は地域を起こそうと思って活動している訳ではないと思いますが。(結果的にそうなる場合もありますが)

A:実は質問者さんの問いかけの中で、もうほとんど答えが出ているのですが・・・確かに「大きなアートプロジェクト」は「地域おこし」という題目をそのプロジェクト自体も摂りがちで、受け取る側もそういう物だと思い込んでいるのが普通になっていると思います。

「地域おこし」、「地域活性化」、「地域復興」などの言葉に込められた意味は、要はそのプロジェクトが、「社会の利益になる行いを目的にしているか?」という事だと思います。少子高齢化、人口減少、経済の疲弊など、もって迫った問題の解決策を、「芸術」という方法でどのように講じているのか?というのが、社会の期待するところじゃないかなと思っています。

これは、西洋のように「社会が個人のためにある」のではなく、「個人は社会のために存在する」という、日本的な社会のあり方に根ざした視線で、環境に育まれて生きてきた、農耕民族だった我々からするとごく自然な考え方なのだと思います。

ただ、前にも述べたように、「アートプロジェクト」はその規模に関わらず、「社会で芸術がどのように実行できるのか?」という事を試す行いであるので、根本的に、それが社会の利益につながるかは関係なく、「美術史」から見て新しい動きになりそうだったから、「芸術」を社会に出してみた。という試みでしかありません。

もちろん1で述べたように、「芸術」の元である「表現」には、環境への眼差しが大切であり、「アートプロジェクト」を行う上で、上記のような、地域の現状や問題も「表現」の要素の一つとして捉えることは重要です。しかし、そのような諸問題を「解決」するのが、「アートプロジェクト」の本質的な役割ではなく、地域の構成要素として諸問題も踏まえた上で、その場に適した「表現」とは何か?を試す事が重要なのです。

ただ、いろいろなやり方があるので、中にはそのような諸問題が非常に魅力的で、ぜひテーマにしたいというプロジェクトもあったりします。そんなプロジェクトの役割もやはり問題の「解決」ではなく、「こんな見えにくい問題が実はあるよ!」という眼差しによる「発見」を「表現」したり、そこから発展して、「その解決を探るための発想を、一緒に膨らませましょう!」という、解決を探るためのイメージの広げ方を、「表現」することが、「アートプロジェクト」のできる事なのだと思います。(逆に本当に解決を目指すとなると、それはソーシャルデザインや、コミュニティーデザインなどの他の分野になってしまうように思います。)

そして、質問者さんのいう通り、その試みがたまたま実を結んだ場合、例えばプロジェクトの行った「発見」や「表現」により、地域の人々の問題意識が上がったり、他の分野の専門家などが触発される事によって、問題が解消できた場合、結果的に社会問題が「芸術」によって「解決」できた。と解釈されます。が、そのようなケースは、社会の期待する数よりも相当少ないとは思います。

「アートプロジェクト」の根本は、芸術の社会実験が目的であり、社会問題を解決する事がその役割ではない。と言い切りたいのですが、ただ、日本では、前述したように「人々は社会に奉仕する事が当たり前」という思いがどうしても前提として心にあるので、「大きなアートプロジェクト」を円滑に進める事を考えた時に、表面的には、そのような社会奉仕的なアプローチに見えないと、参加や資金面などの協力が得にくいという問題が出てきます。

プロジェクトを行う側としても、形や価値がまだ社会にない物を生み出そうとしているので、まずは実施して実物を見てもらわないと伝わらないということが大きくあり、とにかく実行して、いろんな方と話ができる機会やそのための前例をつくり、そこから時間をかけて互いの誤解をほぐしていこうという姿勢が多分にあると思います。(「旅する家」のこの文章もまさにその過程にあると言えますね。)ただ、その試みもそうそううまくいかない事も多く、とにかく実施するために、妥協的に用いた表面上の社会奉仕的なアプローチが払拭できず、のちのちかえってお互いの理解を遠ざけてしまう事もあると思います。

現在の日本の「アートプロジェクト」=「地域おこし」という捉えられ方は、この国でプロジェクトが始まった時代から、このような最初のアプローチの仕方が続いている事に原因があり、またひいてはやはり「芸術」って一体なんなのかという事を、全く伝えずにここまで発展してしまった、この国と「芸術」の付き合い方そのものに関わってくる問題だと思います。

はっきり言って「アートプロジェクト」にはお金も人も時間もかかり、そうそう便利に使える社会のツールではありません。むしろ、実行の段階ではまだ価値がわからない事へ向かって行くので、先見性がある物ほど、社会にとって意味不明で無用の長物になりかねません。しかし、僕自身は手前勝手ではありますが、そのような無用の長物を許容でき、訳のわからない物事に居場所のある社会こそが、本当に豊かな社会であると思っているので、こうやって機会を作ってその思いを伝えるために、プロジェクトを続けているのだと思います。

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