「旅する家」とは何か? 11

11 「旅する家」が出来るまで

ここからは、「旅する家」の進行過程に合わせて、さらに詳しく話していきたいと思います。

今年の春、くじらぐもさんの依頼で、常陸太田で2回目の物語作りのパフォーマンスを行った時に、塩原さんから「何か一緒に面白い事が出来ないか」という、お誘いを受けました。前年に一度この地に入って、その雰囲気や集まる人に興味を持っていた私は快諾し、さて何をやっていこうかと考え始めました。

実はその依頼があった前夜、林さんの紹介で菊池政也さんに出会っていて、ここでも「一緒に何かしよう」という話が盛り上がっていました。そんな流れがあって、大工さんと一緒にできるのであれば、「家」を作ってみたいというイメージがまず沸いてきました。

ここでの「家」のイメージは、参加者の拠点や、活動のシンボルとしての意味、また、来客を招くもてなしの場であったりという部分と、もう一つ、この地域がもっている歴史や文化とリンクする窓口になるのではという思いもありました。

「表現」のプロセスは、まず周りにある世界からその種を発見するところから始まると、何度も書いてきましたが、常陸太田でプロジェクトを行うならば、この土地の暮らしをよく知るための環境が必要になります。「家」はまさしくその生活の場であり、このモチーフを中心に活動を行う事により、活動の中で、「昔はねこんな暮らしがあった・・・」「そういえば、あの行事しばらくしてないね・・・」などと、自然に常陸太田の暮らしを知ったり、教えてもらったりできるのではと考えました。

しかし、一方このようなプロジェクトでは、上記のような「家」が象徴する、内輪の深いつながりももちろん大切ですが、それが内側だけに止まってしまうと、そこで学んだ知識や創出した表現を、自分たちだけが楽しむだけになり、他の人が輪に入りにくくなるという障害が出てきます。

そのため、さらにプロジェクトを外へ拡張してゆく概念としての「旅」を取り入れ、「旅する家」というテーマが生まれました。「家」と「旅」という、相反する言葉がタイトルに組み込まれている理由は、参加者の関係や、考えを深めてゆくことと、プロジェクトを外部とつなぎ、出会うこと、伝えること、招くことなどの他者を意識する事の、両面が重要である事を表しています。

タイトルの通り、「家」を作って「旅」をする。本当ににざっくりとした大枠だけを決め、どんな事を行うのかという部分は、参加する人と一緒に考えようという事で、7月に初回の会議が開かれました。都合により午前午後の2回に分かれての会議でしたが、前半の会議で「何かを祝う家」というキーワードが生み出され、後半の会議では、食事などで来客をもてなす案などがでました。

この「祝うための家」というのは、その後「旅する家」の重要なテーマになっていきますが、それは「祝う」という行いに、「祝う側」「祝われる側」という双方のふるまいが予期されたからです。祝う側が勝手に祝うだけでは良いものにならず、祝福を受ける相手にも受容体制が要求されます。互いに他者を意識しなければ成立しないその行いが、プロジェクトを外部へ接続するための、良い緊張感や、きっかけを生むのではという予感がありました。

その後、8月の会議では、家の形態についての案を募り、2階建てである事や、衛星的な小さな家を建てることなどが見えてきました。また、かなり多様な案がたくさん出てきた事もあって、様々なアイデアを用途に応じて家に組み込めるように、基本的には天井、床、柱だけの構造に設計し、他の部分はその都度作って補うようなイメージができました。そして、いつからか、「上棟式」「餅まき」が会議で声に上がるようになり、ひとまず11月のココイクメッセで、その2つの行いをする事で、今年の着地点とする流れが見えてきました。

「上棟式」を着地点に設定したのは、現在の常陸太田の日常と微妙な断絶があって、参加した事のある人ない人の、世代間のやりとりが期待された事と、これまで述べてきたような「表現」を行う上で、しっかりとした歴史や形式がある事をベースに持ってきた方が、行いやすいという意図がありました。

活動の趣旨として3「みたことのないことを生み出す」と述べましたが、ここで「みたことのないこと」が意味しているのは、ただ奇抜なことやインパクトが強い事ではありません。あるモチーフを見出し、その背景をよく知った上で、自分たちならばどうやってそれを行うのかを考え、実行する。その上書きの過程が「表現」になり、「みたことのないこと」につながってゆきます。

今回、ココイクメッセでの行いを、直前で「上棟式」ではなく、「完成式」であるとしたのも、ここに関連します。この転換の一番の理由は、本来の上棟式に即すならば、天井に上るのは男性に限られるという決まりがあったことでした。ほとんどが女性で行ってきたこの活動に、これをそのまま当てはめるには問題があり、どうするかとなったとき、「上棟式」はあくまでモチーフであり、「旅する家」ではそれをよく知った上で、「表現」としての「完成式」を行うという結論に至りました。

そこにある物をよく知った上で、自分たちなりの行い方を考える。その意識は、破魔弓や、幣束、上棟札を自分たちで制作した部分や、こいのぼりの吹き流しが5色の布飾りとなって家を彩った点、またお供え物の鯛は高価なので紙で代用した点、など「旅する家」の随所に見ることができます。これらは「上棟式」の模倣から発した、新しい「表現」だと私は感じています。

ゼロから何かを生み出すのは非常に困難ですが、このように「家」や「上棟式」などの形式があると、そこからさまざまなイメージが引き出され、形式を基礎にして、実際の形に落とし込むことができるようになります。実体化したそれぞれの要素やアイデアは些細な物ですが、それらの価値を丁寧に集め、見直す事を継続する中で、「みたことのないもの」が生まれてくるのだと思います。

「旅する家」の活動を通じて、「新しい価値」や「みたことのないもの」を生み出す。と語気強くこの文章で述べてきましたが、実際参加している皆さんは、すごく新しい事、みたことのない事をやっているという気持ちではなかったのではないでしょうか。確かにそれはその通りで、「旅する家」で今回私たちが生み出した価値は、本当にささやかで、吹けば飛んでしまいそうなものだと思います。

そこが「旅する家」が「芸術」というのにまだ足りないゆえんだと私も感じています。子供が子供にお菓子を撒いている点、本来は吹き流しのみなのに、家全体が全体が5色をあしらっている点、鬼門と裏鬼門を2本の手作り破魔弓で清めている点(常陸太田だと本来は鬼門の方向1本でよいそうです)など、よくよく考えると良い意味で「あれ?」と思えるような面白い点が実はたくさんあったというのが、今回の「完成式」でした。

今はまだ「何か普通と違うぞ。」というモヤモヤしている程度の要素が、この活動を続けてゆく中で、さらに育ってゆき、参加するみなさんや私自身が、何がこの活動は普通と違うのかということに、自覚的になって「表現」することができれば、さらに大きな価値と魅力がそこに立ち現われ、「芸術」と呼べるものになるのではないかと思っています。

前も述べましたが、私自身もまだ、ある「表現」が「芸術」となることが、本当に価値があるのかはわかりません。ただ、「表現」がそこを目指す事で面白いことが起きて行くのは間違いないでしょう。たとえそこがこの活動のゴールでなくとも、「芸術」を突き抜けて新たな価値を見出せるような、そんな活動にしてゆきたいと思っています。

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