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回転木馬(短編小説)


 たとえば目の前に一本のマッチ棒があるとする。
 それを見てあなたは何を考える?
「マッチ棒かぁ……」
 うーんと可愛く唸ったあと、彼女は鼻の頭を指で擦った。それから首をこてんと横に傾ける。
「マッチ棒さん、あなたは赤毛だから、エド・スミスね」
 考え抜いて出した答えはそれらしい。
「さぁ、ギターを鳴らして永遠の愛を歌ってごらん」
 なるほど。それはとんでもない皮肉だね、と言いたくなる気持ちをぐっと堪えて、彼女の持ってきたなんとかラム酒を飲み込んだ。
「やっぱり彼女っておもしろいよね」
 夫がわたしの顔を覗き込む。
「そうだね」 わたしは頷いた。
「この空想癖、きみにそっくり」
 ふぅん、それはちょっと軽薄かもね。という夫への言葉も飲み込んで、
「お手洗いに行ってきます」
 ふたりを残してリビングを出た。

「エド・スミスか……」
 わたしはトイレに行くふりをして、書斎に立て籠って呟いた。それから本棚に手を伸ばして古い天体の本を取り、胸に抱きしめる。これはわたしにとってのテディベア。
 頭に一本のマッチ棒を思い浮かべて、折り目のついたページをゆっくりめくった。
「わたしはきみのことを考えたから」
 640光年先の星を指で優しく撫でる。
「もうすでに爆発して死んでいるのかな?」
 640光年前の煌めきを今日見てる。
 ———コンコン
 書斎のドアが鳴り、あわてて鼻を啜った。
「大丈夫?」
 控えめに開いたドアの隙間から夫が顔を出す。
「わたしのこと、一番愛してる?」
 突拍子のない質問をぶつけてみると、
「もちろん一番だけど」
 迷う素振りを見せずに答えて、夫は書斎に入ってきた。そしてわたしの隣に静かに座る。
「本当に?」
「嘘なんかついたことないよ」
「じゃあ気のせいかな。あの人は『わたしが一番』みたいな顔をしているような気がするけれど」
「そう?そんな顔をしているのはきみのほうだと思うけど」
 夫はくすくす笑い、640光年先を撫でるわたしの手を掴んだ。
「あの人のほうがしてると思う」
 わたしはその手を握り返せない。
「セカンドなのにファースト守ってますみたいな顔してる」
「してないって」書斎に大きな溜息が溢れ落ちていく。
「彼女はセカンドパートナーなんだから。そのへんのルールはちゃんと理解しているよ」
 強く握られた手が痛い。

 誰とも結婚するつもりはなかった。
 永遠というものには疑問を持っていて、欲しいかと訊ねられればそれはさらに難問のはずだった。
「つまりこういうことなんだ」
 あの日、夫はミニチュアの回転木馬をわたしの前に差し出した。
「回り続けるんだよ」
 自分は建築模型士だから、ダイヤモンドの採掘はしなかった、とも言った。
「あなたが作ったの?」
「きみのためにね」
「これを?」
「うん、きみが話してくれた思い出のクリスマスを聞いて考えたんだ」
 あのつまらない話から、なにを考えたというのか。
「回転木馬は止まらない、僕もそういうことだと思ったからね」
 夫は得意のくすくす笑いをしたけれど、実のところ意味はよくわからなかった。
「でも素敵」
 誰よりもなによりも愛しい存在だと感じ、心から欲しいと願ってプロポーズを受け入れた。

 けれど今、夫にはセカンドパートナーがいる。
 巷で話題の〈新しい家族のかたち〉ということらしいけど、それを可能にするにはいくつかのルールがあるという。
 たとえば、お互いに家庭を持っていること。
 配偶者よりセカンドパートナーを優先しないこと、それからお互いの家族を大事にすること。
 そして絶対的な条件として、肉体関係を結ばないこと。でもそれ以外のスキンシップならなにをしてもいい。
「これは〈新しいかたち〉なんだ」
 物作りの達人である夫はいった。
「海外では流行ってるんですよ」
 セカンドパートナーの彼女もそういって、それからふたりは呪文を唱える。
 カジュアルデート、カジュアルセックス、フックアップカルチャーにセカンドパートナー、それからサブスクリプションにキャンセルカルチャーグローバルスタンダードでケーピーアイ、Y2Kカルチャーはナツカシクテエモイヨネ?
 そんな呪文を受けてわたしが言ったのは、
「新しい家族のかたち?クロマニョン人でもセカンドパートナーくらい作って妻を泣かせていたと思うけど」
 泣いて訴えて半年間、なにも変わらなかったのでいまでは受け入れている。
 納得はしていないけど、とりあえずセカンドパートナーはわたしの家庭を壊す気がないと思う。
 だからわたしもとりあえず夫のセカンドパートナーを傷つけないし、夫への愛も失っていない。
「マッチ棒から永遠の愛を歌うエド・スミス。その発想がすごいと思ったの」
 いじけた理由を説明すると、
「勝ち負けなんてないし、仲良くしてほしい。それに僕はエド・スミスを知らないよ」
 夫はくすくす笑った。

「大丈夫ですかぁ?」
 彼女は眉を八の字にして待っていた。
「うん、大丈夫だよ」
 わたしは夫の手を振り払い、キッチンに立って羊の肉を焼く。これは彼女の好物だから焼くしかない。でも本当は嫌。だってわたしはひつじ年だから、共食いするみたいで気持ち悪い。
「ちょっと仕事の電話をしてくるね」
 夫がベランダに出た。
「手持ち無沙汰なので、手伝います」
 彼女が立ち上がった途端に警報が鳴る。
 金属を引っ掻いたような嫌な音のあと、『侵入者!侵入者!侵入者!わたしのキッチンに侵入者!』
 というのは妄想だけど、でも心がそんな悲鳴をあげているのは本当で、それでも「ありがとう」とかすかに微笑んだ。
「あ、マッチ棒」 彼女が気づく。
 最近たまにガスの調子が悪くなる。だからそんな時はマッチ棒で火を付ける。わたしは簡単にそんな説明をした。
「それでさっきの質問かぁ〜」
「うん、エド・スミス」
 豊かな発想力だね、と羊をひっくり返しながらわたしが言うと、「でも最近、行き詰まっているんです…」と彼女はしょぼくれた。
 夫のセカンドパートナーは趣味で小説を書いている。
「同じ趣味があるから、仲良くなれますね」
 初対面の時の彼女の台詞は忘れない。
「この空想癖、きみにそっくり」
 今日夫がいったこの台詞は、共食いを嫌がるわたしへの皮肉を込めた冗談かもしれない。
「いくら書き直しても、同じ結末になってしまうんです……」
 サラダを盛り付けながら、彼女は話す。いま書いている小説のテーマはセカンドパートナーについてらしいけど、それは笑うところなのかわからなくて、わたしは黙って羊を焼き続けていた。
「何度書き直しても、同じ結末になってしまうんです。つまりふたりはセカンドパートナーの絶対的なルールを破ってしまう。そうならないように書いているつもりなんですけどね、本当に。でも結局は愛し合ってしまうんです……」
 不思議だな、と嘲笑する彼女に見えないように目を擦る。それでも羊がぼやけていくのでわたしはまた書斎に立て篭もることにした。

「爆発したのかな……」
 640光年先の星を撫でていると息が苦しくなってきて、これはあれかな、また過呼吸かなと思う。
「苦しい……死んじゃう……」
 この半年で何度も繰り返しているからそんな風には焦らない。
 本棚の奥から常に用意してある自作の〈過呼吸セット〉を手に取った。
 中には紙袋とタオル、それから間違えて購入した酸素ボンベが入っている。
「過呼吸になると不足するのは二酸化炭素だから酸素ボンベは意味がない」
 夫にそう聞くまで知らなくて、「また苦しくなったときのために買っておこう」とドラッグストアで手に入れた。
「わたしって本当にばかだな…」
 紙袋を口に当て、酸素ボンベを見つめていたら涙が止まらなくなってきた。でもさすがにこれは辛気臭いにもほどがあると思って仰向けに寝転んでみる。すると今度は棚の一番上にある埃だらけの回転木馬が目に入った。
「夫のすべらない話し、あの人は新鮮そうに笑っていたな」
 夫が作った回転木馬を見てそんなことを考える。
 でもそれはね、わたしはもう十回笑ったよ。最近は笑ってないけどね、と思う。
 それに夫がいう冗談をあなたは新鮮そうに笑ってみたりするけれど、わたしは五年前にもう笑ったの、と思い、たしかにいまはもう笑っていないけど、と涙が出て、「でもわたしが笑ったものには変わりないよね?」と苦し紛れにひとりごとを言ってみる。
 あなたはわたしから回ってきたおさがりを楽しんでいるだけ。もうすべて錆びついているの、とおかしなマウントを取り続けていたらそのうち呼吸が整ってきて、すると突然、閃いた。
「羊と酸素、ベテルギウス……」
 そんな結末もありかもしれない。

「想像力の欠如じゃない?」
 リビングに戻ったわたしは、何度も同じ結末に辿り着いてしまうとしょんぼりしていた彼女に言ってみた。電話を終えた夫もいたので、「もっと想像力を膨らませなきゃ」と明るく言ってみる。
「ちょっとこっちに来てみて」
 ふたりをキッチンに呼ぶ。
「この小麦粉で、何を考える?」
 羊の肉にまぶすために出してあった小麦粉を手に取って、彼女に見せた。
「小麦粉かぁ……」
 うーんと可愛く唸ったあと、彼女は鼻の頭を指で擦って首を傾ける。そして言う。「雪!」
 自分だって大したことは考えられないくせに彼女のことを安直すぎるなんて思ったけれど、もうなんでもいいからそれでいこう。
 わたしはキッチンに小麦粉をばら撒いて、でもこれでは足りないと思って買い置きしてある小麦粉をパントリーに取りに行き、キッチンに戻ってすべての小麦粉をばら撒いた。
「ほら、雪国だよ」
 茫然としている夫と彼女に言ってみる。
「どうしたの?遊ぼうよ」
 わたしは焦げている羊の隣に小さなかまくらを作ってみせた。それからいくつかの雪だるまも作ってみせたけど、その途中で「ここはクリスマスの日のデパート前かもしれない」と思いつき、手当たり次第のものを使ってどうにかそれらしくしてみせた。でもあれがない。
「時々こんなふうになるけど悪い人じゃないんだよ」
 夫はわたしの奇行を彼女に説明しているところだったけど、「あの、お話中に悪いんだけど、書斎から回転木馬を持ってきてくれる?」とわたしが頼むと従った。

「完璧ね」

 埃の被った回転木馬を雪の上に座らせて、わたしは幼き日のことを思い出す。
 あれはクリスマスの日、デパートの前。
 その日だけの回転木馬が現れて、子供たちがスキップしながら群がっていた。そして偽物のサンタクロースにお金を払って馬に乗る。
「行ってらっしゃい」
 あの痩せっぽっちのサンタクロースはわたしの五百円玉で何を買うつもりだろう。手を振り返しながらわたしはそんなことを考えていた。
「行ってらっしゃい」
 あ、まただ。痩せっぽっちのサンタクロース。どうしてまたそこにいるの?
「行ってらっしゃい」
 あ、まただ。痩せっぽっちのサンタクロース。どうしてまたそこにいるの?
「回ってるんだ。ずっとずっと回ってるんだ」
 新しい景色なんてどこにもないみたいにずっとずっと回ってる。ぐるぐるぐるぐる止まらない。
「640光年後にもあの赤い星はあるのかな?」
 クロマニョン人だってそんなことを思っていたかもしれないね。
「時代は変わったなあ」
 と言った上司がそのあとすぐに、
「天下獲るぞ!」
 と急に江戸になったりするのと同じかも。
 それにしてもよくもこんなわけのわからない話しから、あのプロポーズに結びつくなと感心し、でももしかしたら彼の皮肉を込めた冗談だったのかもしれないな?なんてことも考えた。
 でもやっぱり素敵。
「大丈夫ですか?」
 眉八の字のこの人も、回転木馬に乗っている。
「うん、大丈夫だよ。それよりここでエド・スミスに永遠の愛を歌ってもらわない?」
 わたしは転がっているマッチ棒を拾い上げ、彼女に渡す。
「ねぇ、実はわたしも書いてみたよ、セカンドパートナーの小説」
 きっとわたしたちの視点はまったく違うものだと思うけど、何度書き直しても同じ結末に辿り着いてしまうという彼女の苦悩はよくわかる。
「もうやめようよ」
 わたしたちが仲良くすることを望んでいるはずの夫がいうから可笑しくなった。それは彼女も同じだったみたい。
「とことんやりましょう」笑いながら言う。
「そうこなくちゃね」わたしも笑った。
 それから持っていた酸素ボンベで雪を舞い上がらせる。
 キラキラキラキラはしていない。
 本物の雪じゃないから当たり前だけど、なんだか素敵。
「エド・スミスさん、最高だね」咳き込みながらわたしは言った。
「えぇ、最高です。帰ったらすぐに小説に書いてみます」
 彼女も咳き込みながらいったけど、それは無理かな。だってわたしたちは羊だよ。
「ねぇねぇ、ちなみにだけど、わたしは羊を空想したよ」
 頭から自分の身体に白い粉を擦り付け、それから彼女にも同じように頭から白い粉を擦りつけ、「ほら、真っ白で羊みたいでしょ?」とわたしはいった。
「マッチ棒の頭はね、赤い星」
 エド・スミスってだれ?本当はわたしも知らないの、と笑いながらマッチを擦って火をつける。
「赤い星?」
 いつのまにかキッチンを遠巻きに見ていた夫が慌てた様子で駆け寄ってくるのが見えたけど、新しい形を作り上げられなかったことをお知らせしたほうが良さそうだから、ベテルギウスの粉塵爆発は止まらない。
「回転木馬は止まらない、わたしもそういうことだと思ったの」
 夫に告げてわたしは赤い星に酸素を送り出し、「宇宙に酸素がないのはさすがに皮肉かな」とくすくす笑って燃えていく。

(了)


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