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逃げる夢(短編小説)#シロクマ文芸部


 逃げる夢の話をするように。あるいはどこかの国の神話のように曖昧さを物語り、相手に何通りもの解釈を許す。
 心理カウンセラーと話していた。
「絶海の孤島に眠り続けているんです」
 灰色のスーツは清潔だけど長い爪はあまり清潔感を感じない。細い手首にはめられている高級そうな腕時計は、艶のある黒い皮が妙な威圧感を放っていておそろしい。
「絶海の孤島?何の話かしら」
「神話の話です」
 脈略のない話を繰り返しているので彼女は呆れている。ため息ともならない鼻息を吐き出して、「それで?」とわたしをじっと見る。
「ふたりは夢の中で会い続け、五十人の子供を作ります。でも純潔なんです。だって、夢の中だから…」 じっと視線を落とし、思い詰めたようにわたしは言った。
「なるほどね」
 彼女は適当な相槌をうち、今度はしっかりとため息を吐き出して、「他に話したいことはある?」とまた訊いてくる。爪で机を叩きながら。十六時二十分を知らせる腕時計で威圧して。
「ジ、ジーザス Christ………」つい吐き洩らす。
 彼女は怒った。軽々しく口にしてはいけません、と低く唸って長い沈黙を落とす。
 カチ、カチ、カチ、と教室に響く音。
 針なのか、爪なのか、どちらにしても水戸黄門の再放送にはもう間に合わない。
「また来週、話しましょう」
 と彼女が呆れた声で言ったので、
「来週は純潔を守る会の活動がありますが…」
 と恐る恐る言いかけたけど———迷う。
〈a、校内のミニ礼拝堂で神聖なる活動をする〉
〈b、教室(独房)で威圧的に心理を探られる〉
 どちらにしようかな、神さまの言うとおり、あべべのべ、鉄砲うって、ばん、ばん、ばん…ってなんか怖いよなあと考えていたら、答えを出すのを忘れてしまった。
 また明日考えよう、で逃げることにする。
 神はいると思っているし、神はいないとも思っている。クリスマスライトにうっとり視線を彷徨わせることもあるし、目がチカチカして鬱陶しいとキレそうになることもある、と同じようなことかもしれないということもまた明日考える。

「志帆ちゃん!」
 校門で待ち構えていた光ちゃんに声をかけられて、「何を話した?」とたずねられたから、「羊飼いの夢」と答えると、「ウユニ行く?」と誘われたのでわたしは頷いた。
 光ちゃんはわたしと同じ。信者ではない。
 わたしたちが通っている学校は信者であるなしにかかわらず、試験に受かれば中等部から入学できる。希望すれば在学中に洗礼も受けられるけど今のところはまだ希望していない。高等部に上がって希望することもあるかもしれないが、この学校に入学することを命令してきた親は仏教徒という矛盾を抱えていて「十四歳なんだから今はまだポムポムプリンを信じていればいい」と父は言う。よくわからないけどきっと洗礼を希望しないということなのだろう。
 光ちゃんも同じ。「主はみなさんと共に」と言葉を受けて「また司祭とともに」ときちんと返したり、「こんにゃくは味がしない気がする」とたまに小声で返したりする。
「だれもいないかな?」
「もうだれも行かないよ」
「ウユニなんて呼んでいたのにね」
「でもウユニじゃないからしかたないよ」
 わたしたちが話しているのは学校の裏にあるきたない池のことだった。
 もちろんそれは偽物なので空の青さは映さずに、踏み潰されてカピカピに干からびた蛙の色を映している。湖でもない。けれど夜は星影を映すと話す人がいた。「偽物だけどウユニかな」とその人が囁くとただの小さな蛙色の池は瞬く間に煌めき出して、一部の女子生徒達は夢中になった。
 でももう誰も近寄らない。
 いまだにこんな所に来ているのはわたしと光ちゃんだけであり、狂人扱いされてそのうちあの心理学者に迫害されるのかもしれない。
「光ちゃんは何を話したの?」
 蛙色を見つめながら、訊いてみた。
「きのう詠んだ詩を読んだ」
「よんだよんだ?」
「からかってる?」
「ごめん、どんな詩?」
「どんなって、毎日を神秘的な恍惚のなかで夢のように過ごす処女の異常性について、曖昧に。百合の花が綺麗だと見惚れていたら黒だった、これはカラスが死んだ夢なのか、とか」
 それが詩なのか大いに疑問ではあるけれど、あったこととなかったことである。そしてこれから起こりうることでもあるかもしれない。それを詩に似た曖昧さで綴るとはなんと哀れなことかと考えて、かすかに感じていた揶揄嘲笑の明文化は避けることにし、「わかる」とだけ言った。
 ウユニが人気だった理由を語るとしたら、かろうじてウユニに似ているから、というひとつの理由では語れない。むしろそれは理由ではない。
 池の近くには、ひとつの小屋があった。
 ひっそりと、ぽつんと、小さな森に囲まれて、まるでホグワーツ城にある禁じられた森の番人が住むような、実際はそれよりももっとみすぼらしくて粗末なものだったけど、住んでいたのは大男ではなく、神話のなかにいるような羊飼い——つまり美しい青年だった。
 それをおかしい、と誰も考えなかったことがそもそもおかしいことだった。
 何故若い男があんなところにひっそりぽつんと住んでいる?
 その何故をあまり深く考えなかったのは、光ちゃんの詠んで読んだ詩によれば、神秘的な恍惚のなかで夢のように過ごす処女の異常性ということらしい。
 無礼で大袈裟な表現だとは思う。
 けれど事実としてこの池には何人もの女子生徒が熱心に集まっていた。
 男の素性も知らず、死ぬまでに見たい絶景リストの上位に位置づけされているような場所の名でこの池を呼び、盲目的なまでに一途な思いで精神と肉体をとろけさせ、一種の熱病に侵されていた、とも捉えられるし、これが信仰かと思わせるような勢いもあった。
 けれど、羊飼いはもういない。
 素性を暴かれ——おそらく、わたしたちの守護天使を気取った大人に追い出されたのだと思う。
 そして誰もが幻想を捨てた。
 人殺しという大罪歴を持つ男に恋をしたということを、「神はゆるしてくださいますか……」と涙ながらに懺悔する生徒が幾日にも続いて神父の前に列をなす。列をなさない生徒、つまり信者ではない人間はなかなか神父のところに行ったりはせず、強制的に校内カウンセリングを受けさせられた。そのなかで凌辱を受けたのではないかと疑われたりもして、そんな恐れのある人だったのか、とその時に初めて気づく。言い知れない不快感が心に棲みついて、そのうちにあの人から逃げる夢をみるようになる。
 たとえば———舞台は小さな森の中。
 樫の杖で殴り殺そうと追いかけてくる羊飼いから逃げ回っていると、羊飼いは投石袋からタンザナイトを投げつけてくる。それがあまりにも美しいからそのひとつを口に咥えて運ぶことにした。「石のなかをのぞきこめ!」と羊飼いが叫ぶ。「インクルージョンのない石のほうが価値があるんだ!」という言葉は処女信仰と同じだろうか?と飛躍した考えなどをしていると、大きな杉の木にぶつかってしまう。その木肌には〈M&M FOREVER〉と傷がつけられていて、チョコレートが好きなのかもしれないと考える。でもマリアさん&マリオさんの可能性もある。それからその横には〈人妻です さみしいです Tel 070-1X9X-1013〉と書かれたおたずねものポスターのようなものが貼られているから、だれか電話してあげたのだろうかと変な心配をする。そうこうしているうちに羊飼いの足音がどんどんと近づいてきて、考えるより走れ、と再び走り出すがいつの間にか池の前にいる。投石袋から特大のタンザナイトが飛んできて、綺麗だなと思う前に足がもつれて池の中に落ちてしまう。でも水は掻けない。掻いたことがないから。咥えていた石が喉にぶつかって苦しいから。それに毛が重たいから。星影を映す水面にぶくぶくと浮かび上がる泡沫と綿毛のようなものを見て「毛刈りしておけばよかったなあ…」と後悔しながら溺れ死ぬ。
「そんな夢を見たんだよ」
 と光ちゃんに言ってみた。自分はそんな〈逃げる夢〉を見る人になれたのだ、と優越感を込めた言い方になってしまったかもしれない。
「何が言いたいの?」
 光ちゃんはうつむいて、ウユニの周りに生えた雑草をぷちぷちと引き抜きながらつまらなそうに言う。「あの人への恋心はもうなくなったって言いたいの?」
 うん、と答えた。
「カウンセリングで話すつもり?」
 そうするかも、と答えた。
 ばかみたいかもしれない。単なる夢の話でカウンセラーが何かの良し悪しを図るわけではないと思う。逃げる夢を見たと話したところで、「また来週話しましょう」といい加減うんざりの再会予告を言い渡される可能性はある。それでも恋心がなくなったことを証明すれば……という期待があった。
「志帆ちゃん、わたしが逃げる夢を見るようになるまで待ってくれない?」
 水曜日に毎週カウンセリングを受け続けているのはもうわたしたちだけだったので、光ちゃんがそんなことを頼む気持ちは理解できる。
「おねがい」
 光ちゃんは膝を抱えてうずくまり、おねがい、おねがい、おねがい、と三回繰り返した。
「なるべくはやく見てね?」
 と言うしかない。光ちゃんはすぐに泣く。
「メアリ博士の話しをする?」
 泣いている光ちゃんを励まそうと思って声を掛けてみた。
「彼の脳をスライスしたいのです……七枚に……」
 唐突に光ちゃんが発した言葉の語尾には芝居がかった余韻が残る。メアリ博士の台詞だからだ。
「あれは言っちゃだめだったよね」
 光ちゃんが鼻をすすりながら言う。
「かもね」とわたしは曖昧に返した。
「でもどうして言ったと思う?」と問うと、「あのゾンビと寝てるから」と間髪容れない返答がきて、つい笑いを堪えきれずに吹き出した。
「恐ろしいよね」
 といったあと、光ちゃんも顔を上げて笑い出す。まるで天使が吹き鳴らす栄光のラッパのように。

 ◇◆◇◆

 一週間迷った挙句、結局どちらに出席するべきか決めかねた。
「どうしましょうか」とたずねる。
「純潔を守る会に出席したあとに、カウンセリングを受けにきなさい」
 カウンセラーからそんな指示を受け、「あなたはカウンセリングが先」と言われて、「はい」といつになく素直に頷いた光ちゃんを横目に、わたしは急いで校内にある礼拝堂に向かう。
「カウンセリングを受けるので早めに切り上げてもいいですか」
 わたしが断りを入れに行くと、正面の壁にかけられたキリスト像の前で、純潔を守る会の会長は腕組みをした。
「まだあれをやってるの?」
「はい、やってます」
「真面目にやってる?」
「はい、大真面目です」
「じゃあどうしていつまでも終わらないの」
 さあ、と首を傾げて、「会長は偉いなあ」と感心した。信者は強い。皮肉じゃなくて。あんなにも羊飼いに心酔していたというのに、たった一度の懺悔で立ち直ってご立派だ。
「さあ、じゃないわよ」
 会長は許可するとも許可しないとも言わずにわたしの肩を押し、時刻ぴったりに礼拝堂に純潔の輪を作り始めた。
「今日の訓練は、誘惑」
 ため息とも取れそうな会長の鼻息で、燭台からひとつの火が消えていく。薄い煙がたゆたう姿はいつみてもなんだかおそろしい。

「今日は親の帰りが遅いから、うちに遊びに来ない?」
 純潔の輪の中で、女子生徒が誘う。
「いえ、ご両親がいるときにお訪ねします」
 同じく純潔の輪の中で、妙に堅苦しい断りの台詞を男子生徒が返す。

 パチ、パチ……パチ…とまばらな拍手が男子生徒に送られた。「ナイス断り!」や「ナイス誘惑跳ね返し!」ということだ。茶番かもしれない。でもこの茶番劇は優秀な大学に入るために行われており、スポーツで優秀な成績を取れそうにもない生徒は、このような神聖なる課外活動で内申書の点数を稼がなかればならなかった。もちろん中には信仰心から真剣に活動に励んでいる生徒もいる。けれど半数近くはノルマをこなしているだけなので、あくびを噛み殺しながら誘い文句も断り文句も抑揚のない口調で言い放つ。それが我が校の純潔を守る会。うわさによれば、高等部はもっと身を捩るような熱意ある活動をしているらしい。
「次は、佐藤さん」
 思ったよりもはやく自分の番が回ってきたので慌ててしまう。会長はわたしに許可するとも許可しないとも言わなかったので、てっきり意地悪をされて最後の方に指名されるかと思い込み、誘う言葉を考えていなかった。
「えーっと……」
 親が旅行中なんだけど…とか天からの贈り物みたいな言葉を適当に言えばいいだけなのに、悪い言葉ばかりを思いついて輪の中心で固まっている。なんだかやりきれない気持ちになっていた。
 この後にまたあのカウンセリングを受けるのかと思うとだれかを呪いたい気持ちになってくる。いつ〈逃げる夢〉を見るだろう? と考えると鬱々としてきて、どうして大勢の前で好きでもない男の子を誘ったりしないといけないのか? と今さらこの活動のおかしさについて考えてみたりする。
 純潔の輪を見守るキリスト像。
「どんな夢を見た?」
 と会長のことを責めた目でみている気がする。
 その隣と隣と隣の人にも同じことをたずねていって、
「どんな夢を見た?」
 とわたしに問う。
「夢の中なら純潔ですよね?」
 と答えになっていない返事を妄想していた矢先、礼拝堂に遅れてやってきた光ちゃんがこんなことを口にする。「ファックする?」
 形骸化された風習を守る会のみなさんが、くすくすくすくすと笑い出す。会長だけは首から下げたロザリオを握って悲鳴を上げた。やっていられないと思った。本当に、やっていられない。
「どうしてあんなこと言うの?!」
 礼拝堂の外に光ちゃんを引っ張り出して、カトリック校御用達カウンセラー並みの威圧感で詰め寄った。「またおかしいと思われちゃうよ!」
「ごめんごめん、なんか苛々しちゃって」
 光ちゃんは頬の皮をわずかに動かした。笑いたいのか、泣き出したいのか、よくわからない表情だった。どちらにしても、もう無理だと思う。
「もう光ちゃんには付き合えない」
 手短に決別を告げる。
 神秘的な恍惚のなかで夢のように過ごす処女の異常性? そんなものは単なるナルシズムに顔を赤らめて酔っているだけで、いつまでもそんなものには付き合っていられない。
「どうして?」
 と光ちゃんは言った。立ち去ろうとするわたしの腕を掴む。
「光ちゃんはおかしいから」
 とわたしは言って、光ちゃんの手を払う。「もう同情できない。メアリ博士の映画の話しももうしてあげない。人殺しが好きだった映画のことをいつまでもいつまでも宝物みたいに話すなんて気持ち悪い!」
 一気に吐き捨てた。すぐに罪悪感が襲ってきたけどこれでいいと思った。
 これからあのカウンセラーに話しに行こう。
 逃げる夢のことを話して、恋心を抱いていないことを証明し、水戸黄門の再放送に間に合うように帰ってやる。そしてあの紋所をこの幻視を一瞬でも映した腐った目に入れ世直し人直しについて考える。そしてこの腐敗した脳で必死に思考を巡らせて、「控えおろう!」の言葉を聞くまで自分の腕が真っ赤になるほどつねりつづける。そうだ、今度の純潔を守る会で言ってみよう。「親の帰りが遅いから、うちで水戸黄門をいっしょに見ない?腕をつねりっこして遊ぼうよ」と誘ってみることにする。
「嘘つき」
 立ち去ろうとするわたしに、光ちゃんが言う。
「本当は〈逃げる夢〉なんて見てないくせに」
 はっとして振り返ってみると、光ちゃんは涙をぽろぽろと落としている。
「夢の話っていうのはもっと曖昧なものだよ」
「何が言いたいの?」
「志帆ちゃんの夢の話は覚えすぎていて・・・・・・・、嘘だってことがすぐにばれるってことが言いたいの」
 ぐしゅん、ぐしゅん、と鼻を啜る光ちゃんになにかを言い返そうと口を開いたが、「カウンセラーに言われたんだよ」と光ちゃんが先に言う。
「小さな森で逃げ回る羊の夢のこと、話してみたの」
 どうやら光ちゃんは泥棒らしい。わたしが先週話した夢物語を盗み取り、それを使って先にカウンセリングから抜け出そうと目論んだのだ。
「たしかに変だよ」と夢泥棒が言った。「樫の杖とかタンザナイト?とか木に掘られた言葉とか、人妻の電話番号を覚えているのもおかしいよ」
 礼拝堂から人がぞろぞろと流れてくる。純潔会合が終わりを迎えたらしいけどそれはあまり気にせずに、「嘘だとばれたの?」と問うと、「やっぱり嘘だったの?」と問い返された。
「夢の話にしてははっきりしたお話ねってあの女は鼻を鳴らしてた」
 と光ちゃんは言った。「それに、逃げる夢を見ていて苦しいなら余計カウンセリングが必要だって」
 礼拝堂から出てきた人たちは、わたしたちを見てくすくす笑う。哀れみの眼差しを向けられるよりはいいと思うことしてあまり気にしない。
「恥をかかされたよ」
 と人の夢を泥棒したくせにそんな言い草をして、怒りを込めた涙をぼろぼろと撒き散らしながら、「きのう本物の・・・逃げる夢をみた」と光ちゃんも見物人を気にすることなく話し始めた。
「すごく怖い夢だったよ。だけど起きた時には何に追いかけられていたのかよくわからなかった。舞台設定もよくわからなかったし、その人が何を持って追いかけてきているのか、それとも何も持っていないのか、それからわたしはどんな姿で逃げているのか、死ぬ時に自分がなにを思って死んでいくのか、はっきりとは覚えていなかった」
 でもきっと神に追いかけられていた、と言葉を結び、光ちゃんは泣き崩れてしまった。
「その霞んだ夢を話せばよかったのに……」
 とわたしは言いかけたけど、
「なかには夢をはっきり覚えている人もいるんじゃない?」とぽそっとつぶやくだけにして、わたしは——メアリ博士のことを考えていた。
 メアリ博士はゾンビ研究所の科学者で狂気じみた人だった。「B級ゾンビ映画」とどこかの映画サイトに書かれているのを見たことがある。
 たしかにゾンビの顔は所々絵の具がはげていて、ゾンビの臓器を切る描写もベーコン味のゼリーを切っているような安っぽい映像であり、それからメアリ博士はあらゆる道徳感・倫理観に反した行動(内容はつまらないので割愛)を取ってしまうが、学校ではカインとアベルなどを読んでなにかを考えたりする授業があったので、狂気にはすこし慣れていたのかもしれない。
 あの人はメアリ博士のことを、何度も何度も繰り返し愛おしそうにわたしたちに話した。
『なんてこと!また恋人にフラれてしまったわ!きっとわたしの人生が上手くいかないのはイカれた研究者だからじゃない!何人もの人間を食べた罪で死刑宣告されたゾンビにでも同情してしまうようなイカれた人間だからだ!』
 というのがメアリ博士の最後の台詞であり、メアリ博士はそう言い残すとゾンビにメスを与えて自分のあらゆる部位を切らせてしまう。しかもゾンビはそれを食べる。
「メアリ博士が自分を嫌って涙して、最後の台詞を泣き叫ぶあの姿が狂おしいほど愛おしい——」
 と神を讃えるようにして、あの人は何度もメアリ博士のことを、まるで夢の話のように、どこかの国の神話のように曖昧に物語り、わたしたちに何通りもの解釈を許してくれた。
 まるでその姿は神父のようだった。けれど何回と耳にしたしきたりどおりの言葉をならべられるより、彼の唇から紡がれていく曖昧な音階が心地よく、体感する不思議に身をふるわせて、恋と信仰の曖昧な境界線を恐れることもなく、だれもが悦びに満ちて耳を傾けて、「メアリ博士のように狂おしいほど想われたい」という言葉があの池で飛び交うようになっていく。
 狂っている。 でもだれが?
「光ちゃん」
 泣くのに忙しそうだが、呼びかけてみる。光ちゃんは顔をあげない。うずくまって身体を小刻みに震わせていて、どうしたものかと考える。
「光ちゃん、わたしはね、夢をはっきり覚えているよ」
 と語りかけて、小さくなった背中を撫でてみた。
 それからささやく。夢のなかで両手に持っている銀色の刃が、月に照らされるとどれだけ美しい白色に発光するのかということや、岩だらけの絶海の孤島がどれだけ歩きづらいのかということも話したあとに、「こんな青色見たことない」と眠り続ける羊飼いの顔を見て感動し、毎晩神秘的な恍惚のなかで過ごしていることを教えてあげて、ふと、光ちゃんの背中を撫でる自分の手が震えていることに気づく。頬が濡れている気もするので、もしかしたらわたしも泣いているのかもしれない。
「毎晩?」
 と光ちゃんが顔をくしゃくしゃにしてわたしを見上げた。ほっとしたようだった。
「はやく逃げる夢が見たいね」
 とわたしは鼻を啜って優しく声をかけ、「きっと神に追いかけられていた」と涙ながらに光ちゃんが話した本物の逃げる夢を泥棒し、それをどれだけあのカウンセラーの前で曖昧に物語ろうかと企んだ。—というのもきっといつまでもわたしの逃げる夢は変わらずに、あの蛙色の池のように偽物の夢のままだと思うから。

(了)


 よろしくおねがいします:*:゚・☆︎ヾ(・_・。)

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